福翁自伝 / 長崎遊学
それから長崎に出掛けた。頃は安政元年二月、即ち私の年二十一歳(正味十九歳三箇月)の時である。その時分には中津の藩地に横文字を読む者がないのみならず、横文字を見たものもなかった。都会の地には洋学と云うものは百年も前からありながら、中津は田舎の事であるから、原書は扨置き、横文字を見たことがなかった。所がその頃は丁度ペルリの来た時で、亜米利加の軍艦が江戸に来たと云うことは田舎でも皆知て、同時に砲術と云うことが大変喧しくなって来て、ソコデ砲術を学ぶものは皆和蘭流に就て学ぶので、その時私の兄が申すに、「和蘭の砲術を取調べるには如何しても原書を読まなければならぬと云うから、私には分らぬ。「原書とは何の事ですと兄に質問すると、兄の答に、「原書と云うは、和蘭出版の横文字の書だ。今、日本に飜訳書と云うものがあって、西洋の事を書いてあるけれども、真実に事を調べるにはその大本の蘭文の書を読まなければならぬ。夫れに就ては貴様はその原書を読む気はないかと云う。所が私は素と漢書を学んで居るとき、同年輩の朋友の中では何時も出来が好くて、読書講義に苦労がなかったから、自分にも自然頼にする気があったと思われる。「人の読むものなら横文字でも何でも読みましょうと、ソコデ兄弟の相談は出来て、その時丁度兄が長崎に行く序に任せ、兄の供をして参りました。長崎に落付き、始めて横文字の abc と云うものを習うたが、今では日本国中到る処に、徳利の貼紙を見ても横文字は幾許もある。目に慣れて珍しくもないが、始めての時は中々六かしい。廿六文字を習うて覚えて仕舞うまでには三日も掛りました。けれども段々読む中には又左程でもなく、次第々々に易くなって来たが、その蘭学修業の事は扨置き、抑も私の長崎に往たのは、唯田舎の中津の窮屈なのが忌で/\堪らぬから、文学でも武芸でも何でも外に出ることが出来さえすれば難有いと云うので出掛けたことだから、故郷を去るに少しも未練はない、如斯処に誰が居るものか、一度出たらば鉄砲玉で、再び帰て来はしないぞ、今日こそ宜い心地だと独り心で喜び、後向て唾して颯々と足早にかけ出したのは今でも覚えて居る。
新字:それから長崎に出掛けた。頃は安政元年二月、即ち私の年二十一歳(正味十九歳三箇月)の時である。その時分には中津の藩地に横文字を読む者がないのみならず、横文字を見たものもなかった。都会の地には洋学と云うものは百年も前からありながら、中津は田舎の事であるから、原書は扨置き、横文字を見たことがなかった。所がその頃は丁度ペルリの来た時で、亜米利加の軍艦が江戸に来たと云うことは田舎でも皆知て、同時に砲術と云うことが大変喧しくなって来て、ソコデ砲術を学ぶものは皆和蘭流に就て学ぶので、その時私の兄が申すに、「和蘭の砲術を取調べるには如何しても原書を読まなければならぬと云うから、私には分らぬ。「原書とは何の事ですと兄に質問すると、兄の答に、「原書と云うは、和蘭出版の横文字の書だ。今、日本に翻訳書と云うものがあって、西洋の事を書いてあるけれども、真実に事を調べるにはその大本の蘭文の書を読まなければならぬ。夫れに就ては貴様はその原書を読む気はないかと云う。所が私は素と漢書を学んで居るとき、同年輩の朋友の中では何時も出来が好くて、読書講義に苦労がなかったから、自分にも自然頼にする気があったと思われる。「人の読むものなら横文字でも何でも読みましょうと、ソコデ兄弟の相談は出来て、その時丁度兄が長崎に行く序に任せ、兄の供をして参りました。長崎に落付き、始めて横文字の abc と云うものを習うたが、今では日本国中到る処に、徳利の貼紙を見ても横文字は幾許もある。目に慣れて珍しくもないが、始めての時は中々六かしい。廿六文字を習うて覚えて仕舞うまでには三日も掛りました。けれども段々読む中には又左程でもなく、次第々々に易くなって来たが、その蘭学修業の事は扨置き、抑も私の長崎に往たのは、唯田舎の中津の窮屈なのが忌で/\堪らぬから、文学でも武芸でも何でも外に出ることが出来さえすれば難有いと云うので出掛けたことだから、故郷を去るに少しも未練はない、如斯処に誰が居るものか、一度出たらば鉄砲玉で、再び帰て来はしないぞ、今日こそ宜い心地だと独り心で喜び、後向て唾して颯々と足早にかけ出したのは今でも覚えて居る。
書き下し
それから長崎に出掛けた。頃は安政元年二月、即ち私の年二十一歳(正味十九歳三箇月)の時である。その時分には中津の藩地に横文字を読む者がないのみならず、横文字を見たものもなかった。都会の地には洋学と云うものは百年も前からありながら、中津は田舎の事であるから、原書は扨置き、横文字を見たことがなかった。所がその頃は丁度ペルリの来た時で、亜米利加の軍艦が江戸に来たと云うことは田舎でも皆知て、同時に砲術と云うことが大変喧しくなって来て、ソコデ砲術を学ぶものは皆和蘭流に就て学ぶので、その時私の兄が申すに、「和蘭の砲術を取調べるには如何しても原書を読まなければならぬと云うから、私には分らぬ。「原書とは何の事ですと兄に質問すると、兄の答に、「原書と云うは、和蘭出版の横文字の書だ。今、日本に飜訳書と云うものがあって、西洋の事を書いてあるけれども、真実に事を調べるにはその大本の蘭文の書を読まなければならぬ。夫れに就ては貴様はその原書を読む気はないかと云う。所が私は素と漢書を学んで居るとき、同年輩の朋友の中では何時も出来が好くて、読書講義に苦労がなかったから、自分にも自然頼にする気があったと思われる。「人の読むものなら横文字でも何でも読みましょうと、ソコデ兄弟の相談は出来て、その時丁度兄が長崎に行く序に任せ、兄の供をして参りました。長崎に落付き、始めて横文字の abc と云うものを習うたが、今では日本国中到る処に、徳利の貼紙を見ても横文字は幾許もある。目に慣れて珍しくもないが、始めての時は中々六かしい。廿六文字を習うて覚えて仕舞うまでには三日も掛りました。けれども段々読む中には又左程でもなく、次第々々に易くなって来たが、その蘭学修業の事は扨置き、抑も私の長崎に往たのは、唯田舎の中津の窮屈なのが忌で/\堪らぬから、文学でも武芸でも何でも外に出ることが出来さえすれば難有いと云うので出掛けたことだから、故郷を去るに少しも未練はない、如斯処に誰が居るものか、一度出たらば鉄砲玉で、再び帰て来はしないぞ、今日こそ宜い心地だと独り心で喜び、後向て唾して颯々と足早にかけ出したのは今でも覚えて居る。
現代語訳
それから長崎に出かけました。ころは安政元年二月、すなわち私の年二十一歳(正味十九歳三か月)のときです。その時分には、中津の藩地には横文字を読む者がないばかりか、横文字を見た者もありませんでした。都会の地には洋学というものは百年も前からありながら、中津は田舎のことですから、原書はさておき、横文字を見たことがありませんでした。ところがその頃はちょうどペリーが来たときで、アメリカの軍艦が江戸に来たということは田舎でもみな知っていて、同時に砲術ということがたいへんやかましくなってきて、そこで砲術を学ぶ者はみなオランダ流について学ぶので、そのとき私の兄が申すには、「オランダの砲術を調べるには、どうしても原書を読まなければならない」というので、私にはわかりません。「原書とは何のことですか」と兄に質問すると、兄の答えに、「原書というのは、オランダ出版の横文字の書だ。今、日本に翻訳書というものがあって、西洋のことを書いてあるけれども、本当に物事を調べるには、その大本のオランダ語の書を読まなければならない。それについて、貴様はその原書を読む気はないか」という。ところが私はもとより漢書を学んでいるとき、同年輩の友人の中ではいつも出来がよくて、読書や講義に苦労がなかったので、自分にも自然と頼みにする気があったと思われます。「人の読むものなら、横文字でも何でも読みましょう」と、そこで兄弟の相談はまとまり、そのときちょうど兄が長崎に行くついでに、兄のお供をして参りました。長崎に落ち着き、初めて横文字のabcというものを習いましたが、今では日本国中いたるところ、徳利の貼り紙を見ても横文字はたくさんあります。目に慣れて珍しくもありませんが、初めての時はなかなか難しいものでした。二十六文字を習って覚えてしまうまでには三日もかかりました。けれどもだんだん読むうちに、また、さほどでもなく、次第に易しくなってきましたが、その蘭学修業のことはさておき、そもそも私が長崎に行ったのは、ただ田舎の中津の窮屈なのが嫌でたまらないので、文学でも武芸でも何でも、外に出ることさえできればありがたいと思って出かけたのですから、故郷を去るのに少しも未練はない。こんなところに誰がいるものか、一度出たら鉄砲玉で、二度と帰ってきはしないぞ、今日こそいい心地だとひとり心で喜び、後ろを向いて唾を吐いて、さっさと足早に駆け出したのは、今でも覚えています。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
福翁自伝・大阪修業・医家に砲術修業の願書その時に母が、「お前は何をするのか。そんなに毎晩夜を更かして碌に寝もしないじゃないか。何の事だ。風邪でも引くと宜くない。勉強にも程のあったものだと喧しく云う。「なあに、おッ母さん、大丈夫だ。私は写本をして居るのです。この位の事で私の身体は何ともなるものじゃない。御安心下さい。決して煩いはしませぬと云うたことがありましたが、ソレカラ愈よ大阪に出ようとすると、茲に可笑しい事がある。今度出るには藩に願書を出さなければならぬ。可笑しいとも何とも云いようがない。是れまで私は部屋住だから外に出るからと云て届も願も要らぬ、颯々と出入したが、今度は仮初にも一家の主人であるから願書を出さなければならぬ。夫れから私は兼て母との相談が済んで居るから、叔父にも叔母にも相談は要りはしない。出抜けに蘭学の修業に参りたいと願書を出すと、懇意なその筋の人が内々知らせて呉れるに、「それはイケない。蘭学修業と云うことは御家に先例のない事だと云う。「そんなら如何すれば宜いかと尋れば、「左様さ。砲術修業と書いたならば済むだろうと云う。「けれども緒方と云えば大阪の開業医師だ。お医者様の処に鉄砲を習いに行くと云うのは、世の中に余り例のない事のように思われる。是れこそ却て不都合な話ではござらぬか。「イヤ、それは何としても御例のない事は仕方がない。事実相違しても宜しいから、矢張り砲術修業でなければ済まぬと云うから、「エー宜しい。如何でも為ましょうと云て、ソレカラ私儀大阪表緒方洪庵の許に砲術修業に罷越したい云々と願書を出して聞済になって、大阪に出ることになった。大抵当時の世の中の塩梅式が分るであろう、と云うのは是れは必ずしも中津一藩に限らず、日本国中悉く漢学の世の中で、西洋流など云うことは仮初にも通用しない。俗に云う鼻掴みの世の中に、唯ペルリ渡来の一条が人心を動かして、砲術だけは西洋流儀にしなければならぬと、云わば一線の血路が開けて、ソコで砲術修業の願書で穏に事が済んだのです。
-
福翁自伝・長崎遊学・師弟アベコベ私が始めて長崎に来て始めて横文字を習うと云うときに、薩州の医学生に松崎鼎甫と云う人がある。その時に藩主薩摩守は名高い西洋流の人物で、藩中の医者などに蘭学を引立て、松崎も蘭学修業を命ぜられて長崎に出て来て下宿屋に居るから、その人に頼んで教えて貰うが宜かろうと云うので行た所が、松崎が abc を書いて仮名を附けて呉れたのには先ず驚いた。是れが文字とは合点が行かぬ。二十何字を覚えて仕舞うにも余程手間が掛たが、学べば進むの道理で、次第々々に蘭語の綴も分るようになって来た。ソコデ松崎と云う先生の人相を見て応対の様子を察するに、決して絶倫の才子でない。依て私の心中窃に、「是れは高の知れた人物だ。今でも漢書を読で見ろ、自分の方が数等上流の先生だ。漢蘭等しく字を読み義を解することゝすれば、左までこの先生を恐るゝことはない。如何かしてアベコベにこの男に蘭書を教えて呉れたいものだと、生々の初学生が無鉄砲な野心を起したのは全く少年の血気に違いない。ソレはそれとしてその後私は大阪に行き、是れまで長崎で一年も勉強して居たから緒方でも上達が頗る速くて、両三年の間に同窓生八、九十人の上に頭角を現わした。所が人事の廻り合せは不思議なもので、その松崎と云う男が九州から出て来て緒方の塾に這入り、私はその時ズット上級で、下級生の会頭をして居るその会読に、松崎も出席することになって、三、四年の間に今昔の師弟アベコベ。私の無鉄砲な野心が本当な事になって、固より人には云われず、又云うべきことでないから黙て居たが、その時の愉快は堪らない。独り酒を飲で得意がって居ました。左れば軍人の功名手柄、政治家の立身出世、金持の財産蓄積なんぞ、孰れも熱心で、一寸と見ると俗なようで、深く考えると馬鹿なように見えるが、決して笑うことはない。ソンナ事を議論したり理窟を述べたりする学者も、矢張り同じことで、世間並に俗な馬鹿毛た野心があるから可笑しい。
-
福翁自伝・大阪修業・築城書を盗写す(1)夫れは夫れとして、私が今度不幸で中津に帰て居るその間に一つ仕事をしました、と云うのはその時に奥平壹岐と云う人が長崎から帰て居たから、勿論私は御機嫌伺に出なければならぬ。或日奥平の屋敷に推参して久々の面会、四方山の話の序に、主人公が一冊の原書を出して、「この本は乃公が長崎から持て来た和蘭新版の築城書であると云うその書を見た所が、勿論私などは大阪に居ても緒方の塾は医学塾であるから、医書、窮理書の外に遂ぞそんな原書を見たことはないから、随分珍書だと先ず私は感心しなければならぬ、と云うのはその時は丁度ペルリ渡来の当分で、日本国中、海防軍備の話が中々喧しいその最中に、この築城書を見せられたから誠に珍しく感じて、その原書が読で見たくて堪らない。けれども是れは貸せと云た所が貸す気遣はない。夫れからマア色々話をする中に、主人が「この原書は安く買うた。二十三両で買えたから」なんと云うたのには、実に貧書生の胆を潰すばかり。迚も自分に買うことは出来ず、左ればとてゆるりと貸す気遣はないのだから、私は唯原書を眺めて心の底で独り貧乏を歎息して居るその中に、ヒョイと胸に浮んだ一策を遣て見た。「成程是れは結構な原書で御在ます。迚も之を読で仕舞うと云うことは急な事では出来ません。責めては図と目録とでも一通り拝見したいものですが、四、五日拝借は叶いますまいかと手軽に触って見たらば、「よし貸そう」と云て貸して呉れたこそ天与の僥倖、ソレカラ私は家に持て帰て、即刻鵞筆と墨と紙を用意してその原書を初から写掛けた。凡そ二百頁余のものであったと思う。それを写すに就ては誰にも言われぬのは勿論、写す処を人に見られては大変だ。家の奥の方に引込んで一切客に遇わずに、昼夜精切り一杯、根のあらん限り写した。そのとき私は藩の御用で城の門の番をする勤があって、二、三日目に一昼夜当番する順になるから、その時には昼は写本を休み、夜になれば窃と写物を持出して、朝、城門の明くまで写して、一目も眠らないのは毎度のことだが、又この通りに勉強しても、人間世界は壁に耳あり眼もあり、既に人に悟られて今にも原書を返せとか何とか云て来はしないだろうか、いよ/\露顕すれば唯原書を返したばかりでは済まぬ、御家老様の剣幕で中々六かしくなるだろうと思えば、その心配は堪らない。
-
福翁自伝・大阪修業兄の申すことには私も逆らうことが出来ず、大阪に足を止めまして、緒方先生の塾に入門したのは安政二年卯歳の三月でした。その前長崎に居る時には勿論蘭学の稽古をしたので、その稽古をした所は楢林と云う和蘭通詞の家、同じく楢林と云う医者の家、それから石川桜所と云う蘭法医師、この人は長崎に開業して居て立派な門戸を張て居る大家であるから、中々入門することは出来ない。ソコで其処の玄関に行て調合所の人などに習って居たので、爾う云うように彼方此方にちょい/\と教えて呉れるような人があれば其処へ行く。何処の何某に便り誰の門人になってミッチリ蘭書を読だと云うことはないので、ソコで大阪に来て緒方に入門したのは是れが本当に蘭学修業の始まり、始めて規則正しく書物を教えて貰いました。その時にも私は学業の進歩が随分速くて、塾中には大勢書生があるけれども、その中ではマア出来の宜い方であったと思う。
-
福翁自伝・大阪を去て江戸に行く・小石川に通う横浜から帰て、私は足の疲れではない、実に落胆して仕舞た。是れは/\どうも仕方がない、今まで数年の間、死物狂いになって和蘭の書を読むことを勉強した、その勉強したものが、今は何にもならない、商売人の看板を見ても読むことが出来ない、左りとは誠に詰らぬ事をしたわいと、実に落胆して仕舞た。けれども決して落胆して居られる場合でない。彼処に行れて居る言葉、書いてある文字は、英語か仏語に相違ない。所で今世界に英語の普通に行れて居ると云うことは予て知て居る。何でもあれは英語に違いない、今我国は条約を結んで開けかゝって居る、左すればこの後は英語が必要になるに違いない、洋学者として英語を知らなければ迚も何にも通ずることが出来ない、この後は英語を読むより外に仕方がないと、横浜から帰た翌日だ、一度は落胆したが同時に又新に志を発して、夫れから以来は一切万事英語と覚悟を極めて、扨その英語を学ぶと云うことに就て如何して宜か取付端がない。江戸中に何処で英語を教えて居ると云う所のあろう訳けもない。けれども段々聞て見ると、その時に条約を結ぶと云うが為めに、長崎の通詞の森山多吉郎と云う人が、江戸に来て幕府の御用を勤めて居る。その人が英語を知て居ると云う噂を聞出したから、ソコで森山の家に行て習いましょうと斯う思うて、その森山と云う人は小石川の水道町に住居して居たから、早速その家に行て英語教授の事を頼入ると、森山の云うに、昨今御用が多くて大変に忙しい、けれども折角習おうと云うならば教えて進ぜよう、就ては毎日出勤前、朝早く来いと云うことになって、その時私は鉄砲洲に住て居て、鉄砲洲から小石川まで頓て二里余もありましょう、毎朝早く起きて行く。所が今日はもう出勤前だから又明朝来て呉れ、明くる朝早く行くと、人が来て居て行かないと云う。如何しても教えて呉れる暇がない。ソレは森山の不親切と云う訳けではない、条約を結ぼうと云う時だから中々忙くて実際に教える暇がありはしない。そうすると、こんなに毎朝来て何も教えることが出来んでは気の毒だ、晩に来て呉れぬかと云う。ソレじゃ晩に参りましょうと云て、今度は日暮から出掛けて行く。あの往来は丁度今の神田橋一橋外の高等商業学校のある辺で、素と護持院ヶ原と云う大きな松の樹などが生繁って居る恐ろしい淋しい処で、追剥でも出そうな処だ。其処を小石川から帰途に夜の十一時十二時ごろ通る時の怖さと云うものは今でも能く覚えて居る。所がこの夜稽古も矢張り同じ事で、今晩は客がある、イヤ急に外国方(外務省)から呼びに来たから出て行かなければならぬと云うような訳けで、頓と仕方がない。凡そ其処に二月か三月通うたけれども、どうにも暇がない。迚もこんな事では何も覚えることも出来ない。加うるに森山と云う先生も何も英語を大層知て居る人ではない、漸く少し発音を心得て居ると云う位。迚も是れは仕方ないと、余儀なく断念。
-
福翁自伝・長崎遊学・長崎遊学中の逸事鄙事多能は私の独得、長崎に居る間は山本先生の家に食客生と為り、無暗に勉強して蘭学も漸く方角の分るようになるその片手に、有らん限り先生家の家事を勤めて、上中下の仕事なんでも引請けて、是れは出来ない、其れは忌だと云たことはない。丁度上方辺の大地震のとき、私は先生家の息子に漢書の素読をして遣た跡で、表の井戸端で水を汲んで、大きな荷桶を担いで一足跡出すその途端にガタ/″\と動揺て足が滑り、誠に危ない事がありました。 寺の和尚、今は既に物故したそうですが、是れは東本願寺の末寺、光永寺と申して、下寺の三ヶ寺も持て居る先ず長崎では名のある大寺、そこの和尚が京に上って何か立身して帰て来て、長崎の奉行所に廻勤に行くその若党に雇われてお供をした所が、和尚が馬鹿に長い衣か装束か妙なものを着て居て、奉行所の門で駕籠を出ると、私が後からその裾を持てシヅ/″\と附いて歩いて行く。吹出しそうに可笑しい。又その和尚が正月になると大檀那の家に年礼に行くそのお供をすれば、坊さんが奥で酒でも飲でる供待の間に、供の者にも膳を出して雑煮など喰わせる。是れは難有く戴きました。 又節分に物貰いをしたこともある。長崎の風に、節分の晩に法螺の貝を吹て何か経文のような事を怒鳴って廻わる、東京で云えば厄払い、その厄払をして市中の家の門に立てば、銭を呉れたり米を呉れたりすることがある。所が私の居る山本の隣家に杉山松三郎(杉山徳三郎の実兄)と云う若い男があって、面白い人物。「どうだ今夜行こうじゃないかと私を誘うから、勿論同意。ソレカラ何処かで法螺の貝を借りて来て、面を隠して二人で出掛けて、杉山が貝を吹く、お経の文句は、私が少年の時に暗誦して居た蒙求の表題と千字文で請持ち、王戎簡要天地玄黄なんぞ出鱈目に怒鳴り立てゝ、誠に上首尾、銭だの米だの随分相応に貰て来て、餅を買い鴨を買い雑煮を拵えてタラフク喰た事がある。
人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る