福翁自伝 / 長崎遊学・活動の始まり(2)
その時の一体の砲術家の有様を申せば、写本の蔵書が秘伝で、その本を貸すには相当の謝物を取て貸す。写したいと云えば、写す為めの謝料を取ると云うのが、先ず山本の家の臨時収入で、その一切の砲術書を貸すにも写すにも、先生は眼が悪いから皆私の手を経る。それで私は砲術家の一切の元締になって、何もかも私が一切取扱て居る。その時分の諸藩の西洋家、例えば宇和島藩、五島藩、佐賀藩、水戸藩などの人々が来て、或は出島の和蘭屋敷に行て見たいとか、或は大砲を鋳るから図を見せて呉れとか、そんな世話をするのが山本家の仕事で、その実は皆私が遣る。私は本来素人で、鉄砲を打つのを見た事もないが、図を引くのは訳けはない。颯々と図を引いたり、説明を書いたり、諸藩の人が来れば何に付けても独り罷り出て、丸で十年も砲術を学んで立派に砲術家と見られる位に挨拶をしたり世話をしたりすると云う調子である。処で私を山本の居候に世話をして入れて呉れた人、即ち奥平壹岐だ。壹岐と私とは主客処を易えて、私が主人見たようになったから可笑しい。壹岐は元来漢学者の才子で局量が狭い。小藩でも大家の子だから如何も我儘だ。もう一つは私の目的は原書を読むに在て、蘭学医の家に通うたり和蘭通詞の家に行ったりして一意専心原書を学ぶ。原書と云うものは始めて見たのであるが、五十日、百日とおい/\日を経るに従て、次第に意味が分るようになる。所が奥平壹岐はお坊さん、貴公子だから、緻密な原書などの読める訳けはない。その中に此方は余程エラクなったのが主公と不和の始まり。全体奥平と云う人は決して深い巧みのある悪人ではない。唯大家の我儘なお坊さんで智恵がない度量がない。その時に旨く私を籠絡して生捕って仕舞えば譜代の家来同様に使えるのに、却てヤッカミ出したとは馬鹿らしい。歳は私より十ばかり上だが、何分気分が子供らしくて、ソコデ私を中津に還えすような計略を運らしたのが、私の身には一大災難。
新字:その時の一体の砲術家の有様を申せば、写本の蔵書が秘伝で、その本を貸すには相当の謝物を取て貸す。写したいと云えば、写す為めの謝料を取ると云うのが、先ず山本の家の臨時収入で、その一切の砲術書を貸すにも写すにも、先生は眼が悪いから皆私の手を経る。それで私は砲術家の一切の元締になって、何もかも私が一切取扱て居る。その時分の諸藩の西洋家、例えば宇和島藩、五島藩、佐賀藩、水戸藩などの人々が来て、或は出島の和蘭屋敷に行て見たいとか、或は大砲を鋳るから図を見せて呉れとか、そんな世話をするのが山本家の仕事で、その実は皆私が遣る。私は本来素人で、鉄砲を打つのを見た事もないが、図を引くのは訳けはない。颯々と図を引いたり、説明を書いたり、諸藩の人が来れば何に付けても独り罷り出て、丸で十年も砲術を学んで立派に砲術家と見られる位に挨拶をしたり世話をしたりすると云う調子である。処で私を山本の居候に世話をして入れて呉れた人、即ち奥平壱岐だ。壱岐と私とは主客処を易えて、私が主人見たようになったから可笑しい。壱岐は元来漢学者の才子で局量が狭い。小藩でも大家の子だから如何も我儘だ。もう一つは私の目的は原書を読むに在て、蘭学医の家に通うたり和蘭通詞の家に行ったりして一意専心原書を学ぶ。原書と云うものは始めて見たのであるが、五十日、百日とおい/\日を経るに従て、次第に意味が分るようになる。所が奥平壱岐はお坊さん、貴公子だから、緻密な原書などの読める訳けはない。その中に此方は余程エラクなったのが主公と不和の始まり。全体奥平と云う人は決して深い巧みのある悪人ではない。唯大家の我儘なお坊さんで智恵がない度量がない。その時に旨く私を籠絡して生捕って仕舞えば譜代の家来同様に使えるのに、却てヤッカミ出したとは馬鹿らしい。歳は私より十ばかり上だが、何分気分が子供らしくて、ソコデ私を中津に還えすような計略を運らしたのが、私の身には一大災難。
書き下し
その時の一体の砲術家の有様を申せば、写本の蔵書が秘伝で、その本を貸すには相当の謝物を取て貸す。写したいと云えば、写す為めの謝料を取ると云うのが、先ず山本の家の臨時収入で、その一切の砲術書を貸すにも写すにも、先生は眼が悪いから皆私の手を経る。それで私は砲術家の一切の元締になって、何もかも私が一切取扱て居る。その時分の諸藩の西洋家、例えば宇和島藩、五島藩、佐賀藩、水戸藩などの人々が来て、或は出島の和蘭屋敷に行て見たいとか、或は大砲を鋳るから図を見せて呉れとか、そんな世話をするのが山本家の仕事で、その実は皆私が遣る。私は本来素人で、鉄砲を打つのを見た事もないが、図を引くのは訳けはない。颯々と図を引いたり、説明を書いたり、諸藩の人が来れば何に付けても独り罷り出て、丸で十年も砲術を学んで立派に砲術家と見られる位に挨拶をしたり世話をしたりすると云う調子である。処で私を山本の居候に世話をして入れて呉れた人、即ち奥平壹岐だ。壹岐と私とは主客処を易えて、私が主人見たようになったから可笑しい。壹岐は元来漢学者の才子で局量が狭い。小藩でも大家の子だから如何も我儘だ。もう一つは私の目的は原書を読むに在て、蘭学医の家に通うたり和蘭通詞の家に行ったりして一意専心原書を学ぶ。原書と云うものは始めて見たのであるが、五十日、百日とおい/\日を経るに従て、次第に意味が分るようになる。所が奥平壹岐はお坊さん、貴公子だから、緻密な原書などの読める訳けはない。その中に此方は余程エラクなったのが主公と不和の始まり。全体奥平と云う人は決して深い巧みのある悪人ではない。唯大家の我儘なお坊さんで智恵がない度量がない。その時に旨く私を籠絡して生捕って仕舞えば譜代の家来同様に使えるのに、却てヤッカミ出したとは馬鹿らしい。歳は私より十ばかり上だが、何分気分が子供らしくて、ソコデ私を中津に還えすような計略を運らしたのが、私の身には一大災難。
現代語訳
そのときの一般の砲術家の有様を申せば、写本の蔵書が秘伝で、その本を貸すには相当の謝礼を取って貸す。写したいといえば写すための謝料を取るというのが、まず山本の家の臨時収入で、その一切の砲術書を貸すにも写すにも、先生は目が悪いのでみな私の手を経ます。それで私は砲術家の一切の元締めになって、何もかも私が一切取り扱っています。そのころ諸藩の西洋家、たとえば宇和島藩、五島藩、佐賀藩、水戸藩などの人々が来て、あるいは出島のオランダ屋敷に行ってみたいとか、あるいは大砲を鋳るから図を見せてくれとか、そんな世話をするのが山本家の仕事で、その実はみな私がやります。私は本来素人で、鉄砲を撃つのを見たこともありませんが、図を引くことは簡単です。さっさと図を引いたり説明を書いたり、諸藩の人が来れば何につけてもひとり出て、まるで十年も砲術を学んで立派に砲術家と見られるくらいに挨拶をしたり世話をしたりするという調子です。ところで私を山本の居候に世話をして入れてくれた人、すなわち奥平壹岐です。壹岐と私とは主客ところを替えて、私が主人みたいになったからおかしい。壹岐はもともと漢学者の才子で、器量が狭い。小藩でも大家の子ですから、どうも我儘です。もう一つは、私の目的は原書を読むことにあって、蘭学医の家に通ったりオランダ通詞の家に行ったりして、一意専心に原書を学ぶ。原書というものは初めて見たのですが、五十日、百日とおいおい日を経るにしたがって、次第に意味がわかるようになる。ところが奥平壹岐はお坊ちゃん、貴公子ですから、緻密な原書などの読めるわけはありません。そのうちにこちらはよほど偉くなったのが、主君との不和の始まり。全体、奥平という人は決して深い企みのある悪人ではありません。ただ大家の我儘なお坊ちゃんで、知恵がなく度量がない。そのときにうまく私を籠絡して生け捕りにしてしまえば、譜代の家来同様に使えるのに、かえって妬み出したとは馬鹿らしい。年は私より十ばかり上ですが、何分気分が子供らしくて、そこで私を中津に還す計略を巡らしたのが、私の身には一大災難。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
史記 司馬穰苴列伝已にして大夫鮑氏・高・国の属之を害み、景公に譖る。景公、穰苴を退く。苴、疾を発して死す。田乞・田豹の徒、此れに由り高・国等を怨む。其の後、田常の簡公を殺すに及び、尽く高子・国子の族を滅ぼす。常の曾孫和に至り、因りて自立して斉の威王と為り、兵を用ゐ威を行ふに、大いに穰苴の法に放ひ、而して諸侯斉に朝す。
-
史記 孫子呉起列伝孫武既に死し、後百余歳して孫臏有り。臏は阿・鄄の間に生まる。臏も亦た孫武の後世の子孫なり。孫臏嘗て龐涓と倶に兵法を学ぶ。龐涓既に魏に事へ、恵王の将軍と為るを得たり。而れども自ら以為らく、能は孫臏に及ばず、と。乃ち陰かに孫臏を召さしむ。臏至り、龐涓、其の己より賢なるを恐れ、之を疾む。則ち法刑を以て其の両足を断ちて之を黥し、隠れて見る勿らんことを欲す。
-
『呻吟語』内篇・修身・真修と語る可し人と為りて善を揚ぐる者の心を復すること無く、惡を稱する者の口を實にすること無くんば、亦た以て真修と語る可し。
-
『初学訓』巻之五一人と才能を争ふべからず、人と威勢を争ふべからず、人の才あるを妬むべからず。おのれ立たんとして、人をも立つべし、我のみ立たんとすべからず。心けはしく、人を言ひ貶すは、人をそこなひ、物をやぶるなり。不仁と云ひつべし。
-
史記 白起王翦列伝韓・趙恐れ、蘇代をして幣を厚くして秦の相応侯に説かしめて曰く、「武安君は馬服子を禽にせるか」と。曰く、「然り」と。また曰く、「即ち邯鄲を囲まんとするか」と。曰く、「然り」と。「趙亡びば則ち秦王は王たらん、武安君は三公と為らん。武安君の秦の為に戦ひ勝ち攻め取る所の者は七十余城、南のかた鄢・郢・漢中を定め、北のかた趙括の軍を禽にす。周・召・呂望の功と雖もこれに益さず。今、趙亡びて、秦王王たらば、則ち武安君必ず三公と為らん。君能くこれが下と為らんか。これが下と為るを欲すること無しと雖も、固より已むを得ざらん。秦嘗て韓を攻め、邢丘を囲み、上党を困しむ。上党の民皆反りて趙の為にす。天下の秦の民たるを楽しまざるの日久し。今、趙を亡ぼさば、北地は燕に入り、東地は斉に入り、南地は韓・魏に入らん、則ち君の得る所の民は幾何人も亡し。故に因りてこれを割かしめ、以て武安君の功と為すこと無きに如かず」と。是に於いて応侯、秦王に言ひて曰く、「秦の兵労る、請ふ韓・趙の地を割きて以て和するを許し、且つ士卒を休めん」と。王これを聴き、韓の垣雍・趙の六城を割きて以て和す。正月、皆兵を罷む。武安君これを聞き、是に由りて応侯と隙有り。
-
人物志・釋爭前に在る者は然れば之を害せられ、功有る者は人之を毀り、毀敗する者は人之を幸とす。
人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る