福翁自伝 / 幼少の時・兄弟問答(1)
又当時世間一般の事であるが、学問と云えば漢学ばかり、私の兄も勿論漢学一方の人で、只他の学者と違うのは、豊後の帆足万里先生の流を汲んで、数学を学んで居ました。帆足先生と云えば中々大儒でありながら数学を悦び、先生の説に、鉄砲と算盤は士流の重んずべきものである、その算盤を小役人に任せ、鉄砲を足軽に任せて置くと云うのは大間違いと云うその説が中津に流行して、士族中の有志者は数学に心を寄せる人が多い。兄も矢張り先輩に傚うて算盤の高尚な所まで進んだ様子です。この辺は世間の儒者と少し違うようだが、その他は所謂孝悌忠信で、純粋の漢学者に相違ない。或時兄が私に問を掛けて、「お前は是れから先き何になる積りかと云うから、私が答えて、「左様さ、先ず日本一の大金持になって思うさま金を使うて見ようと思いますと云うと、兄が苦い顔して叱ったから、私が返問して、「兄さんは如何なさると尋ねると、真面目に、「死に至るまで孝悌忠信と唯一言で、私は「ヘーイと云た切りそのまゝになった事があるが、先ず兄はソンナ人物で、又妙な処もある。或時私に向て、「乃公は総領で家督をして居るが、如何かして六かしい家の養子になって見たい。何とも云われない頑固な、ゴク喧しい養父母に事えて見たい。決して風波を起させないと云うのは、畢竟養父母と養子との間柄の悪いのは養子の方の不行届だと説を極めてたのでしょう。所が私は正反対で、「養子は忌な事だ、大嫌いだ。親でもない人を誰が親にして事える者があるかと云うような調子で、折々は互に説が違て居ました。是れは私の十六、七の頃と思います。
書き下し
又当時世間一般の事であるが、学問と云えば漢学ばかり、私の兄も勿論漢学一方の人で、只他の学者と違うのは、豊後の帆足万里先生の流を汲んで、数学を学んで居ました。帆足先生と云えば中々大儒でありながら数学を悦び、先生の説に、鉄砲と算盤は士流の重んずべきものである、その算盤を小役人に任せ、鉄砲を足軽に任せて置くと云うのは大間違いと云うその説が中津に流行して、士族中の有志者は数学に心を寄せる人が多い。兄も矢張り先輩に傚うて算盤の高尚な所まで進んだ様子です。この辺は世間の儒者と少し違うようだが、その他は所謂孝悌忠信で、純粋の漢学者に相違ない。或時兄が私に問を掛けて、「お前は是れから先き何になる積りかと云うから、私が答えて、「左様さ、先ず日本一の大金持になって思うさま金を使うて見ようと思いますと云うと、兄が苦い顔して叱ったから、私が返問して、「兄さんは如何なさると尋ねると、真面目に、「死に至るまで孝悌忠信と唯一言で、私は「ヘーイと云た切りそのまゝになった事があるが、先ず兄はソンナ人物で、又妙な処もある。或時私に向て、「乃公は総領で家督をして居るが、如何かして六かしい家の養子になって見たい。何とも云われない頑固な、ゴク喧しい養父母に事えて見たい。決して風波を起させないと云うのは、畢竟養父母と養子との間柄の悪いのは養子の方の不行届だと説を極めてたのでしょう。所が私は正反対で、「養子は忌な事だ、大嫌いだ。親でもない人を誰が親にして事える者があるかと云うような調子で、折々は互に説が違て居ました。是れは私の十六、七の頃と思います。
現代語訳
また当時は世間一般のことでしたが、学問といえば漢学ばかり。私の兄ももちろん漢学一方の人でしたが、ただ他の学者と違うのは、豊後の帆足万里先生の流れを汲んで、数学を学んでいたことです。帆足先生といえばなかなかの大儒でありながら数学を喜び、先生の説に、鉄砲と算盤は士流の重んずべきものである、その算盤を小役人に任せ、鉄砲を足軽に任せておくというのは大間違いという説が中津に流行して、士族中の有志者は数学に心を寄せる人が多い。兄もやはり先輩にならって、算盤の高尚なところまで進んだ様子です。この辺は世間の儒者とは少し違うようですが、そのほかはいわゆる孝悌忠信で、純粋の漢学者に違いありません。あるとき兄が私に問いかけて、「お前はこれから先、何になるつもりか」というので、私が答えて、「そうですね、まず日本一の大金持ちになって、思うさま金を使ってみようと思います」というと、兄が苦い顔をして叱ったので、私が聞き返して、「兄さんはどうなさいます」と尋ねると、真面目に、「死に至るまで孝悌忠信」とただ一言で、私は「へえい」といったきり、そのままになったことがありますが、まず兄はそんな人物で、また妙なところもあります。あるとき私に向かって、「俺は総領で家督をしているが、どうかして難しい家の養子になってみたい。何ともいえない頑固な、ごくやかましい養父母に仕えてみたい。決して風波を起こさせない」というのは、結局、養父母と養子との間柄が悪いのは養子のほうの不行き届きだと、説を決めていたのでしょう。ところが私は正反対で、「養子は嫌なことだ、大嫌いだ。親でもない人を誰が親にして仕える者があるか」というような調子で、折々は互いに説が違っていました。これは私の十六、七の頃だと思います。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・幼少の時・儒教主義の教育夫れから最う一つ之に加えると、私の父は学者であった。普通の漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の金持、加島屋、鴻ノ池というような者に交際して藩債の事を司どる役であるが、元来父はコンナ事が不平で堪らない。金銭なんぞ取扱うよりも読書一偏の学者になって居たいという考であるに、存じ掛もなく算盤を執て金の数を数えなければならぬとか、藩借延期の談判をしなければならぬとか云う仕事で、今の洋学者とは大に違って、昔の学者は銭を見るも汚れると云うて居た純粋の学者が、純粋の俗事に当ると云う訳けであるから、不平も無理はない。ダカラ子供を育てるのも全く儒教主義で育てたものであろうと思うその一例を申せば、斯う云うことがある。私は勿論幼少だから手習どころの話でないが、最う十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習をするには、倉屋敷の中に手習の師匠があって、其家には町家の小供も来る。其処でイロハニホヘトを教えるのは宜しいが、大阪の事だから九々の声を教える。二二が四、二三が六。これは当然の話であるが、その事を父が聞て、怪しからぬ事を教える。幼少の小供に勘定の事を知らせると云うのは以ての外だ。斯う云う処に小供は遣て置かれぬ。何を教えるか知れぬ。早速取返せと云て取返した事があると云うことは、後に母に聞きました。何でも大変喧ましい人物であったことは推察が出来る。その書遺したものなどを見れば真実正銘の漢儒で、殊に堀河の伊藤東涯先生が大信心で、誠意誠心、屋漏に愧じずということ許り心掛たものと思われるから、その遺風は自から私の家には存して居なければならぬ。一母五子、他人を交えず世間の附合は少く、明ても暮れても唯母の話を聞く許り、父は死んでも生きてるような者です。ソコデ中津に居て、言葉が違い着物が違うと同時に、私共の兄弟は自然に一団体を成して、言わず語らずの間に高尚に構え、中津人は俗物であると思て、骨肉の従兄弟に対してさえ、心の中には何となく之を目下に見下して居て、夫等の者のすることは一切咎もせぬ、多勢に無勢、咎立をしようと云ても及ぶ話でないと諦らめて居ながら、心の底には丸で歯牙に掛けずに、云わば人を馬鹿にして居たようなものです。今でも覚えて居るが、私が少年の時から家に居て、能く饒舌りもし、飛び廻わり刎ね廻わりして、至極活溌にてありながら、木に登ることが不得手で、水を泳ぐことが皆無出来ぬと云うのも、兎角同藩中の子弟と打解けて遊ぶことが出来ずに孤立した所為でしょう。
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福翁自伝・一身一家経済の由来・金がなければ出来る時まで待つソレから段々成長して、中津に居る間は漢学修業の傍に内職のような事をして多少でも家の活計を助け、畑もすれば米も搗き飯も炊き、鄙事多能、あらん限りの辛苦して貧小士族の家に居り、年二十一のとき始めて長崎に行て、勿論学費のあろう訳けもない、寺の留守番をしたり砲術家の食客になったりして、不自由ながら蘭学を学んで、その後大阪に出て、大阪の緒方先生の塾に修業中も、相替らず金の事は恐ろしくて唯の一度でも他人に借りたことはない。人に借用すれば必ず返済せねばならぬ。当然のことで分り切て居るから、その返済する金が出来る位ならば、出来る時節まで待て居て借金はしないと、斯う覚悟を極めて、ソコで二朱や一分は扨置き、百文の銭でも人に借りたことはない。チャンと自分の金の出来るまで待て居る。夫れから又私は質に置たことがない。着物は塾に居るときも故郷の母が夏冬手織木綿の品を送て呉れましたが、ソレを質に置くと云えば何時か一度は請還さなければならぬ。請還す金があるならその金の出来るまで待て居るが宜いと斯う思うから、金の入用はあっても只の一度も質に入れたことがない。けれどもいよ/\金に迫て如何してもなくてならぬと云うときか、恥かしい事だが酒が飲みたくて堪らないと云うようなことがあれば、思切てその着物を売て仕舞います。例えばその時に浴衣一枚を質に入れゝば弐朱貸して呉れる、之を手離して売ると云えば弐朱と弐百文になるから売ることにすると云うような経済法にして、且つ又私は写本で銭を取ることもしない。大事な修業の身を以て銭の為めに時を費すは勿体ない、吾身の為めには一刻千金の時である、金がなければ唯使わぬと覚悟を定めて、大阪に居る間とう/\一銭の金も借用したことなくして、その後江戸に来ても同様、仮初にも人に借用したことはない。折節自分で想像しては唯怖くて堪らない、借金が出来て人から催促されたら如何だろう、世間の人、朋友の中にも毎度ある話だ、借金が出来て返さなければならぬと云て、此方から借りては彼方に返し、又彼方から借りては此方に返すと云う者があるが、私は少しも感服しない。誠に気の済まぬ話で、金を借りて返さなくてならぬなんて嘸忙しい事であろう、能くもアレで一日でも半日でも安んじて居られたものだと思うて、殆んど推量が出来ない。一口に云えば私は借金の事に就て大の臆病者で、少しも勇気がない。人に金を借用してその催促に逢うて返すことが出来ないと云うときの心配は、恰も白刃を以て後ろから追蒐けられるような心地がするだろうと思います。
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福翁自伝・大阪修業・家兄の不幸再遊困難所が又不幸な話で、九月の十日頃であったと思う。国から手紙が来て、九月三日に兄が病死したから即刻帰て来いと云う急報。どうも驚いたけれども仕方がない。取るものも取り敢えずスグ船に乗て、この度は誠に順風で、速に中津の港に着て、家に帰て見ればモウ葬式は勿論、何も斯も片が付て仕舞た後の事で、ソレカラ私は叔父の処の養子になって居た、所が自分の本家、即ち里の主人が死亡して、娘が一人あれども女の子では家督相続は出来ない、是れは弟が相続する、当然の順序だと云うので、親類相談の上、私は知らぬ間にチャント福澤の主人になって居て、当人の帰国を待て相談なんと云うことはありはしない。貴様は福澤の主人になったと知らせて呉れる位の事だ。扨てその跡を襲だ以上は、実は兄でも親だから、五十日の忌服を勤めねばならぬ。夫れから家督相続と云えば其れ相応の勤がなくてはならぬ、藩中小士族相応の勤を命ぜられて居る、けれども私の心と云うものは天外万里、何もかも浮足になって一寸とも落付かぬ。何としても中津に居ようなど云うことは思いも寄らぬ事であるけれども、藩の正式に依ればチャント勤をしなければならぬから、その命を拒むことは出来ない。唯言行を謹み、何と云われてもハイ/\と答えて勤めて居ました。自分の内心には如何しても再遊と決して居るけれども、周囲の有様と云うものは中々寄付かれもしない。藩中一般の説は姑く差措き、近い親類の者までも西洋は大嫌で、何事も話し出すことが出来ない。ソコデ私に叔父があるから、其処に行て何か話をして、序ながら夫れとなく再遊の事を少しばかり言掛けて見ると、夫れは/\恐ろしい剣幕で頭から叱られた。「怪からぬ事を申すではないか。兄の不幸で貴様が家督相続した上は、御奉公大事に勤をする筈のものだ。ソレに和蘭の学問とは何たる心得違いか、呆返った話だとか何とか叱られたその言葉の中に、叔父が私を冷かして、貴様のような奴は負角力の瘠錣と云うものじゃと苦々しく睨み付けたのは、身の程知らずと云う意味でしょう。迚も叔父さんに賛成して貰おうと云うことは出来そうにもしないが、私が心に思って居れば自から口の端にも出る。出れば狭い所だから直ぐ分る。近処辺りに何処となく評判する。平生私の処に能く来るお婆さんがあって、私の母より少し年長のお婆さんで、お八重さんと云う人。今でも其の人の面を覚えて居る。つい向うのお婆さんで、或るとき私方に来て、「何か聞けば諭吉さんは又大阪に行くと云う話じゃが、マサカお順さん(私の母)そんな事はさせなさらんじゃろう、再び出すなんと云うのはお前さんは気が違うて居はせぬかと云うような、世間一般先ずソンナ風で、その時の私の身の上を申せば寄辺汀の捨小舟、まるで唄の文句のようだ。
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