易経 / 大過卦
藉用白茅,柔在下也。 老夫女妻,過以相與也。 棟橈之凶,不可以有輔也。 棟隆之吉,不橈乎下也。 枯楊生華,何可久也。老婦士夫,亦可丑也。 過涉之凶,不可咎也。
新字:藉用白茅,柔在下也。 老夫女妻,過以相与也。 棟橈之凶,不可以有輔也。 棟隆之吉,不橈乎下也。 枯楊生華,何可久也。老婦士夫,亦可丑也。 過渉之凶,不可咎也。
書き下し
藉くに白茅を用うとは、柔下に在るなり。老夫女妻とは、過ぎて以て相与するなり。棟橈むの凶は、以て輔有るべからざるなり。棟隆きの吉は、下に橈まざるなり。枯楊華を生ず、何ぞ久しかるべけんや。老婦士夫、亦醜ずべきなり。過ぎて渉るの凶は、咎むべからざるなり。
現代語訳
「供え物の下に白い茅を敷く」とは、柔らかいものが下にあることである。「年老いた男と若い妻」とは、度を過ぎてはいるが互いに助け合うことである。「棟木がたわんで凶」とは、助けてくれる者を持つことができないからである。「棟木が高く盛り上がって吉」とは、下に向かってたわまないからである。「枯れた楊に花が咲く」とは、どうして長く続くことがあろうか。「年老いた女と若い夫」とは、やはり恥ずべきことである。「度を越して渡る凶」とは、とがめることはできないということである。
解説
大過の爻辞に象伝が理由を添えた部分です。九三の棟木がたわむ凶を「以て輔有るべからざるなり」、助ける者を持てないからだと説き、九四の棟木が高く保たれる吉を「下に橈まざるなり」とします。重荷を一人で抱え、支えを得られない者から崩れていくのです。また枯れた楊に花が咲くことを「何ぞ久しかるべけんや」と、非常の時の華やぎは長く続かないと見ています。大きな責任を負うときこそ、一人で背負い込まず支え手を得ること、一時の盛り上がりに浮かれないことが肝心です。
この章句が説くこと
重責支え手孤立非常時
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