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福翁自伝 / 長崎遊学・師弟アベコベ

私が始めて長崎に来て始めて横文字を習うと云うときに、薩州の医学生に松崎鼎甫と云う人がある。その時に藩主薩摩守は名高い西洋流の人物で、藩中の医者などに蘭学を引立て、松崎も蘭学修業を命ぜられて長崎に出て来て下宿屋に居るから、その人に頼んで教えて貰うが宜かろうと云うので行た所が、松崎が abc を書いて仮名を附けて呉れたのには先ず驚いた。是れが文字とは合点が行かぬ。二十何字を覚えて仕舞うにも余程手間が掛たが、学べば進むの道理で、次第々々に蘭語の綴も分るようになって来た。ソコデ松崎と云う先生の人相を見て応対の様子を察するに、決して絶倫の才子でない。依て私の心中窃に、「是れは高の知れた人物だ。今でも漢書を読で見ろ、自分の方が数等上流の先生だ。漢蘭等しく字を読み義を解することゝすれば、左までこの先生を恐るゝことはない。如何かしてアベコベにこの男に蘭書を教えて呉れたいものだと、生々の初学生が無鉄砲な野心を起したのは全く少年の血気に違いない。ソレはそれとしてその後私は大阪に行き、是れまで長崎で一年も勉強して居たから緒方でも上達が頗る速くて、両三年の間に同窓生八、九十人の上に頭角を現わした。所が人事の廻り合せは不思議なもので、その松崎と云う男が九州から出て来て緒方の塾に這入り、私はその時ズット上級で、下級生の会頭をして居るその会読に、松崎も出席することになって、三、四年の間に今昔の師弟アベコベ。私の無鉄砲な野心が本当な事になって、固より人には云われず、又云うべきことでないから黙て居たが、その時の愉快は堪らない。独り酒を飲で得意がって居ました。左れば軍人の功名手柄、政治家の立身出世、金持の財産蓄積なんぞ、孰れも熱心で、一寸と見ると俗なようで、深く考えると馬鹿なように見えるが、決して笑うことはない。ソンナ事を議論したり理窟を述べたりする学者も、矢張り同じことで、世間並に俗な馬鹿毛た野心があるから可笑しい。

書き下し

私が始めて長崎に来て始めて横文字を習うと云うときに、薩州の医学生に松崎鼎甫と云う人がある。その時に藩主薩摩守は名高い西洋流の人物で、藩中の医者などに蘭学を引立て、松崎も蘭学修業を命ぜられて長崎に出て来て下宿屋に居るから、その人に頼んで教えて貰うが宜かろうと云うので行た所が、松崎が abc を書いて仮名を附けて呉れたのには先ず驚いた。是れが文字とは合点が行かぬ。二十何字を覚えて仕舞うにも余程手間が掛たが、学べば進むの道理で、次第々々に蘭語の綴も分るようになって来た。ソコデ松崎と云う先生の人相を見て応対の様子を察するに、決して絶倫の才子でない。依て私の心中窃に、「是れは高の知れた人物だ。今でも漢書を読で見ろ、自分の方が数等上流の先生だ。漢蘭等しく字を読み義を解することゝすれば、左までこの先生を恐るゝことはない。如何かしてアベコベにこの男に蘭書を教えて呉れたいものだと、生々の初学生が無鉄砲な野心を起したのは全く少年の血気に違いない。ソレはそれとしてその後私は大阪に行き、是れまで長崎で一年も勉強して居たから緒方でも上達が頗る速くて、両三年の間に同窓生八、九十人の上に頭角を現わした。所が人事の廻り合せは不思議なもので、その松崎と云う男が九州から出て来て緒方の塾に這入り、私はその時ズット上級で、下級生の会頭をして居るその会読に、松崎も出席することになって、三、四年の間に今昔の師弟アベコベ。私の無鉄砲な野心が本当な事になって、固より人には云われず、又云うべきことでないから黙て居たが、その時の愉快は堪らない。独り酒を飲で得意がって居ました。左れば軍人の功名手柄、政治家の立身出世、金持の財産蓄積なんぞ、孰れも熱心で、一寸と見ると俗なようで、深く考えると馬鹿なように見えるが、決して笑うことはない。ソンナ事を議論したり理窟を述べたりする学者も、矢張り同じことで、世間並に俗な馬鹿毛た野心があるから可笑しい。

現代語訳

私が初めて長崎に来て、初めて横文字を習おうという時に、薩州の医学生に松崎鼎甫という人がいました。その頃の藩主薩摩守は名高い西洋流の人物で、藩中の医者などに蘭学を奨励し、松崎も蘭学修業を命じられて長崎に出て来て下宿屋にいるから、その人に頼んで教えてもらうのがよかろうということで行ったところ、松崎がabcを書いて仮名を付けてくれたのにはまず驚きました。これが文字とは納得がいかない。二十何字を覚えてしまうのにもよほど手間がかかりましたが、学べば進むのが道理で、次第にオランダ語の綴りも分かるようになってきました。 そこで松崎という先生の人相を見て、応対の様子を察すると、決して並外れた才子ではありません。そこで私は心の中でひそかに、「この人は高の知れた人物だ。今でも漢書を読んでみろ、自分のほうが数段上の先生だ。漢文もオランダ語も同じく字を読み意味を解することなら、この先生をさほど恐れることはない。何とかして、反対にこの男にオランダの書物を教えてやりたいものだ」と、駆け出しの初学生が無鉄砲な野心を起こしたのは、まったく少年の血気のせいに違いありません。 それはそれとして、その後私は大阪に行き、長崎で一年も勉強していたので、緒方でも上達がたいへん速く、二、三年のうちに同窓生八、九十人の上に頭角を現しました。ところが人の世の巡り合わせは不思議なもので、その松崎という男が九州から出て来て緒方の塾に入り、私はその時ずっと上級で、下級生の会頭をしていたその輪読会に、松崎も出席することになり、三、四年のうちに昔と今とで師弟が逆さまになりました。私の無鉄砲な野心が本当になったわけで、もちろん人には言えず、言うべきことでもないので黙っていましたが、その時の愉快さはたまりません。独り酒を飲んで得意になっていました。 だから、軍人の功名手柄、政治家の立身出世、金持ちの財産蓄積などは、いずれも熱心で、ちょっと見ると俗なようで、深く考えると馬鹿なようにも見えますが、決して笑うことはありません。そんなことを議論したり理屈を述べたりする学者も、やはり同じことで、世間並みに俗なばかばかしい野心があるのだからおかしなものです。

解説

初学の福沢は、ABCを教えてくれた先生の力量を見くびり、いつか逆に教えてやりたいという野心を抱きます。三、四年後、適塾で実際に立場が入れ替わりました。薩摩藩が蘭学を奨励していたのは、幕末の西洋流への関心の高まりを示しています。注目すべきは結びで、功名心や出世欲を俗と笑うことはできず、学者の野心も同じだと自分を含めて見ている点です。向上心を隠さず認めたほうが人は伸びる、という現代の職場にも通じる素直な指摘です。

この章句が説くこと

師弟野心血気蘭学逆転正直

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