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福翁自伝 / 大阪修業・母と直談

ソコデ私は独り考えた。「是れは迚も仕様がない。唯頼む所は母一人だ。母さえ承知して呉れば誰が何と云うても怖い者はないと。ソレカラ私は母にとっくり話した。「おッ母さん。今私が修業して居るのは斯う云う有様、斯う云う塩梅で、長崎から大阪に行て修業して居ります。自分で考えるには、如何しても修業は出来て何か物になるだろうと思う。この藩に居た所が何としても頭の上る気遣はない。真に朽果つると云うものだ。どんな事があっても私は中津で朽果てようとは思いません。アナタはお淋しいだろうけれども、何卒私を手放して下さらぬか。私の産れたときにお父ッさんは坊主にすると仰しゃったそうですから、私は今から寺の小僧になったと諦めて下さい」。その時私が出れば、母と死んだ兄の娘、産れて三つになる女の子と五十有余の老母と唯の二人で、淋しい心細いに違いないけれども、とっくり話して、「どうぞ二人で留主をして下さい、私は大阪に行くから」と云たら、母も中々思切りの宜い性質で、「ウム宜しい。「アナタさえ左様云て下されば、誰が何と云ても怖いことはない。「オーそうとも。兄が死んだけれども、死んだものは仕方がない。お前も亦余所に出て死ぬかも知れぬが、死生の事は一切言うことなし。何処へでも出て行きなさい」。ソコデ母子の間と云うものはちゃんと魂胆が出来て仕舞て、ソレカラ愈よ出ようと云うことになる。

書き下し

ソコデ私は独り考えた。「是れは迚も仕様がない。唯頼む所は母一人だ。母さえ承知して呉れば誰が何と云うても怖い者はないと。ソレカラ私は母にとっくり話した。「おッ母さん。今私が修業して居るのは斯う云う有様、斯う云う塩梅で、長崎から大阪に行て修業して居ります。自分で考えるには、如何しても修業は出来て何か物になるだろうと思う。この藩に居た所が何としても頭の上る気遣はない。真に朽果つると云うものだ。どんな事があっても私は中津で朽果てようとは思いません。アナタはお淋しいだろうけれども、何卒私を手放して下さらぬか。私の産れたときにお父ッさんは坊主にすると仰しゃったそうですから、私は今から寺の小僧になったと諦めて下さい」。その時私が出れば、母と死んだ兄の娘、産れて三つになる女の子と五十有余の老母と唯の二人で、淋しい心細いに違いないけれども、とっくり話して、「どうぞ二人で留主をして下さい、私は大阪に行くから」と云たら、母も中々思切りの宜い性質で、「ウム宜しい。「アナタさえ左様云て下されば、誰が何と云ても怖いことはない。「オーそうとも。兄が死んだけれども、死んだものは仕方がない。お前も亦余所に出て死ぬかも知れぬが、死生の事は一切言うことなし。何処へでも出て行きなさい」。ソコデ母子の間と云うものはちゃんと魂胆が出来て仕舞て、ソレカラ愈よ出ようと云うことになる。

現代語訳

そこで私は一人で考えました。「これはとてもどうしようもない。ただ頼むところは母一人だ。母さえ承知してくれれば、誰が何と言っても怖い者はない」と。それから私は母にじっくり話しました。「おっ母さん、今私が修業しているのはこういう有様で、こういう具合に、長崎から大阪へ行って修業しております。自分で考えるには、どうしても修業はできて、何か物になるだろうと思う。この藩にいたところで、何としても頭の上がる見込みはない。本当に朽ち果てるというものです。どんなことがあっても、私は中津で朽ち果てようとは思いません。あなたはお寂しいでしょうけれども、どうか私を手放してください。私が生まれた時にお父さんは坊主にするとおっしゃったそうですから、私は今から寺の小僧になったと諦めてください。」 その時私が出れば、母と、死んだ兄の娘で生まれて三つになる女の子と、五十余りの老母とたった二人で、寂しく心細いに違いありませんが、じっくり話して、「どうぞ二人で留守をしてください、私は大阪に行きますから」と言ったところ、母もなかなか思い切りのよい性質で、「うん、よろしい」と言い、私が「あなたさえそうおっしゃってくださるなら、誰が何と言っても怖いことはありません」と言うと、「おお、そうとも。兄が死んだけれども、死んだものは仕方がない。お前もまた他所へ出て死ぬかもしれぬが、生き死にのことは一切言うことなし。どこへでも出て行きなさい」と言いました。そこで母子の間はちゃんと話がまとまってしまい、それからいよいよ出ようということになりました。

解説

四面楚歌の中で福沢が頼ったのは母一人でした。誰が反対しても母が許せば動ける、と見定めて、まず最も大事な人を説得します。母のお順は、夫の遺志を知り、子の志を理解して、生死は問わないと送り出しました。藩の格式に縛られた中津では出世の道がなく、外へ出ることが唯一の道でした。意思決定には、全員の賛成ではなく、最も大切な一人の同意を得る順序がある。そのとき、覚悟を共有する言葉の力が、周囲の反対を無力にします。

この章句が説くこと

母覚悟説得手放す朽ち果てる決断

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