福翁自伝 / 幼少の時・乞食の虱をとる
茲に誠に穢い奇談があるから話しましょう。中津に一人の女乞食があって、馬鹿のような狂者のような至極の難渋者で、自分の名か、人の付けたのか、チエ/\と云て、毎日市中を貰て廻わる。所が此奴が穢いとも臭いとも云いようのない女で、着物はボロ/\、髪はボウ/\、その髪に虱がウヤ/\して居るのが見える。母が毎度の事で天気の好い日などには、おチエ此方に這入て来いと云て、表の庭に呼込んで土間の草の上に坐らせて、自分は襷掛けに身構えをして乞食の虱狩を始めて、私は加勢に呼出される。拾うように取れる虱を取ては庭石の上に置き、マサカ爪で潰すことは出来ぬから、私を側に置いて、この石の上のを石で潰せと申して、私は小さい手ごろな石を以て構えて居る。母が一疋取て台石の上に置くと私はコツリと打潰すと云う役目で、五十も百も先ずその時に取れる丈け取て仕舞い、ソレカラ母も私も着物を払うて糠で手を洗うて、乞食には虱を取らせて呉れた褒美に飯を遣ると云う極りで、是れは母の楽みでしたろうが、私は穢なくて穢なくて堪らぬ。今思出しても胸が悪いようです。
書き下し
茲に誠に穢い奇談があるから話しましょう。中津に一人の女乞食があって、馬鹿のような狂者のような至極の難渋者で、自分の名か、人の付けたのか、チエ/\と云て、毎日市中を貰て廻わる。所が此奴が穢いとも臭いとも云いようのない女で、着物はボロ/\、髪はボウ/\、その髪に虱がウヤ/\して居るのが見える。母が毎度の事で天気の好い日などには、おチエ此方に這入て来いと云て、表の庭に呼込んで土間の草の上に坐らせて、自分は襷掛けに身構えをして乞食の虱狩を始めて、私は加勢に呼出される。拾うように取れる虱を取ては庭石の上に置き、マサカ爪で潰すことは出来ぬから、私を側に置いて、この石の上のを石で潰せと申して、私は小さい手ごろな石を以て構えて居る。母が一疋取て台石の上に置くと私はコツリと打潰すと云う役目で、五十も百も先ずその時に取れる丈け取て仕舞い、ソレカラ母も私も着物を払うて糠で手を洗うて、乞食には虱を取らせて呉れた褒美に飯を遣ると云う極りで、是れは母の楽みでしたろうが、私は穢なくて穢なくて堪らぬ。今思出しても胸が悪いようです。
現代語訳
ここにたいへん汚い奇談があるので話しましょう。中津に一人の女乞食がいて、馬鹿のような狂人のような、ごく困窮した者で、自分の名か、人がつけたのか、チエチエといって、毎日市中をもらって回っています。ところがこの女は、汚いとも臭いとも言いようのない女で、着物はぼろぼろ、髪はぼうぼう、その髪に虱がうようよしているのが見えます。母はいつものことで、天気のよい日などには、「おチエ、こちらへ入っておいで」といって、表の庭に呼び込んで、土間の草の上に座らせ、自分はたすき掛けに身構えをして、乞食の虱狩りを始め、私は手伝いに呼び出されます。拾うように取れる虱を取っては庭石の上に置き、まさか爪で潰すことはできないので、私を側に置いて、「この石の上のを石で潰せ」と申して、私は小さい手頃な石を持って構えています。母が一匹取って台石の上に置くと、私はコツリと打ち潰すという役目で、五十も百もそのとき取れるだけ取ってしまい、それから母も私も着物を払い、糠で手を洗い、乞食には虱を取らせてくれたご褒美に飯をやるという決まりで、これは母の楽しみだったのでしょうが、私は汚くて汚くてたまりません。今思い出しても胸が悪くなるようです。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・緒方の塾風・不潔に頓着せず塾員は不規則と云わんか不整頓と云わんか乱暴狼藉、丸で物事に無頓着。その無頓着の極は世間で云うように潔不潔、汚ないと云うことを気に止めない。例えば、塾の事であるから勿論桶だの丼だの皿などの、あろう筈はないけれども、緒方の塾生は学塾の中に居ながら七輪もあれば鍋もあって、物を煮て喰うと云うような事を不断遣て居る、その趣は恰も手鍋世帯の台所見たような事を机の周囲で遣て居た。けれども道具の足ると云うことのあろう筈はない。ソコで洗手盥も金盥も一切食物調理の道具になって、暑中など何処からか素麺を貰うと、その素麺を奥の台所で湯煮て貰うて、その素麺を冷すには、毎朝、顔を洗う洗手盥を持て来て、その中で冷素麺にして、汁を拵えるに調合所の砂糖でも盗み出せば上出来、その外、肴を拵えるにも野菜を洗うにも洗手盥は唯一のお道具で、ソンナ事は少しも汚ないと思わなかった。 夫れ所ではない。虱は塾中永住の動物で、誰れ一人も之を免かれることは出来ない。一寸と裸体になれば五疋も十疋も捕るに造作はない。春先き少し暖気になると羽織の襟に匍出すことがある。或る書生の説に、ドウダ、吾々の虱は大阪の焼芋に似て居る。冬中が真盛りで、春になり夏になると次第に衰えて、暑中二、三箇月蚤と交代して引込み、九月頃新芋が町に出ると吾々の虱も復た出て来るのは可笑しいと云た事がある。私は一案を工風し、抑も虱を殺すに熱湯を用うるは洗濯婆の旧筆法で面白くない、乃公が一発で殺して見せようと云て、厳冬の霜夜に襦袢を物干に洒して虱の親も玉子も一時に枯らしたことがある。この工風は私の新発明ではない、曾て誰れかに聞たことがあるから遣て見たのです。
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福翁自伝・一身一家経済の由来・頼母子の金弐朱を返す是れから私が一身一家の経済の事を陳べましょう。凡そ世の中に何が怖いと云ても、暗殺は別にして、借金ぐらい怖いものはない。他人に対して金銭の不義理は相済まぬ事と決定すれば、借金はます/\怖くなります。私共の兄弟姉妹は幼少の時から貧乏の味を嘗め尽して、母の苦労した様子を見ても生涯忘れられません。貧小士族の衣食住その艱難の中に、母の精神を以て自から私共を感化した事の数々あるその一例を申せば、私が十三、四歳のとき母に云付けられて金子返済の使をしたことがあります。その次第柄は斯う云うことです。天保七年、大阪に於て私共が亡父の不幸で母に従て故郷の中津に帰りましたとき、家の普請をするとか何とか云うに、勝手向は勿論不如意ですから、人の世話で頼母子講を拵えて一口金二朱ずつで何両とやら纏まった金が出来て一時の用を弁じて、その後、毎年幾度か講中が二朱ずつの金を持寄り、鬮引にて満座に至りて皆済になる仕組であるが、大家の人は二朱計りの金の為めに何年もこんな事に関係して居るのは面倒だと云う所から、一時二朱の掛金を出したまゝに手を引く者がある。之を掛棄と云います。その実は講主が人に金を唯貰うような事なれども、一般の風俗で左まで世間に怪しむ者もない。所が福澤の頼母子に大阪屋五郎兵衛と云う廻船屋が一口二朱を掛棄にしたそうです。勿論私の三、四歳頃か幼少の時の事で何も知りませんでしたが、十三、四歳のとき或日母が私に申すに、「お前は何も知らぬ事だが、十年前に斯う/\云う事があって大阪屋が掛棄にして、福澤の家は大阪屋に金二朱を貰うたようなものだ。誠に気に済まぬ。武家が町人から金を恵まれて夫れを唯貰うて黙て居ることは出来ません。疾うから返したい/\と思ては居たがドウも爾う行かずに、ヤッと今年は少し融通が付いたから、この二朱のお金を大阪屋に持て行て厚う礼を述べて返して来いと申して、その金を紙に包んで私に渡しました。ソレから私は大阪屋に参て金の包みを出すと、先方では意外に思うたか、「御返済など却て痛入ります。最早や古い事です。決してそんな御心配には及びませんと云て頻りに辞退すれども、私は母の云うことを聞て居るから、是非渡さねばならぬと、互に押し返して口喧嘩のように争うて、金を置て帰たことがあります。今はハヤ五十二、三年も過ぎてむかし/\の事であるが、そのとき母に云付けられた口上も、先方の大阪屋の事も、チャンと記憶に存して忘れません。年月日は覚えないが何でも朝のことゝ思う、豊前中津下小路の西南の角屋敷、大阪屋五郎兵衛の家に行て主人五郎兵衛は留守で、弟の源七に金を渡したと云うことまで覚えて居ます。こんなことが少年の時から私の脳中に遺て居るから、金銭の事に就ては何としても大胆な横着な挙動は出来られません。
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福翁自伝・幼少の時・青天白日に徳利(1)夫れから私が世間に無頓着と云うことは少年から持て生れた性質、周囲の事情に一寸とも感じない。藩の小士族などは酒、油、醤油などを買うときは、自分自から町に使に行かなければならぬ。所がその頃の士族一般の風として、頬冠をして宵出掛て行く。私は頬冠は大嫌いだ。生れてからしたことはない。物を買うに何だ、銭を遣て買うに少しも構うことはないと云う気で、顔も頭も丸出しで、士族だから大小は挟すが、徳利を提て、夜は扨置き白昼公然、町の店に行く。銭は家の銭だ、盗んだ銭じゃないぞと云うような気位で、却て藩中者の頬冠をして見栄をするのを可笑しく思たのは少年の血気、自分独り自惚て居たのでしょう。ソレカラ又家に客を招く時に、大根や牛蒡を煮て喫せると云うことに就て、必要があるから母の指図に従て働て居た。所で私は客などがウヂャ/\酒を呑むのは大嫌い。俗な奴等だ、呑むなら早く呑で帰て仕舞えば宜いと思うのに、中々帰らぬ。家は狭くて居処もない。仕方ないから客の呑でる間は、私は押入の中に這入て寝て居る。何時でも客をする時には、客の来る迄は働く、けれども夕方になると、自分も酒が好だから颯々と酒を呑で飯を喰て押入に這入て仕舞い、客が帰た跡で押入から出て、何時も寝る処に寝直すのが常例でした。
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