福翁自伝 / 幼少の時・青天白日に徳利(2)
夫れから私の兄は年を取て居て色々の朋友がある。時勢論などをして居たのを聞たこともある、けれども私は夫れに就て喙を容れるような地位でない。只追使れる許り。その時、中津の人気は如何かと云えば、学者は挙て水戸の御隠居様、即ち烈公の事と、越前の春嶽様の話が多い。学者は水戸の老公と云い、俗では水戸の御隠居様と云う。御三家の事だから譜代大名の家来は大変に崇めて、仮初にも隠居などゝ呼棄にする者は一人もない。水戸の御隠居様、水戸の老公と尊称して、天下一の人物のように話して居たから、私も左様思て居ました。ソレカラ江川太郎左衛門も幕府の旗本だから、江川様と蔭でも屹と様付にして、之も中々評判が高い。或時兄などの話に、江川太郎左衛門と云う人は近世の英雄で、寒中袷一枚着て居ると云うような話をして居るのを、私が側から一寸と聞て、何にその位の事は誰でも出来ると云うような気になって、ソレカラ私は誰にも相談せずに、毎晩掻巻一枚着て敷蒲団も敷かず畳の上に寝ることを始めた。スルト母は之を見て、何の真似か、ソンナ事をすると風邪を引くと云て、頻りに止めるけれども、トウ/\聴かずに一冬通したことがあるが、是れも十五、六歳の頃、唯人に負けぬ気で遣たので身体も丈夫であったと思われる。
書き下し
夫れから私の兄は年を取て居て色々の朋友がある。時勢論などをして居たのを聞たこともある、けれども私は夫れに就て喙を容れるような地位でない。只追使れる許り。その時、中津の人気は如何かと云えば、学者は挙て水戸の御隠居様、即ち烈公の事と、越前の春嶽様の話が多い。学者は水戸の老公と云い、俗では水戸の御隠居様と云う。御三家の事だから譜代大名の家来は大変に崇めて、仮初にも隠居などゝ呼棄にする者は一人もない。水戸の御隠居様、水戸の老公と尊称して、天下一の人物のように話して居たから、私も左様思て居ました。ソレカラ江川太郎左衛門も幕府の旗本だから、江川様と蔭でも屹と様付にして、之も中々評判が高い。或時兄などの話に、江川太郎左衛門と云う人は近世の英雄で、寒中袷一枚着て居ると云うような話をして居るのを、私が側から一寸と聞て、何にその位の事は誰でも出来ると云うような気になって、ソレカラ私は誰にも相談せずに、毎晩掻巻一枚着て敷蒲団も敷かず畳の上に寝ることを始めた。スルト母は之を見て、何の真似か、ソンナ事をすると風邪を引くと云て、頻りに止めるけれども、トウ/\聴かずに一冬通したことがあるが、是れも十五、六歳の頃、唯人に負けぬ気で遣たので身体も丈夫であったと思われる。
現代語訳
それから私の兄は年上で、いろいろな友人がいます。時勢論などをしているのを聞いたこともありますが、私はそれについて口を出すような立場ではありません。ただ使い走りをさせられるばかり。その頃、中津の人気はどうかといえば、学者はこぞって水戸の御隠居様、すなわち烈公のことと、越前の春嶽様の話が多い。学者は水戸の老公といい、俗では水戸の御隠居様といいます。御三家のことですから、譜代大名の家来はたいへんに崇めて、かりそめにも隠居などと呼び捨てにする者は一人もいません。水戸の御隠居様、水戸の老公と尊称して、天下一の人物のように話していたので、私もそう思っていました。それから江川太郎左衛門も幕府の旗本ですから、江川様と陰でも必ず様付けにして、これもなかなか評判が高い。あるとき兄などの話に、江川太郎左衛門という人は近世の英雄で、寒中に袷一枚で過ごしているというような話をしているのを、私が脇からちょっと聞いて、何だ、そのくらいのことは誰でも出来るという気になって、それから私は誰にも相談せずに、毎晩掻巻一枚を着て、敷き蒲団も敷かずに畳の上に寝ることを始めました。すると母はこれを見て、何の真似か、そんなことをすると風邪を引くといって、しきりに止めるけれども、とうとう聞かずに一冬通したことがあります。これも十五、六歳の頃、ただ人に負けない気持ちでやったので、身体も丈夫だったと思われます。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・品行家風・莫逆の友なし経済の事は右の如くにして、私は私の流義を守て生涯このまゝ替えずに終ることであろうと思いますが、ソレから又自分の一身の行状は如何であったか、家を成した後に家の有様は如何かと云うことに付て、有りのまゝの次第を語りましょう。扨私の若い時は如何だと申すに、中津に居たとき子供の時分から成年に至るまで、何としても同藩の人と打解けて真実に交わることが出来ない、本当に朋友になって共々に心事を語る所謂莫逆の友と云うような人は一人もない、世間にないのみならず親類中にもない、と云て私が偏窟者で人と交際が出来ないと云うではない。ソリャ男子に接しても婦人に逢うても快く話をして、ドチラかと云えばお饒舌りの方であったが、本当を云うと表面ばかりで、実はこの人の真似をして見たい、彼の人のように成りたいとも思わず、人に誉められて嬉しくもなく、悪く云われて怖くもなく、都て無頓着で、悪く評すれば人を馬鹿にして居たようなもので、仮初にも争う気がないその証拠には、同年輩の子供と喧嘩をしたことがない、喧嘩をしなければ怪我もしない、友達と喧嘩をして泣て家に帰て阿母さんに言告けると云うようなことは唯の一度もない。口先き計り達者で内実は無難無事な子でした。
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