論語 / 衛霊公篇
子曰:「民之於仁也,甚於水火。水火,吾見蹈而死者矣,未見蹈仁而死者也。」
書き下し
子曰く、民の仁に於けるや、水火よりも甚だし。水火は、吾蹈みて死する者を見たり。未だ仁を蹈みて死する者を見ざるなり。
現代語訳
先生がおっしゃった。「民にとって仁は、水や火よりも大切なものだ。水や火は、踏み込んで死んだ者を私は見たことがある。しかし仁を踏み行って死んだ者は、見たことがない。」
解説
水と火は生活に不可欠だが、扱いを誤れば人を殺す。仁はそうではない。実践して死んだ者を見たことがない、と孔子は言う。危険が無く、しかも必要である。だから水火よりも大切だ、という論法である。実際的で、少し可笑しみもある言い方だ。ここには、仁を実践することの敷居を下げようとする意図がある。徳の実践は自己犠牲を伴い、損をするものだと思われている。孔子はそれを否定した。仁で死んだ人はいない、と。もちろん、仁を貫いて不遇に終わった人はいる。孔子自身がそうだ。それでも死にはしない。損得を心配して踏み出せない人に対して、最悪でも死にはしないと言っている。踏み出せない理由の多くは、実際より大きく見積もられた危険である。
この章句が説くこと
仁水火危険敷居実践
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