福翁自伝 / 一身一家経済の由来・金がなければ出来る時まで待つ
ソレから段々成長して、中津に居る間は漢学修業の傍に内職のような事をして多少でも家の活計を助け、畑もすれば米も搗き飯も炊き、鄙事多能、あらん限りの辛苦して貧小士族の家に居り、年二十一のとき始めて長崎に行て、勿論学費のあろう訳けもない、寺の留守番をしたり砲術家の食客になったりして、不自由ながら蘭学を学んで、その後大阪に出て、大阪の緒方先生の塾に修業中も、相替らず金の事は恐ろしくて唯の一度でも他人に借りたことはない。人に借用すれば必ず返済せねばならぬ。当然のことで分り切て居るから、その返済する金が出来る位ならば、出来る時節まで待て居て借金はしないと、斯う覚悟を極めて、ソコで二朱や一分は扨置き、百文の銭でも人に借りたことはない。チャンと自分の金の出来るまで待て居る。夫れから又私は質に置たことがない。着物は塾に居るときも故郷の母が夏冬手織木綿の品を送て呉れましたが、ソレを質に置くと云えば何時か一度は請還さなければならぬ。請還す金があるならその金の出来るまで待て居るが宜いと斯う思うから、金の入用はあっても只の一度も質に入れたことがない。けれどもいよ/\金に迫て如何してもなくてならぬと云うときか、恥かしい事だが酒が飲みたくて堪らないと云うようなことがあれば、思切てその着物を売て仕舞います。例えばその時に浴衣一枚を質に入れゝば弐朱貸して呉れる、之を手離して売ると云えば弐朱と弐百文になるから売ることにすると云うような経済法にして、且つ又私は写本で銭を取ることもしない。大事な修業の身を以て銭の為めに時を費すは勿体ない、吾身の為めには一刻千金の時である、金がなければ唯使わぬと覚悟を定めて、大阪に居る間とう/\一銭の金も借用したことなくして、その後江戸に来ても同様、仮初にも人に借用したことはない。折節自分で想像しては唯怖くて堪らない、借金が出来て人から催促されたら如何だろう、世間の人、朋友の中にも毎度ある話だ、借金が出来て返さなければならぬと云て、此方から借りては彼方に返し、又彼方から借りては此方に返すと云う者があるが、私は少しも感服しない。誠に気の済まぬ話で、金を借りて返さなくてならぬなんて嘸忙しい事であろう、能くもアレで一日でも半日でも安んじて居られたものだと思うて、殆んど推量が出来ない。一口に云えば私は借金の事に就て大の臆病者で、少しも勇気がない。人に金を借用してその催促に逢うて返すことが出来ないと云うときの心配は、恰も白刃を以て後ろから追蒐けられるような心地がするだろうと思います。
書き下し
ソレから段々成長して、中津に居る間は漢学修業の傍に内職のような事をして多少でも家の活計を助け、畑もすれば米も搗き飯も炊き、鄙事多能、あらん限りの辛苦して貧小士族の家に居り、年二十一のとき始めて長崎に行て、勿論学費のあろう訳けもない、寺の留守番をしたり砲術家の食客になったりして、不自由ながら蘭学を学んで、その後大阪に出て、大阪の緒方先生の塾に修業中も、相替らず金の事は恐ろしくて唯の一度でも他人に借りたことはない。人に借用すれば必ず返済せねばならぬ。当然のことで分り切て居るから、その返済する金が出来る位ならば、出来る時節まで待て居て借金はしないと、斯う覚悟を極めて、ソコで二朱や一分は扨置き、百文の銭でも人に借りたことはない。チャンと自分の金の出来るまで待て居る。夫れから又私は質に置たことがない。着物は塾に居るときも故郷の母が夏冬手織木綿の品を送て呉れましたが、ソレを質に置くと云えば何時か一度は請還さなければならぬ。請還す金があるならその金の出来るまで待て居るが宜いと斯う思うから、金の入用はあっても只の一度も質に入れたことがない。けれどもいよ/\金に迫て如何してもなくてならぬと云うときか、恥かしい事だが酒が飲みたくて堪らないと云うようなことがあれば、思切てその着物を売て仕舞います。例えばその時に浴衣一枚を質に入れゝば弐朱貸して呉れる、之を手離して売ると云えば弐朱と弐百文になるから売ることにすると云うような経済法にして、且つ又私は写本で銭を取ることもしない。大事な修業の身を以て銭の為めに時を費すは勿体ない、吾身の為めには一刻千金の時である、金がなければ唯使わぬと覚悟を定めて、大阪に居る間とう/\一銭の金も借用したことなくして、その後江戸に来ても同様、仮初にも人に借用したことはない。折節自分で想像しては唯怖くて堪らない、借金が出来て人から催促されたら如何だろう、世間の人、朋友の中にも毎度ある話だ、借金が出来て返さなければならぬと云て、此方から借りては彼方に返し、又彼方から借りては此方に返すと云う者があるが、私は少しも感服しない。誠に気の済まぬ話で、金を借りて返さなくてならぬなんて嘸忙しい事であろう、能くもアレで一日でも半日でも安んじて居られたものだと思うて、殆んど推量が出来ない。一口に云えば私は借金の事に就て大の臆病者で、少しも勇気がない。人に金を借用してその催促に逢うて返すことが出来ないと云うときの心配は、恰も白刃を以て後ろから追蒐けられるような心地がするだろうと思います。
現代語訳
それから次第に成長して、中津にいる間は、漢学の修業のかたわら内職のようなことをして、多少でも家の暮らしを助け、畑もすれば米もつき飯も炊き、雑事に何でも通じ、あらん限りの辛苦をして貧しい小士族の家におり、二十一歳のとき初めて長崎に行きました。もちろん学費があるはずもなく、寺の留守番をしたり、砲術家の食客になったりして、不自由ながら蘭学を学び、その後大阪に出て、大阪の緒方先生の塾で修業中も、相変わらず金のことは恐ろしくて、ただの一度でも他人に借りたことはありません。人に借りれば必ず返済しなければならない。当然のことで分かりきっているから、その返済する金ができるくらいなら、できる時節まで待っていて借金はしない、とこう覚悟を決めて、二朱や一分はさておき、百文の銭でも人に借りたことはありません。ちゃんと自分の金のできるまで待っているのです。それからまた私は、質に置いたことがありません。着物は塾にいるときも、故郷の母が夏冬に手織りの木綿の品を送ってくれましたが、それを質に置くといえば、いつか一度は請け戻さなければならない。請け戻す金があるなら、その金のできるまで待っているのがいい、とこう思うので、金の入用はあっても、ただの一度も質に入れたことがありません。けれども、いよいよ金に迫られて、どうしてもなくてはならないというときか、恥ずかしいことですが、酒が飲みたくてたまらないというようなことがあれば、思い切ってその着物を売ってしまいます。例えば、そのときに浴衣一枚を質に入れれば二朱貸してくれる、これを手放して売るといえば二朱と二百文になるから、売ることにする、という経済法にして、かつまた私は、写本で銭を取ることもしません。大事な修業の身で、銭のために時を費やすのはもったいない。わが身のためには一刻千金の時である。金がなければただ使わぬと覚悟を定めて、大阪にいる間、とうとう一銭の金も借用したことなく、その後江戸に来ても同様で、かりそめにも人に借用したことはありません。折々自分で想像しては、ただ怖くてたまらない。借金ができて人から催促されたらどうだろう、世間の人、友人のなかにもたびたびある話だ。借金ができて返さなければならないといって、こちらから借りてはあちらに返し、またあちらから借りてはこちらに返すという者があるが、私は少しも感服しない。まことに気の済まない話で、金を借りて返さなくてはならないなんて、さぞ忙しいことだろう、よくもあれで一日でも半日でも安心していられたものだと思って、ほとんど推量ができません。一口に言えば、私は借金のことについては大の臆病者で、少しも勇気がありません。人に金を借用してその催促に遭い、返すことができないというときの心配は、まるで白刃を持って後ろから追いかけられるような心地がするだろうと思います。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・一身一家経済の由来・頼母子の金弐朱を返す是れから私が一身一家の経済の事を陳べましょう。凡そ世の中に何が怖いと云ても、暗殺は別にして、借金ぐらい怖いものはない。他人に対して金銭の不義理は相済まぬ事と決定すれば、借金はます/\怖くなります。私共の兄弟姉妹は幼少の時から貧乏の味を嘗め尽して、母の苦労した様子を見ても生涯忘れられません。貧小士族の衣食住その艱難の中に、母の精神を以て自から私共を感化した事の数々あるその一例を申せば、私が十三、四歳のとき母に云付けられて金子返済の使をしたことがあります。その次第柄は斯う云うことです。天保七年、大阪に於て私共が亡父の不幸で母に従て故郷の中津に帰りましたとき、家の普請をするとか何とか云うに、勝手向は勿論不如意ですから、人の世話で頼母子講を拵えて一口金二朱ずつで何両とやら纏まった金が出来て一時の用を弁じて、その後、毎年幾度か講中が二朱ずつの金を持寄り、鬮引にて満座に至りて皆済になる仕組であるが、大家の人は二朱計りの金の為めに何年もこんな事に関係して居るのは面倒だと云う所から、一時二朱の掛金を出したまゝに手を引く者がある。之を掛棄と云います。その実は講主が人に金を唯貰うような事なれども、一般の風俗で左まで世間に怪しむ者もない。所が福澤の頼母子に大阪屋五郎兵衛と云う廻船屋が一口二朱を掛棄にしたそうです。勿論私の三、四歳頃か幼少の時の事で何も知りませんでしたが、十三、四歳のとき或日母が私に申すに、「お前は何も知らぬ事だが、十年前に斯う/\云う事があって大阪屋が掛棄にして、福澤の家は大阪屋に金二朱を貰うたようなものだ。誠に気に済まぬ。武家が町人から金を恵まれて夫れを唯貰うて黙て居ることは出来ません。疾うから返したい/\と思ては居たがドウも爾う行かずに、ヤッと今年は少し融通が付いたから、この二朱のお金を大阪屋に持て行て厚う礼を述べて返して来いと申して、その金を紙に包んで私に渡しました。ソレから私は大阪屋に参て金の包みを出すと、先方では意外に思うたか、「御返済など却て痛入ります。最早や古い事です。決してそんな御心配には及びませんと云て頻りに辞退すれども、私は母の云うことを聞て居るから、是非渡さねばならぬと、互に押し返して口喧嘩のように争うて、金を置て帰たことがあります。今はハヤ五十二、三年も過ぎてむかし/\の事であるが、そのとき母に云付けられた口上も、先方の大阪屋の事も、チャンと記憶に存して忘れません。年月日は覚えないが何でも朝のことゝ思う、豊前中津下小路の西南の角屋敷、大阪屋五郎兵衛の家に行て主人五郎兵衛は留守で、弟の源七に金を渡したと云うことまで覚えて居ます。こんなことが少年の時から私の脳中に遺て居るから、金銭の事に就ては何としても大胆な横着な挙動は出来られません。
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福翁自伝・一身一家経済の由来・百五十両を掠め去るその二、三ヶ条を云えば、小幡その外の人が江戸に来て居て、私が一切引受けて世話をして居るときに、藩から勿論ソレに立行く丈けの金を呉れよう訳けはない。ドウやら斯うやら種々様々に、私が有らん限りの才覚をして金を造た。例えば当時横浜に今のような欧字新聞がある、一週に一度ずつの発行、その新聞を取寄せて、ソレを飜訳しては、佐賀藩の留守居とか仙台藩の留守居とか、その外一、二藩もありました、ソンな人に話を付けて、ドウぞ飜訳を買て貰いたいと云て多少の金にするような工風をしたり、又は私が外国から持て帰た原書の中の不用物を売たりして金策をして居ましたが、何分大勢の書生の世話だからその位の事では迚も追付く訳けのものでない。所でその時江戸の藩邸に金のあることを聞込んだから、即案に宜い加減な事を書立て、何月何日頃何の事で自分の手に金の這入る約束があると云うような嘘を拵えて、誠めかしく家老の処に行て、散々御辞儀をして、斯う/\云う訳けですから暫時百五十両丈けの御振替を願いますと極手軽に話をすると、家老は逸見志摩と云う誠に正しい気の宜い人で、暫時のことならば拝借仰付けられても宜かろうと云うような曖昧な答をしたから、その笞を聞くや否やすぐにその次の元締役の奉行の処に行て、今御家老志摩殿に斯う云う話をした所が、貸して苦しくないと御聞済になったから、今日その御金を請取りたいと云うと、奉行は不審を抱き、ソレは何時の事だか知らぬがマダその筋から御沙汰にならぬと妙な顔色して居るから、仮令い御沙汰にならぬでもモウ事は済んで居ます、唯金をさえ渡して下されば宜しい、何も六かしい事はないと段々説た、所が家老衆が爾う云えば、御金のないことはない、余り不都合でもなかろうとその答も曖昧であったが、此方はモウ済んだ事にして仕舞て、その足で又その下役の元締小吟味、是れが真実その金庫の鍵を持て居る人であるその小吟味方の処へ行て、只今金を出して貰いたい、斯う/\云う次第で決してお前さんの落度になりはしない、正当な手順で、僅か三ヶ月経てば私の手にちゃんと金が出来るからすぐに返上すると云て、何の事はない、疾雷耳を掩うに遑あらず、役人と役人と評議相談のない間に、百五十両と云う大金を掠めて持て来たその時は、恰も手に竜宮の珠を握りたるが如くにして、且つその握た珠を竜宮へ返えそうなんと云う念は毛頭ない。誠に不埒な奴さ。夫れで以て一年ばかり大に楽をしたことがあります。
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福翁自伝・一身一家経済の由来・他人に私事を語らず私が経済上に堅固を守て臆病で大胆な事の出来ないのは、先天の性質であるか、抑も亦身の境遇に駈られて遂に堅く凝り固まったものでしょう。本年六十五歳になりますが、二十一歳のとき家を去て以来、自から一身の謀を為し、二十三歳、家兄を喪いしより後は、老母と姪と二人の身の上を引受け、二十八歳にして妻を娶り子を生み、一家の責任を自分一身に担うて、今年に至るまで四十五年のその間、二十三歳の冬大阪緒方先生に身の貧困を訴えて大恩に浴したるのみ、その他は仮初にも身事家事の私を他人に相談したこともなければ又依頼したこともない。人の智恵を借りようとも思わず、人の差図を受けようとも思わず、人間万事天運に在りと覚悟して、勉めることは飽くまでも根気能く勉めて、種々様々の方便を運らし、交際を広くして愛憎の念を絶ち、人に勧め又人の同意を求めるなどは十人並に遣りながら、ソレでも思う事の叶わぬときは、尚おそれ以上に進んで哀願はしない、唯元に立戻て独り静に思止るのみ。詰る所、他人の熱に依らぬと云うのが私の本願で、この一義は私が何時発起したやら、自分にも是れと云う覚えはないが、少年の時からソンな心掛け、イヤ心掛けと云うよりもソンな癖があったと思われます。
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福翁自伝・幼少の時・儒教主義の教育夫れから最う一つ之に加えると、私の父は学者であった。普通の漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の金持、加島屋、鴻ノ池というような者に交際して藩債の事を司どる役であるが、元来父はコンナ事が不平で堪らない。金銭なんぞ取扱うよりも読書一偏の学者になって居たいという考であるに、存じ掛もなく算盤を執て金の数を数えなければならぬとか、藩借延期の談判をしなければならぬとか云う仕事で、今の洋学者とは大に違って、昔の学者は銭を見るも汚れると云うて居た純粋の学者が、純粋の俗事に当ると云う訳けであるから、不平も無理はない。ダカラ子供を育てるのも全く儒教主義で育てたものであろうと思うその一例を申せば、斯う云うことがある。私は勿論幼少だから手習どころの話でないが、最う十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習をするには、倉屋敷の中に手習の師匠があって、其家には町家の小供も来る。其処でイロハニホヘトを教えるのは宜しいが、大阪の事だから九々の声を教える。二二が四、二三が六。これは当然の話であるが、その事を父が聞て、怪しからぬ事を教える。幼少の小供に勘定の事を知らせると云うのは以ての外だ。斯う云う処に小供は遣て置かれぬ。何を教えるか知れぬ。早速取返せと云て取返した事があると云うことは、後に母に聞きました。何でも大変喧ましい人物であったことは推察が出来る。その書遺したものなどを見れば真実正銘の漢儒で、殊に堀河の伊藤東涯先生が大信心で、誠意誠心、屋漏に愧じずということ許り心掛たものと思われるから、その遺風は自から私の家には存して居なければならぬ。一母五子、他人を交えず世間の附合は少く、明ても暮れても唯母の話を聞く許り、父は死んでも生きてるような者です。ソコデ中津に居て、言葉が違い着物が違うと同時に、私共の兄弟は自然に一団体を成して、言わず語らずの間に高尚に構え、中津人は俗物であると思て、骨肉の従兄弟に対してさえ、心の中には何となく之を目下に見下して居て、夫等の者のすることは一切咎もせぬ、多勢に無勢、咎立をしようと云ても及ぶ話でないと諦らめて居ながら、心の底には丸で歯牙に掛けずに、云わば人を馬鹿にして居たようなものです。今でも覚えて居るが、私が少年の時から家に居て、能く饒舌りもし、飛び廻わり刎ね廻わりして、至極活溌にてありながら、木に登ることが不得手で、水を泳ぐことが皆無出来ぬと云うのも、兎角同藩中の子弟と打解けて遊ぶことが出来ずに孤立した所為でしょう。
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福翁自伝・一身一家経済の由来・駕籠に乗らず下駄、傘を買うソコで私が金を大事にする心掛けの事実に現われた例を申せば、江戸に参てから下谷練塀小路の大槻俊斎先生の塾に朋友があって、私はその時鉄砲洲に居たが、その朋友の処へ話に行て、夜になって練塀小路を出掛けて、和泉橋の処に来ると雨が降出した。こりゃドウも困たことが出来た、迚も鉄砲洲までは行かれないと思うと、和泉橋の側に辻駕籠が居たから、その駕籠屋に鉄砲洲まで幾らで行くかと聞たら、三朱だと云う。ドウも三朱と云う金を出してこの駕籠に乗るは無益だ、此方は足がある。ソレは乗らぬことにして、その少し先きに下駄屋が見えるから、下駄屋へ寄て下駄一足に傘一本買て両方で二朱余り、三朱出ない。夫れから雪駄を懐に入れて、下駄を穿て傘をさして鉄砲洲まで帰て来た。デその途中私は独り首肯き、この下駄と傘が又役に立つ、駕籠に乗たって何も後に残るものはない、こんな処が慎むべきことだと思たことがあります、マアその位に注意して居たから、外は推して知るべし、一切無駄な金を使たことがない。紙入に金を入れて置く、ソレは二分か三分か入れてある、入れてあるけれども何時まで経てもその金のなくなったことがない。酒は固より好きだから朋友と酒を飲みに行くことはある、ソンな時には金も入りますが、唯独りでブラリと料理茶屋に這入て酒を飲むなぞと云うことは仮初にもしたことがない。ソレ程に私が金を大事にするから、又同時に人の金も決して貪らない。ソリャ以前奥平家に対して朝鮮人を気取たのは別な話にして、その外と云うのは決して金は貪らないと、自身独立、自力自活と覚悟を極めました。
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福翁自伝・大阪修業・四十両の借金家財を売る出るには金の始末をしなければならぬ。その金の始末と云うのは、兄の病気や勤番中の其れ是れの入費、凡そ四十両借金がある。この四十両と云うものは、その時代に私などの家に取ては途方心ない大借。これをこの儘にして置ては迚も始末が付かぬから、何でも片付けなければならぬ。如何しよう。外に仕方がない。何でも売るのだ。一切万物売るより外なしと考えて、聊か頼みがあると云うのは、私の父は学者であったから、藩中では中々蔵書を持て居る。凡そ冊数にして千五百冊ばかりもあって、中には随分世間に類の少ない本もある。例えば私の名を諭吉と云うその諭の字は天保五年十二月十二日の夜、私が誕生したその日に、父が多年所望して居た明律の上諭条例と云う全部六、七十冊ばかりの唐本を買取て、大造喜んで居る処に、その夜男子が出生して重ね/″\の喜びと云う所から、その上諭の諭の字を取て私の名にしたと母から聞いた事がある位で、随分珍らしい漢書があったけれども、母と相談の上、蔵書を始め一切の物を売却しようと云うことになって、先ず手近な物から売れるだけ売ろうと云うので、軸物のような物から売り始めて、目ぼしい物を申せば頼山陽の半切の掛物を金二分に売り、大雅堂の柳下人物の掛物を二両二分、徂徠の書、東涯の書もあったが、誠に値がない、見るに足らぬ。その他はごた/\した雑物ばかり。覚えて居るのは大雅堂と山陽。刀は天正祐定二尺五寸拵付、能く出来たもので四両。ソレカラ蔵書だ。中津の人で買う者はありはせぬ。如何したって何十両と云う金を出す藩士はありはせぬ。所で私の先生、白石と云う漢学の先生が、藩で何か議論をして中津を追出されて豊後の臼杵藩の儒者になって居たから、この先生に便って行けば売れるだろうと思て、臼杵まで態々出掛けて行て、先生に話をした処が、先生の世話で残らずの蔵書を代金十五両で臼杵藩に買て貰い、先ず一口に大金十五両が手に入り、その他有らん限り皿も茶碗も丼も猪口も一切売て、漸く四十両の金が揃い、その金で借金は奇麗に済だが、その蔵書中に易経集註十三冊に伊藤東涯先生が自筆で細々と書入をした見事なものがある。是れは亡父が存命中大阪で買取て殊の外珍重したものと見え、蔵書目録に父の筆を以て、この東涯先生書入の易経十三冊は天下稀有の書なり、子孫謹で福澤の家に蔵むべしと、恰も遺言のようなことが害いてある。私も之を見ては何としても売ることが出来ません。是れ丈けはと思うて残して置たその十三冊は今でも私の家にあります。夫れと今に残って居るのは唐焼の丼が二つある。是れは例の雑物売払のとき道具屋が直を付けて丼二つ三分と云うその三分とは中津の藩札で銭にすれば十八文のことだ。余り馬鹿々々しい、十八文ばかり有ても無くても同じことだと思うて売らなかったのが、その後四十何年無事で、今は筆洗になって居るのも可笑しい。
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