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童子問 / 卷下

藉令非堯舜。若有能造中庸之極。足以師表萬世者。夫子亦必祖述之。何必堯舜而已哉。所謂憲章文武者。亦是也。憲章者。顯表章之也。亦祖述之謂。夫非其意。則不祖述之。非其意。則亦不憲章之。猶身在堂上。而指堂下人之直者而示之。故曰。其祖述之者。是自祖述之也。其憲章之者。是自憲章之也。其不取伏犧神農黃帝。又不列少昊顓頊高辛。獨祖述堯舜。是夫子之所獨。而雖堯舜。亦所不及也。故祖述堯舜者。是其所以賢於堯舜也。子曰。述而不作。又曰。信而好古。夫以夫子之大聖。而卒不自我作古。是孔子之本心。而學問之極則也。故論語子罕堯曰二篇。歷擧羣聖。皆始於堯舜。而終於文武。許行爲神農之言。則孟子亦折衷以堯舜之憂天下。所以中庸贊夫子之德。曰祖述堯舜憲章文武。其意可見矣。而宋諸大儒。或以天皇地皇人皇爲三皇。以庖犧神農黃帝堯舜爲五帝。或別以伏犧神農黃帝堯舜爲列。皆不知夫子祖述堯舜之意故也。

新字:藉令非堯舜。若有能造中庸之極。足以師表万世者。夫子亦必祖述之。何必堯舜而已哉。所謂憲章文武者。亦是也。憲章者。顕表章之也。亦祖述之謂。夫非其意。則不祖述之。非其意。則亦不憲章之。猶身在堂上。而指堂下人之直者而示之。故曰。其祖述之者。是自祖述之也。其憲章之者。是自憲章之也。其不取伏犠神農黄帝。又不列少昊顓頊高辛。独祖述堯舜。是夫子之所独。而雖堯舜。亦所不及也。故祖述堯舜者。是其所以賢於堯舜也。子曰。述而不作。又曰。信而好古。夫以夫子之大聖。而卒不自我作古。是孔子之本心。而学問之極則也。故論語子罕堯曰二篇。歴挙羣聖。皆始於堯舜。而終於文武。許行為神農之言。則孟子亦折衷以堯舜之憂天下。所以中庸賛夫子之徳。曰祖述堯舜憲章文武。其意可見矣。而宋諸大儒。或以天皇地皇人皇為三皇。以庖犠神農黄帝堯舜為五帝。或別以伏犠神農黄帝堯舜為列。皆不知夫子祖述堯舜之意故也。

書き下し

藉令堯舜に非ずとも、若し能く中庸の極に造りて、以て万世に師表たるに足る者有らば、夫子も亦必ず之を祖述せん。何ぞ必ずしも堯舜のみならんや。所謂文武を憲章する者も、亦是れなり。憲章とは、顕らかに之を表章するなり。亦祖述の謂ひなり。夫れ其の意に非ざれば、則ち之を祖述せず。其の意に非ざれば、則ち亦之を憲章せず。猶身堂上に在りて、堂下の人の直なる者を指して之を示すがごとし。故に曰く、其の之を祖述する者は、是れ自ら之を祖述するなり。其の之を憲章する者は、是れ自ら之を憲章するなり、と。其の伏犧・神農・黄帝を取らず、又少昊・顓頊・高辛を列せずして、独り堯舜を祖述するは、是れ夫子の独りする所にして、堯舜と雖も亦及ばざる所なり。故に堯舜を祖述するは、是れ其の堯舜より賢れる所以なり。子曰く、述べて作らず、と。又曰く、信じて古を好む、と。夫れ夫子の大聖を以てして、卒に自ら我より古を作らず。是れ孔子の本心にして、学問の極則なり。故に論語の子罕・堯曰の二篇、群聖を歴挙して、皆堯舜に始まりて文武に終はる。許行神農の言を為せば、則ち孟子も亦堯舜の天下を憂ふるを以て折衷す。中庸の夫子の徳を賛して、堯舜を祖述し文武を憲章すと曰ふ所以、其の意見るべし。而るに宋の諸大儒、或いは天皇・地皇・人皇を以て三皇と為し、庖犧・神農・黄帝・堯舜を以て五帝と為し、或いは別に伏犧・神農・黄帝・堯舜を以て列と為す。皆夫子の堯舜を祖述するの意を知らざるが故なり。

現代語訳

たとえ堯舜でなくても、もし中庸の極みに到達して、万世の手本となるに足る者がいれば、孔子は必ずその人を祖述したであろう。どうして必ず堯舜だけに限ろうか。いわゆる文王・武王を手本としたというのも同じである。憲章とは、はっきりとそれを顕彰することであり、祖述と同じ意味である。そもそも孔子の意にかなわなければ祖述せず、意にかなわなければ手本ともしない。ちょうど身が堂の上にあって、堂の下の人々の中の正しい者を指して示すようなものである。だから「祖述したのは自ら祖述したのであり、手本としたのは自ら手本としたのである」と言うのである。伏犠・神農・黄帝を取らず、また少昊・顓頊・高辛を並べず、ただ堯舜だけを祖述したのは、孔子だけがなしえたことであって、堯舜でさえ及ばないところである。だから堯舜を祖述したことこそ、孔子が堯舜より優れている理由なのである。孔子は「述べて作らず」と言い、また「信じて古を好む」と言った。そもそも孔子ほどの大聖人でありながら、ついに自分から新しい古典を作らなかった。これが孔子の本心であり、学問の究極の法則である。だから論語の子罕・堯曰の二篇は、多くの聖人を順に挙げて、みな堯舜に始まり文王・武王に終わる。許行が神農の説を唱えると、孟子もまた堯舜が天下を憂えたことを基準として裁いた。中庸が孔子の徳をたたえて「堯舜を祖述し、文武を憲章す」と言った理由も、その意味がわかるであろう。ところが宋の大儒たちは、ある者は天皇・地皇・人皇を三皇とし、庖犠・神農・黄帝・堯・舜を五帝とし、ある者は別に伏犠・神農・黄帝・堯・舜を並べた。いずれも孔子が堯舜を祖述した意味を知らないからである。

解説

後半では、祖述の基準が人物ではなく中庸の極にあることが明かされる。堯舜でなくとも中庸の極に達した者がいれば、孔子は必ずその人を祖述しただろうというのである。伏犠・神農・黄帝らを取らず堯舜だけを選んだ見識こそ孔子だけのものであり、それが堯舜より賢れる所以だと仁斎は論じる。「述べて作らず、信じて古を好む」を学問の極則とするのも、自分の創作より正しい手本を選ぶ目を重んじるからである。三皇五帝を並べ立てる宋儒は、この選択の意味を見落としたという。何を手本にするかを選ぶ目にこそ、その人の見識が表れると、この章は教えている。

この章句が説くこと

祖述中庸堯舜学問述而不作見識

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