童子問 / 卷下
鏡之爲物。亦然。妍媸大小。應物無遺。可謂靈矣。雖能寫影。而不能照物。徒以其虛故。能受物影耳。不能如日月之放光。燈燭之遠照。其非生物故也。故舜之十二章。取日月曁火之象。而不取鏡者。亦豈非以其不分美惡。不辨好醜。物來則寫無所揀擇乎。佛老尙空虛。聖人尙實理。故佛老之書。以鏡爲譬。不可勝擧。而浩浩六籍語孟。一無及於鏡者。爲其有生死之差也。夫道也者。君臣父子夫婦昆弟朋友之交。而所以能維持此五者。亦在於恩義兩者。孟子曰。父子之間不責善。責善則離離則不祥莫大焉。孔子曰。兄弟怡怡。又曰。君子之事親孝。故忠可移於君。皆莫非所以養此心。而全恩義也。若佛老之敎。專以淸淨無欲爲務。修行既熟。功夫既成。則本心瑩然如明鏡之空。如止水之湛。一塵不染。一疵不存。可謂難矣。然恩義之心。斷喪斬絕。掃地而盡。捨父母。絕妻子。如綴旒。如土梗。恬然無所用其愛。況君臣乎。況兄弟乎。到此。則與聖人之道。實天淵矣。皆明鏡止水之說之所致也。其深惡之。不亦宜乎。
新字:鏡之為物。亦然。妍媸大小。応物無遺。可謂霊矣。雖能写影。而不能照物。徒以其虚故。能受物影耳。不能如日月之放光。灯燭之遠照。其非生物故也。故舜之十二章。取日月曁火之象。而不取鏡者。亦豈非以其不分美悪。不弁好醜。物来則写無所揀択乎。仏老尚空虚。聖人尚実理。故仏老之書。以鏡為譬。不可勝挙。而浩浩六籍語孟。一無及於鏡者。為其有生死之差也。夫道也者。君臣父子夫婦昆弟朋友之交。而所以能維持此五者。亦在於恩義両者。孟子曰。父子之間不責善。責善則離離則不祥莫大焉。孔子曰。兄弟怡怡。又曰。君子之事親孝。故忠可移於君。皆莫非所以養此心。而全恩義也。若仏老之教。専以清浄無欲為務。修行既熟。功夫既成。則本心瑩然如明鏡之空。如止水之湛。一塵不染。一疵不存。可謂難矣。然恩義之心。断喪斬絶。掃地而尽。捨父母。絶妻子。如綴旒。如土梗。恬然無所用其愛。況君臣乎。況兄弟乎。到此。則与聖人之道。実天淵矣。皆明鏡止水之説之所致也。其深悪之。不亦宜乎。
書き下し
鏡の物たるも、亦然り。妍媸大小、物に応じて遺す無く、霊なりと謂ふべし。能く影を写すと雖も、物を照らすこと能はず。徒に其の虚なるを以ての故に、能く物の影を受くるのみ。日月の光を放ち、灯燭の遠く照らすが如くなること能はず。其の生物に非ざるが故なり。故に舜の十二章、日月曁び火の象を取りて、鏡を取らざる者も、亦豈に其の美悪を分かたず、好醜を弁ぜず、物来れば則ち写して揀択する所無きを以てに非ずや。仏老は空虚を尚び、聖人は実理を尚ぶ。故に仏老の書、鏡を以て譬へと為すこと、勝げて挙ぐべからず。而るに浩浩たる六籍語孟、一として鏡に及ぶ者無し。其の生死の差有るが為なり。夫れ道なる者は、君臣・父子・夫婦・昆弟・朋友の交はりにして、此の五者を能く維持する所以の者も、亦恩義の両者に在り。孟子曰く、父子の間は善を責めず。善を責むれば則ち離る。離るれば則ち不祥焉より大なるは莫し、と。孔子曰く、兄弟は怡怡たり、と。又曰く、君子の親に事ふるは孝なり、故に忠君に移すべし、と。皆此の心を養ひて恩義を全くする所以に非ざるは莫し。仏老の教への若きは、専ら清浄無欲を以て務めと為し、修行既に熟し、功夫既に成れば、則ち本心瑩然として明鏡の空しきが如く、止水の湛へたるが如く、一塵も染まず、一疵も存せず。難しと謂ふべし。然れども恩義の心、断喪斬絶して、地を掃ひて尽く。父母を捨て、妻子を絶つこと、綴旒の如く、土梗の如く、恬然として其の愛を用ふる所無し。況んや君臣をや。況んや兄弟をや。此に到れば、則ち聖人の道と、実に天淵なり。皆明鏡止水の説の致す所なり。其の深く之を悪むこと、亦宜ならずや。
現代語訳
鏡というものもまた同じである。美しいものも醜いものも、大きいものも小さいものも、物に応じて写し漏らすことがなく、霊妙だと言ってよい。しかし影を写すことはできても、物を照らすことはできない。ただ中が空であるために、物の影を受けることができるだけである。太陽や月が光を放ち、灯火が遠くまで照らすようにはできない。それは生きた物ではないからである。だから舜の衣服の十二の文様が、日・月および火の形を取りながら、鏡を取らなかったのも、鏡が美と悪を分けず、好と醜を見分けず、物が来ればそのまま写して選ぶところがないからではなかろうか。仏老は空虚を尊び、聖人は実理を尊ぶ。だから仏老の書物で鏡をたとえにしたものは数えきれない。ところが広大な六経や論語・孟子には、一つとして鏡に言及したものがない。生と死の違いがあるからである。そもそも道とは、君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友の交わりであり、この五つをよく保っていく根本もまた、恩と義の二つにある。孟子は「父子の間では善を責めない。善を責めれば心が離れる。心が離れれば、これより大きな不幸はない」と言った。孔子は「兄弟は和やかに楽しむ」と言い、また「君子が親に仕えるのは孝であるから、その忠を君に移すことができる」と言った。みなこの心を養って恩義を全うするためのものでないものはない。仏老の教えのようなものは、もっぱら清浄無欲を務めとし、修行が熟し工夫が成就すると、本心は明らかに澄んで、明鏡が空であるように、止水が湛えられているように、一つの塵にも染まらず、一つの傷も残らない。難しいことだと言ってよい。しかし恩義の心は断ち切られ、地を掃いたように尽きてしまう。父母を捨て、妻子と縁を絶つことは、旗の飾り紐や土人形を捨てるようなもので、平然としてその愛を用いるところがない。まして君臣についてはなおさらであり、兄弟についてはなおさらである。ここに至れば、聖人の道とは実に天と淵ほどの隔たりである。みな明鏡止水の説がもたらしたものである。私がそれを深く嫌うのも、もっともではないか。
解説
この章句が説くこと
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