福翁自伝 / 長崎遊学・活動の始まり(1)
夫れから長崎に行て、そうして桶屋町の光永寺と云うお寺を便ったと云うのは、その時に私の藩の家老の倅で奥平壹岐と云う人はそのお寺と親類で、其処に寓居して居るのを幸いに、その人を使ってマアお寺の居候になって居るその中に、小出町に山本物次郎と云う長崎両組の地役人で砲術家があって、其処に奥平が砲術を学んで居るその縁を以て、奥平の世話で山本の家に食客に入込みました。抑も是れが私の生来活動の始まり。有らん限りの仕事を働き、何でもしない事はない。その先生が眼が悪くて書を読むことが出来ないから、私が色々な時勢論など、漢文で書いてある諸大家の書を読んで先生に聞かせる。又その家に十八、九の倅が在て独息子、余りエライ少年でない、けれども本は読まなければならぬと云うので、ソコでその倅に漢書を教えて遣らなければならぬ。是れが仕事の一つ。それから家は貧乏だけれども活計は大きい。借金もある様子で、その借金の云延し、新に借用の申込みに行き、又金談の手紙の代筆もする。其処の家に下婢が一人に下男が一人ある。〔所で〕動もするとその男が病気とか何とか云う時には、男の代をして水も汲む。朝夕の掃除は勿論、先生が湯に這入る時は背中を流したり湯を取たりして遣らなければならぬ。又その内儀さんが猫が大好き、狆が大好き、生物が好きで、猫も狆も犬も居るその生物一切の世話をしなければならぬ。上中下一切の仕事、私一人で引受けて遣て居たから、酷く調法な男だ、何とも云われない調法な血気の少年であり乍ら、その少年の行状が甚だ宜しい、甚だ宜しくて甲斐々々しく働くと云うので、ソコデ以て段々その山本の家の気に入て、仕舞には先生が養子にならないかと云う。私は前にも云う通り中津の士族で、遂ぞ自分は知りはせぬが少さい時から叔父の家の養子になって居るから、その事を云うと、先生が夫れなら尚更ら乃公の家の養子になれ、如何でも乃公が世話をして遣るからと度々云われた事がある。
新字:夫れから長崎に行て、そうして桶屋町の光永寺と云うお寺を便ったと云うのは、その時に私の藩の家老の倅で奥平壱岐と云う人はそのお寺と親類で、其処に寓居して居るのを幸いに、その人を使ってマアお寺の居候になって居るその中に、小出町に山本物次郎と云う長崎両組の地役人で砲術家があって、其処に奥平が砲術を学んで居るその縁を以て、奥平の世話で山本の家に食客に入込みました。抑も是れが私の生来活動の始まり。有らん限りの仕事を働き、何でもしない事はない。その先生が眼が悪くて書を読むことが出来ないから、私が色々な時勢論など、漢文で書いてある諸大家の書を読んで先生に聞かせる。又その家に十八、九の倅が在て独息子、余りエライ少年でない、けれども本は読まなければならぬと云うので、ソコでその倅に漢書を教えて遣らなければならぬ。是れが仕事の一つ。それから家は貧乏だけれども活計は大きい。借金もある様子で、その借金の云延し、新に借用の申込みに行き、又金談の手紙の代筆もする。其処の家に下婢が一人に下男が一人ある。〔所で〕動もするとその男が病気とか何とか云う時には、男の代をして水も汲む。朝夕の掃除は勿論、先生が湯に這入る時は背中を流したり湯を取たりして遣らなければならぬ。又その内儀さんが猫が大好き、狆が大好き、生物が好きで、猫も狆も犬も居るその生物一切の世話をしなければならぬ。上中下一切の仕事、私一人で引受けて遣て居たから、酷く調法な男だ、何とも云われない調法な血気の少年であり乍ら、その少年の行状が甚だ宜しい、甚だ宜しくて甲斐々々しく働くと云うので、ソコデ以て段々その山本の家の気に入て、仕舞には先生が養子にならないかと云う。私は前にも云う通り中津の士族で、遂ぞ自分は知りはせぬが少さい時から叔父の家の養子になって居るから、その事を云うと、先生が夫れなら尚更ら乃公の家の養子になれ、如何でも乃公が世話をして遣るからと度々云われた事がある。
書き下し
夫れから長崎に行て、そうして桶屋町の光永寺と云うお寺を便ったと云うのは、その時に私の藩の家老の倅で奥平壹岐と云う人はそのお寺と親類で、其処に寓居して居るのを幸いに、その人を使ってマアお寺の居候になって居るその中に、小出町に山本物次郎と云う長崎両組の地役人で砲術家があって、其処に奥平が砲術を学んで居るその縁を以て、奥平の世話で山本の家に食客に入込みました。抑も是れが私の生来活動の始まり。有らん限りの仕事を働き、何でもしない事はない。その先生が眼が悪くて書を読むことが出来ないから、私が色々な時勢論など、漢文で書いてある諸大家の書を読んで先生に聞かせる。又その家に十八、九の倅が在て独息子、余りエライ少年でない、けれども本は読まなければならぬと云うので、ソコでその倅に漢書を教えて遣らなければならぬ。是れが仕事の一つ。それから家は貧乏だけれども活計は大きい。借金もある様子で、その借金の云延し、新に借用の申込みに行き、又金談の手紙の代筆もする。其処の家に下婢が一人に下男が一人ある。〔所で〕動もするとその男が病気とか何とか云う時には、男の代をして水も汲む。朝夕の掃除は勿論、先生が湯に這入る時は背中を流したり湯を取たりして遣らなければならぬ。又その内儀さんが猫が大好き、狆が大好き、生物が好きで、猫も狆も犬も居るその生物一切の世話をしなければならぬ。上中下一切の仕事、私一人で引受けて遣て居たから、酷く調法な男だ、何とも云われない調法な血気の少年であり乍ら、その少年の行状が甚だ宜しい、甚だ宜しくて甲斐々々しく働くと云うので、ソコデ以て段々その山本の家の気に入て、仕舞には先生が養子にならないかと云う。私は前にも云う通り中津の士族で、遂ぞ自分は知りはせぬが少さい時から叔父の家の養子になって居るから、その事を云うと、先生が夫れなら尚更ら乃公の家の養子になれ、如何でも乃公が世話をして遣るからと度々云われた事がある。
現代語訳
それから長崎に行って、桶屋町の光永寺というお寺を頼ったというのは、そのとき私の藩の家老の息子で奥平壹岐という人がそのお寺と親類で、そこに寓居していたのを幸いに、その人を使ってまあお寺の居候になっているうちに、小出町に山本物次郎という長崎両組の地役人で砲術家がいて、そこで奥平が砲術を学んでいる縁で、奥平の世話で山本の家に食客として入り込みました。そもそもこれが私の生来の活動の始まり。あらん限りの仕事をして、何でもしないことはありません。その先生は目が悪くて書を読むことができないので、私がいろいろな時勢論など、漢文で書いてある諸大家の書を読んで先生に聞かせる。またその家に十八、九の息子がいて一人息子、あまり優れた少年ではないけれども、本は読まなければならないというので、その息子に漢書を教えてやらなければならない。これが仕事の一つ。それから家は貧乏ですが暮らしぶりは大きい。借金もある様子で、その借金の言い延ばし、新たに借用の申し込みに行き、また金談の手紙の代筆もする。その家には下婢が一人に下男が一人いて、ともすればその男が病気とか何とかいうときには、男の代わりをして水も汲む。朝夕の掃除はもちろん、先生が風呂に入るときは背中を流したり湯を取ったりしてやらなければならない。またそのおかみさんが猫が大好き、狆が大好き、生き物が好きで、猫も狆も犬もいる、その生き物の一切の世話をしなければならない。上中下一切の仕事を、私ひとりで引き受けてやっていたから、ひどく重宝な男だ、何とも言えない重宝な血気の少年でありながら、その少年の行状がたいへんよい、たいへんよくてまめまめしく働くというので、そこで以て、だんだんその山本の家の気に入って、しまいには先生が養子にならないかという。私は前にもいうとおり、中津の士族で、まったく自分は知りませんが、小さいときから叔父の家の養子になっているから、そのことをいうと、先生は、それならなおさら俺の家の養子になれ、どうでも俺が世話をしてやるから、と度々いわれたことがあります。
解説
この章句が説くこと
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論語・憲問篇子曰く、『詐を逆(むか)えず、不信を億(はか)らず。抑も亦た先覚なる者、是れ賢か。』
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言志四録・南洲手抄信上下に孚す、天下甚だ処し難き事無し。
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