福翁自伝 / 幼少の時・兄弟問答(2)
母も亦随分妙な事を悦んで、世間並には少し変わって居たようです。一体下等社会の者に附合うことが数寄で、出入りの百姓町人は無論、穢多でも乞食でも颯々と近づけて、軽蔑もしなければ忌がりもせず言葉など至極丁寧でした。又宗教に就て、近処の老婦人達のように普通の信心はないように見える。例えば家は真宗でありながら説法も聞かず、「私は寺に参詣して阿弥陀様を拝むこと許りは可笑しくてキマリが悪くて出来ぬと常に私共に云いながら、毎月米を袋に入れて寺に持て行て墓参りは欠かしたことはない(その袋は今でも大事に保存してある)。阿弥陀様は拝まぬが坊主には懇意が多い。旦那寺の和尚は勿論、又私が漢学塾に修業して、その塾中に諸国諸宗の書生坊主が居て、毎度私処に遊びに来れば、母は悦んで之を取持て馳走でもすると云うような風で、コンナ所を見れば唯仏法が嫌いでもないようです。兎に角に慈善心はあったに違いない。
書き下し
母も亦随分妙な事を悦んで、世間並には少し変わって居たようです。一体下等社会の者に附合うことが数寄で、出入りの百姓町人は無論、穢多でも乞食でも颯々と近づけて、軽蔑もしなければ忌がりもせず言葉など至極丁寧でした。又宗教に就て、近処の老婦人達のように普通の信心はないように見える。例えば家は真宗でありながら説法も聞かず、「私は寺に参詣して阿弥陀様を拝むこと許りは可笑しくてキマリが悪くて出来ぬと常に私共に云いながら、毎月米を袋に入れて寺に持て行て墓参りは欠かしたことはない(その袋は今でも大事に保存してある)。阿弥陀様は拝まぬが坊主には懇意が多い。旦那寺の和尚は勿論、又私が漢学塾に修業して、その塾中に諸国諸宗の書生坊主が居て、毎度私処に遊びに来れば、母は悦んで之を取持て馳走でもすると云うような風で、コンナ所を見れば唯仏法が嫌いでもないようです。兎に角に慈善心はあったに違いない。
現代語訳
母もまた、ずいぶん変わったことを喜んで、世間並みとは少し違っていたようです。いったい下等社会の者と付き合うことが好きで、出入りの百姓や町人はもちろん、穢多でも乞食でもさっさと近づけて、軽蔑もしなければ嫌がりもせず、言葉などはとても丁寧でした。また宗教についても、近所の老婦人たちのような普通の信心はないように見えます。たとえば家は真宗でありながら説法も聞かず、「私は寺に参詣して阿弥陀様を拝むことばかりは、おかしくてきまりが悪くてできない」とふだん私たちにいいながら、毎月米を袋に入れて寺に持って行き、墓参りは欠かしたことがない(その袋は今でも大事に保存してあります)。阿弥陀様は拝まないが、坊主には懇意な人が多い。旦那寺の和尚はもちろん、また私が漢学塾で修業していて、その塾中に諸国諸宗の書生坊主がいて、たびたび私の家に遊びに来れば、母は喜んでこれをもてなし、ごちそうなどをするという風で、こんなところを見れば、ただ仏法が嫌いというわけでもないようです。とにかく慈善の心はあったに違いありません。
解説
この章句が説くこと
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