福翁自伝 / 一身一家経済の由来・頼母子の金弐朱を返す
是れから私が一身一家の経済の事を陳べましょう。凡そ世の中に何が怖いと云ても、暗殺は別にして、借金ぐらい怖いものはない。他人に対して金銭の不義理は相済まぬ事と決定すれば、借金はます/\怖くなります。私共の兄弟姉妹は幼少の時から貧乏の味を嘗め尽して、母の苦労した様子を見ても生涯忘れられません。貧小士族の衣食住その艱難の中に、母の精神を以て自から私共を感化した事の数々あるその一例を申せば、私が十三、四歳のとき母に云付けられて金子返済の使をしたことがあります。その次第柄は斯う云うことです。天保七年、大阪に於て私共が亡父の不幸で母に従て故郷の中津に帰りましたとき、家の普請をするとか何とか云うに、勝手向は勿論不如意ですから、人の世話で頼母子講を拵えて一口金二朱ずつで何両とやら纏まった金が出来て一時の用を弁じて、その後、毎年幾度か講中が二朱ずつの金を持寄り、鬮引にて満座に至りて皆済になる仕組であるが、大家の人は二朱計りの金の為めに何年もこんな事に関係して居るのは面倒だと云う所から、一時二朱の掛金を出したまゝに手を引く者がある。之を掛棄と云います。その実は講主が人に金を唯貰うような事なれども、一般の風俗で左まで世間に怪しむ者もない。所が福澤の頼母子に大阪屋五郎兵衛と云う廻船屋が一口二朱を掛棄にしたそうです。勿論私の三、四歳頃か幼少の時の事で何も知りませんでしたが、十三、四歳のとき或日母が私に申すに、「お前は何も知らぬ事だが、十年前に斯う/\云う事があって大阪屋が掛棄にして、福澤の家は大阪屋に金二朱を貰うたようなものだ。誠に気に済まぬ。武家が町人から金を恵まれて夫れを唯貰うて黙て居ることは出来ません。疾うから返したい/\と思ては居たがドウも爾う行かずに、ヤッと今年は少し融通が付いたから、この二朱のお金を大阪屋に持て行て厚う礼を述べて返して来いと申して、その金を紙に包んで私に渡しました。ソレから私は大阪屋に参て金の包みを出すと、先方では意外に思うたか、「御返済など却て痛入ります。最早や古い事です。決してそんな御心配には及びませんと云て頻りに辞退すれども、私は母の云うことを聞て居るから、是非渡さねばならぬと、互に押し返して口喧嘩のように争うて、金を置て帰たことがあります。今はハヤ五十二、三年も過ぎてむかし/\の事であるが、そのとき母に云付けられた口上も、先方の大阪屋の事も、チャンと記憶に存して忘れません。年月日は覚えないが何でも朝のことゝ思う、豊前中津下小路の西南の角屋敷、大阪屋五郎兵衛の家に行て主人五郎兵衛は留守で、弟の源七に金を渡したと云うことまで覚えて居ます。こんなことが少年の時から私の脳中に遺て居るから、金銭の事に就ては何としても大胆な横着な挙動は出来られません。
新字:是れから私が一身一家の経済の事を陳べましょう。凡そ世の中に何が怖いと云ても、暗殺は別にして、借金ぐらい怖いものはない。他人に対して金銭の不義理は相済まぬ事と決定すれば、借金はます/\怖くなります。私共の兄弟姉妹は幼少の時から貧乏の味を嘗め尽して、母の苦労した様子を見ても生涯忘れられません。貧小士族の衣食住その艱難の中に、母の精神を以て自から私共を感化した事の数々あるその一例を申せば、私が十三、四歳のとき母に云付けられて金子返済の使をしたことがあります。その次第柄は斯う云うことです。天保七年、大阪に於て私共が亡父の不幸で母に従て故郷の中津に帰りましたとき、家の普請をするとか何とか云うに、勝手向は勿論不如意ですから、人の世話で頼母子講を拵えて一口金二朱ずつで何両とやら纏まった金が出来て一時の用を弁じて、その後、毎年幾度か講中が二朱ずつの金を持寄り、鬮引にて満座に至りて皆済になる仕組であるが、大家の人は二朱計りの金の為めに何年もこんな事に関係して居るのは面倒だと云う所から、一時二朱の掛金を出したまゝに手を引く者がある。之を掛棄と云います。その実は講主が人に金を唯貰うような事なれども、一般の風俗で左まで世間に怪しむ者もない。所が福沢の頼母子に大阪屋五郎兵衛と云う廻船屋が一口二朱を掛棄にしたそうです。勿論私の三、四歳頃か幼少の時の事で何も知りませんでしたが、十三、四歳のとき或日母が私に申すに、「お前は何も知らぬ事だが、十年前に斯う/\云う事があって大阪屋が掛棄にして、福沢の家は大阪屋に金二朱を貰うたようなものだ。誠に気に済まぬ。武家が町人から金を恵まれて夫れを唯貰うて黙て居ることは出来ません。疾うから返したい/\と思ては居たがドウも爾う行かずに、ヤッと今年は少し融通が付いたから、この二朱のお金を大阪屋に持て行て厚う礼を述べて返して来いと申して、その金を紙に包んで私に渡しました。ソレから私は大阪屋に参て金の包みを出すと、先方では意外に思うたか、「御返済など却て痛入ります。最早や古い事です。決してそんな御心配には及びませんと云て頻りに辞退すれども、私は母の云うことを聞て居るから、是非渡さねばならぬと、互に押し返して口喧嘩のように争うて、金を置て帰たことがあります。今はハヤ五十二、三年も過ぎてむかし/\の事であるが、そのとき母に云付けられた口上も、先方の大阪屋の事も、チャンと記憶に存して忘れません。年月日は覚えないが何でも朝のことゝ思う、豊前中津下小路の西南の角屋敷、大阪屋五郎兵衛の家に行て主人五郎兵衛は留守で、弟の源七に金を渡したと云うことまで覚えて居ます。こんなことが少年の時から私の脳中に遺て居るから、金銭の事に就ては何としても大胆な横着な挙動は出来られません。
書き下し
是れから私が一身一家の経済の事を陳べましょう。凡そ世の中に何が怖いと云ても、暗殺は別にして、借金ぐらい怖いものはない。他人に対して金銭の不義理は相済まぬ事と決定すれば、借金はます/\怖くなります。私共の兄弟姉妹は幼少の時から貧乏の味を嘗め尽して、母の苦労した様子を見ても生涯忘れられません。貧小士族の衣食住その艱難の中に、母の精神を以て自から私共を感化した事の数々あるその一例を申せば、私が十三、四歳のとき母に云付けられて金子返済の使をしたことがあります。その次第柄は斯う云うことです。天保七年、大阪に於て私共が亡父の不幸で母に従て故郷の中津に帰りましたとき、家の普請をするとか何とか云うに、勝手向は勿論不如意ですから、人の世話で頼母子講を拵えて一口金二朱ずつで何両とやら纏まった金が出来て一時の用を弁じて、その後、毎年幾度か講中が二朱ずつの金を持寄り、鬮引にて満座に至りて皆済になる仕組であるが、大家の人は二朱計りの金の為めに何年もこんな事に関係して居るのは面倒だと云う所から、一時二朱の掛金を出したまゝに手を引く者がある。之を掛棄と云います。その実は講主が人に金を唯貰うような事なれども、一般の風俗で左まで世間に怪しむ者もない。所が福澤の頼母子に大阪屋五郎兵衛と云う廻船屋が一口二朱を掛棄にしたそうです。勿論私の三、四歳頃か幼少の時の事で何も知りませんでしたが、十三、四歳のとき或日母が私に申すに、「お前は何も知らぬ事だが、十年前に斯う/\云う事があって大阪屋が掛棄にして、福澤の家は大阪屋に金二朱を貰うたようなものだ。誠に気に済まぬ。武家が町人から金を恵まれて夫れを唯貰うて黙て居ることは出来ません。疾うから返したい/\と思ては居たがドウも爾う行かずに、ヤッと今年は少し融通が付いたから、この二朱のお金を大阪屋に持て行て厚う礼を述べて返して来いと申して、その金を紙に包んで私に渡しました。ソレから私は大阪屋に参て金の包みを出すと、先方では意外に思うたか、「御返済など却て痛入ります。最早や古い事です。決してそんな御心配には及びませんと云て頻りに辞退すれども、私は母の云うことを聞て居るから、是非渡さねばならぬと、互に押し返して口喧嘩のように争うて、金を置て帰たことがあります。今はハヤ五十二、三年も過ぎてむかし/\の事であるが、そのとき母に云付けられた口上も、先方の大阪屋の事も、チャンと記憶に存して忘れません。年月日は覚えないが何でも朝のことゝ思う、豊前中津下小路の西南の角屋敷、大阪屋五郎兵衛の家に行て主人五郎兵衛は留守で、弟の源七に金を渡したと云うことまで覚えて居ます。こんなことが少年の時から私の脳中に遺て居るから、金銭の事に就ては何としても大胆な横着な挙動は出来られません。
現代語訳
これから、私の一身一家の経済のことを述べましょう。およそ世の中で何が怖いといっても、暗殺は別にして、借金ほど怖いものはありません。他人に対して金銭の不義理は相済まぬことと決めてしまえば、借金はますます怖くなります。私たち兄弟姉妹は、幼少のときから貧乏の味をなめ尽くし、母の苦労した様子を見ても、生涯忘れられません。貧しい小士族の衣食住の苦しみのなかで、母の精神によっておのずから私たちを感化したことは数々ありますが、その一例を申せば、私が十三、四歳のとき、母に言いつけられて金子返済の使いをしたことがあります。そのいきさつはこうです。天保七年、大阪で、私たちが亡父の不幸で母に従って故郷の中津に帰ったとき、家の普請をするとか何とかいうことで、暮らし向きはもちろん不如意ですから、人の世話で頼母子講を作り、一口金二朱ずつで何両とやらまとまった金ができて、一時の用をまかないました。その後、毎年幾度か講中が二朱ずつの金を持ち寄り、くじ引きで満座に至って皆済になる仕組みでしたが、大家の人は二朱ばかりの金のために何年もこんなことに関係しているのは面倒だというところから、一度二朱の掛金を出したまま手を引く者がいます。これを掛け捨てといいます。実は講主が人から金をただもらうようなものですが、一般の風俗で、さほど世間が怪しむこともありません。ところが福沢の頼母子に、大阪屋五郎兵衛という廻船屋が、一口二朱を掛け捨てにしたそうです。もちろん私の三、四歳ごろか幼少のときのことで、何も知りませんでしたが、十三、四歳のとき、ある日母が私に申すには、「お前は何も知らぬことだが、十年前にこれこれこういうことがあって、大阪屋が掛け捨てにして、福沢の家は大阪屋に金二朱をもらったようなものだ。誠に気が済まない。武家が町人から金を恵まれて、それをただもらって黙っていることはできません。早くから返したいと思っていたがどうもそうはいかず、やっと今年は少し融通がついたから、この二朱の金を大阪屋に持って行き、厚く礼を述べて返して来なさい」と言って、その金を紙に包んで私に渡しました。それから私は大阪屋に行って金の包みを出すと、先方は意外に思ったのか、「ご返済など、かえって痛み入ります。もはや古いことです。決してそんなご心配には及びません」と言ってしきりに辞退しましたが、私は母の言うことを聞いているので、ぜひ渡さねばならないと、お互いに押し返し、口喧嘩のように争って、金を置いて帰ったことがあります。今はもう五十二、三年も過ぎて昔の昔のことですが、そのとき母に言いつけられた口上も、先方の大阪屋のことも、ちゃんと記憶に残っていて忘れません。年月日は覚えていませんが、何でも朝のことと思います。豊前中津の下小路の西南の角屋敷、大阪屋五郎兵衛の家に行って、主人五郎兵衛は留守で、弟の源七に金を渡したということまで覚えています。こんなことが少年のときから私の頭の中に残っているので、金銭のことについては、どうしても大胆な、横着なふるまいはできません。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
福翁自伝・一身一家経済の由来・金がなければ出来る時まで待つソレから段々成長して、中津に居る間は漢学修業の傍に内職のような事をして多少でも家の活計を助け、畑もすれば米も搗き飯も炊き、鄙事多能、あらん限りの辛苦して貧小士族の家に居り、年二十一のとき始めて長崎に行て、勿論学費のあろう訳けもない、寺の留守番をしたり砲術家の食客になったりして、不自由ながら蘭学を学んで、その後大阪に出て、大阪の緒方先生の塾に修業中も、相替らず金の事は恐ろしくて唯の一度でも他人に借りたことはない。人に借用すれば必ず返済せねばならぬ。当然のことで分り切て居るから、その返済する金が出来る位ならば、出来る時節まで待て居て借金はしないと、斯う覚悟を極めて、ソコで二朱や一分は扨置き、百文の銭でも人に借りたことはない。チャンと自分の金の出来るまで待て居る。夫れから又私は質に置たことがない。着物は塾に居るときも故郷の母が夏冬手織木綿の品を送て呉れましたが、ソレを質に置くと云えば何時か一度は請還さなければならぬ。請還す金があるならその金の出来るまで待て居るが宜いと斯う思うから、金の入用はあっても只の一度も質に入れたことがない。けれどもいよ/\金に迫て如何してもなくてならぬと云うときか、恥かしい事だが酒が飲みたくて堪らないと云うようなことがあれば、思切てその着物を売て仕舞います。例えばその時に浴衣一枚を質に入れゝば弐朱貸して呉れる、之を手離して売ると云えば弐朱と弐百文になるから売ることにすると云うような経済法にして、且つ又私は写本で銭を取ることもしない。大事な修業の身を以て銭の為めに時を費すは勿体ない、吾身の為めには一刻千金の時である、金がなければ唯使わぬと覚悟を定めて、大阪に居る間とう/\一銭の金も借用したことなくして、その後江戸に来ても同様、仮初にも人に借用したことはない。折節自分で想像しては唯怖くて堪らない、借金が出来て人から催促されたら如何だろう、世間の人、朋友の中にも毎度ある話だ、借金が出来て返さなければならぬと云て、此方から借りては彼方に返し、又彼方から借りては此方に返すと云う者があるが、私は少しも感服しない。誠に気の済まぬ話で、金を借りて返さなくてならぬなんて嘸忙しい事であろう、能くもアレで一日でも半日でも安んじて居られたものだと思うて、殆んど推量が出来ない。一口に云えば私は借金の事に就て大の臆病者で、少しも勇気がない。人に金を借用してその催促に逢うて返すことが出来ないと云うときの心配は、恰も白刃を以て後ろから追蒐けられるような心地がするだろうと思います。
-
福翁自伝・大阪修業・四十両の借金家財を売る出るには金の始末をしなければならぬ。その金の始末と云うのは、兄の病気や勤番中の其れ是れの入費、凡そ四十両借金がある。この四十両と云うものは、その時代に私などの家に取ては途方心ない大借。これをこの儘にして置ては迚も始末が付かぬから、何でも片付けなければならぬ。如何しよう。外に仕方がない。何でも売るのだ。一切万物売るより外なしと考えて、聊か頼みがあると云うのは、私の父は学者であったから、藩中では中々蔵書を持て居る。凡そ冊数にして千五百冊ばかりもあって、中には随分世間に類の少ない本もある。例えば私の名を諭吉と云うその諭の字は天保五年十二月十二日の夜、私が誕生したその日に、父が多年所望して居た明律の上諭条例と云う全部六、七十冊ばかりの唐本を買取て、大造喜んで居る処に、その夜男子が出生して重ね/″\の喜びと云う所から、その上諭の諭の字を取て私の名にしたと母から聞いた事がある位で、随分珍らしい漢書があったけれども、母と相談の上、蔵書を始め一切の物を売却しようと云うことになって、先ず手近な物から売れるだけ売ろうと云うので、軸物のような物から売り始めて、目ぼしい物を申せば頼山陽の半切の掛物を金二分に売り、大雅堂の柳下人物の掛物を二両二分、徂徠の書、東涯の書もあったが、誠に値がない、見るに足らぬ。その他はごた/\した雑物ばかり。覚えて居るのは大雅堂と山陽。刀は天正祐定二尺五寸拵付、能く出来たもので四両。ソレカラ蔵書だ。中津の人で買う者はありはせぬ。如何したって何十両と云う金を出す藩士はありはせぬ。所で私の先生、白石と云う漢学の先生が、藩で何か議論をして中津を追出されて豊後の臼杵藩の儒者になって居たから、この先生に便って行けば売れるだろうと思て、臼杵まで態々出掛けて行て、先生に話をした処が、先生の世話で残らずの蔵書を代金十五両で臼杵藩に買て貰い、先ず一口に大金十五両が手に入り、その他有らん限り皿も茶碗も丼も猪口も一切売て、漸く四十両の金が揃い、その金で借金は奇麗に済だが、その蔵書中に易経集註十三冊に伊藤東涯先生が自筆で細々と書入をした見事なものがある。是れは亡父が存命中大阪で買取て殊の外珍重したものと見え、蔵書目録に父の筆を以て、この東涯先生書入の易経十三冊は天下稀有の書なり、子孫謹で福澤の家に蔵むべしと、恰も遺言のようなことが害いてある。私も之を見ては何としても売ることが出来ません。是れ丈けはと思うて残して置たその十三冊は今でも私の家にあります。夫れと今に残って居るのは唐焼の丼が二つある。是れは例の雑物売払のとき道具屋が直を付けて丼二つ三分と云うその三分とは中津の藩札で銭にすれば十八文のことだ。余り馬鹿々々しい、十八文ばかり有ても無くても同じことだと思うて売らなかったのが、その後四十何年無事で、今は筆洗になって居るのも可笑しい。
-
福翁自伝・一身一家経済の由来・借用証書があらば百万円遣ろうソコで或時例の金融家のエライ人が私方に来て、何か金の話になって、千種万様、実に目に染みるような混雑な事を云うから、扨て/\如何もウルサイ事だ、この金を彼方に向けて、彼の金は此方に返えすと云う話であるが、人に貸す金があれば借りなくても宜さそうなものだ、商売人は人の金を借りて商売すると云うことは私も能く知て居るが、苟も人に金を貸すと云うことは余た金があるから貸すのだ、仮令い商売人でも貸す金があるなら成る丈けソレを自分に運転して、他人の金をば成る丈け借用しないようにするのが本意ではないか、然るに自分に資本を持て居ながら、態々人に借用とは入らざる事をしたものだ、余計な苦労を求めるようなものだと云うと、その人が大に笑て、迂闊千万、途方もない事を云う、商売人と云うものは入組んで/\滅茶々々になったと云うその間に、又種々様々の面白いことのあるもので、そんな馬鹿な事が出来るものか、啻に商売人に眼らず、凡そ人の金を借用せずに世の中を渡ると云うことが出来るものか、ソンな人が何処に在るかと云て私を冷却するから、私はその時始めてヒョイと思付た。今御話を聞けば、世の中に借金しない者が何処に在るかと云うが、その人は今こゝに居ます。私は是れまで只の一度も人の金を借りたことがない。「そんな馬鹿な事を云いなさるな。「イヤ如何してもない。生れて五十年(是れは十四、五年前の話)人の金を一銭でも借りたことはない。ソレが嘘ならば、試に私の印形の据て居るものとは云わない、反古でも何でも宜しい、ソレを捜して持て来て御覧。私が百万円で買おう。ドウしたってありはしない。日本国中に福澤の書た借用証文と云うものはソレこそ有る気遣いはないが如何だ、と云うような訳けで、その時に私も始めて思い出したが、私は生れてこの方遂ぞ金を借りたことがない。是れはマア私の眼から見れば尋常一様の事と思うけれども、世間の人が見たらば甚だ尋常一様でないのかも知れぬ。
-
福翁自伝・品行家風・莫逆の友なし経済の事は右の如くにして、私は私の流義を守て生涯このまゝ替えずに終ることであろうと思いますが、ソレから又自分の一身の行状は如何であったか、家を成した後に家の有様は如何かと云うことに付て、有りのまゝの次第を語りましょう。扨私の若い時は如何だと申すに、中津に居たとき子供の時分から成年に至るまで、何としても同藩の人と打解けて真実に交わることが出来ない、本当に朋友になって共々に心事を語る所謂莫逆の友と云うような人は一人もない、世間にないのみならず親類中にもない、と云て私が偏窟者で人と交際が出来ないと云うではない。ソリャ男子に接しても婦人に逢うても快く話をして、ドチラかと云えばお饒舌りの方であったが、本当を云うと表面ばかりで、実はこの人の真似をして見たい、彼の人のように成りたいとも思わず、人に誉められて嬉しくもなく、悪く云われて怖くもなく、都て無頓着で、悪く評すれば人を馬鹿にして居たようなもので、仮初にも争う気がないその証拠には、同年輩の子供と喧嘩をしたことがない、喧嘩をしなければ怪我もしない、友達と喧嘩をして泣て家に帰て阿母さんに言告けると云うようなことは唯の一度もない。口先き計り達者で内実は無難無事な子でした。
-
福翁自伝・幼少の時・儒教主義の教育夫れから最う一つ之に加えると、私の父は学者であった。普通の漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の金持、加島屋、鴻ノ池というような者に交際して藩債の事を司どる役であるが、元来父はコンナ事が不平で堪らない。金銭なんぞ取扱うよりも読書一偏の学者になって居たいという考であるに、存じ掛もなく算盤を執て金の数を数えなければならぬとか、藩借延期の談判をしなければならぬとか云う仕事で、今の洋学者とは大に違って、昔の学者は銭を見るも汚れると云うて居た純粋の学者が、純粋の俗事に当ると云う訳けであるから、不平も無理はない。ダカラ子供を育てるのも全く儒教主義で育てたものであろうと思うその一例を申せば、斯う云うことがある。私は勿論幼少だから手習どころの話でないが、最う十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習をするには、倉屋敷の中に手習の師匠があって、其家には町家の小供も来る。其処でイロハニホヘトを教えるのは宜しいが、大阪の事だから九々の声を教える。二二が四、二三が六。これは当然の話であるが、その事を父が聞て、怪しからぬ事を教える。幼少の小供に勘定の事を知らせると云うのは以ての外だ。斯う云う処に小供は遣て置かれぬ。何を教えるか知れぬ。早速取返せと云て取返した事があると云うことは、後に母に聞きました。何でも大変喧ましい人物であったことは推察が出来る。その書遺したものなどを見れば真実正銘の漢儒で、殊に堀河の伊藤東涯先生が大信心で、誠意誠心、屋漏に愧じずということ許り心掛たものと思われるから、その遺風は自から私の家には存して居なければならぬ。一母五子、他人を交えず世間の附合は少く、明ても暮れても唯母の話を聞く許り、父は死んでも生きてるような者です。ソコデ中津に居て、言葉が違い着物が違うと同時に、私共の兄弟は自然に一団体を成して、言わず語らずの間に高尚に構え、中津人は俗物であると思て、骨肉の従兄弟に対してさえ、心の中には何となく之を目下に見下して居て、夫等の者のすることは一切咎もせぬ、多勢に無勢、咎立をしようと云ても及ぶ話でないと諦らめて居ながら、心の底には丸で歯牙に掛けずに、云わば人を馬鹿にして居たようなものです。今でも覚えて居るが、私が少年の時から家に居て、能く饒舌りもし、飛び廻わり刎ね廻わりして、至極活溌にてありながら、木に登ることが不得手で、水を泳ぐことが皆無出来ぬと云うのも、兎角同藩中の子弟と打解けて遊ぶことが出来ずに孤立した所為でしょう。
-
福翁自伝・幼少の時・厳ならずして家風正し今申す通り私共の兄弟は、幼少のとき中津の人と言語風俗を殊にして、他人の知らぬ処に随分淋しい思いをしましたが、その淋しい間にも家風は至極正しい。厳重な父があるでもないが、母子睦じく暮して兄弟喧嘩など唯の一度もしたことがない。のみか、仮初にも俗な卑陋な事はしられないものだと育てられて、別段に教える者もない、母も決して喧しい六かしい人でないのに、自然に爾うなったのは、矢張り父の遺風と母の感化力でしょう。その事実に現われたことを申せば、鳴物などの一条で、三味線とか何とか云うものを、聞こうとも思わなければ何とも思わぬ。斯様なものは全体私なんぞの聞くべきものでない、矧や玩ぶべき者でないと云う考を持て居るから、遂ぞ芝居見物など念頭に浮んだこともない。例えば、夏になると中津に芝居がある。祭の時には七日も芝居を興行して、田舎役者が芸をするその時には、藩から布令が出る。芝居は何日の間あるが、藩士たるものは決して立寄ることは相成らぬ、住吉の社の石垣より以外に行くことならぬと云うその布令の文面は、甚だ厳重なようにあるが、唯一片の御布令だけの事であるから、俗士族は脇差を一本挟して頬冠りをして颯々と芝居の矢来を破て這入る。若しそれを咎めれば却て叱り飛ばすと云うから、誰も怖がって咎める者はない。町の者は金を払て行くに、士族は忍姿で却て威張て只這入て観る。然るに中以下俗士族の多い中で、その芝居に行かぬのは凡そ私のところ一軒位でしょう。決して行かない。此処から先きは行くことはならぬと云えば、一足でも行かぬ、どんな事があっても。私の母は女ながらも遂ぞ一口でも芝居の事を子供に云わず、兄も亦行こうと云わず、家内中一寸でも話がない。夏、暑い時の事であるから凉には行く。併しその近くで芝居をして居るからと云て見ようともしない、どんな芝居を遣て居るとも噂にもしない、平気で居ると云うような家風でした。
人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る