童子問 / 卷下
問。吾曹雅不多讀書。經解之中。雖多用禪莊之語。不能識別。願一一拈出以告之。曰。近思錄四書集註等用禪莊之語者。不暇悉擧。今摘出其尤者。而告之。曰靜。曰忌。曰公。曰無欲。曰無情。曰無極。曰無將迎。曰冲漠無朕。曰明鏡止水。曰廓然太公。曰尸居龍見。皆老莊書中之要語。曰喚醒。曰常惺惺法。曰虛靈不昧。曰體用一源。顯微無間。此等語皆出禪書。及靜坐功夫。調息箴。亦專用老佛之法。語孟二書。本無此語。亦無此理。聖人雖啽囈之中。自不作此等語。以其本異也。
新字:問。吾曹雅不多読書。経解之中。雖多用禅荘之語。不能識別。願一一拈出以告之。曰。近思録四書集註等用禅荘之語者。不暇悉挙。今摘出其尤者。而告之。曰静。曰忌。曰公。曰無欲。曰無情。曰無極。曰無将迎。曰沖漠無朕。曰明鏡止水。曰廓然太公。曰尸居竜見。皆老荘書中之要語。曰喚醒。曰常惺惺法。曰虚霊不昧。曰体用一源。顕微無間。此等語皆出禅書。及静坐功夫。調息箴。亦専用老仏之法。語孟二書。本無此語。亦無此理。聖人雖啽囈之中。自不作此等語。以其本異也。
書き下し
問ふ、吾曹雅より多く書を読まず。経解の中、多く禅荘の語を用ふと雖も、識別すること能はず。願はくは一一拈出して以て之を告げよ、と。曰く、近思録・四書集註等の禅荘の語を用ふる者、悉く挙ぐるに暇あらず。今其の尤なる者を摘出して之を告げん。曰く静、曰く忌、曰く公、曰く無欲、曰く無情、曰く無極、曰く無将迎、曰く冲漠無朕、曰く明鏡止水、曰く廓然太公、曰く尸居龍見、皆老荘の書中の要語なり。曰く喚醒、曰く常惺惺法、曰く虚霊不昧、曰く体用一源・顕微無間、此等の語は皆禅書に出づ。及び静坐の功夫、調息の箴も、亦専ら老仏の法を用ふ。語孟二書には、本此の語無く、亦此の理無し。聖人は啽囈の中と雖も、自ら此等の語を作さず。其の本異なるを以てなり。
現代語訳
問う。私たちはもともと多くの書物を読んでいない。経書の注釈の中には、禅や荘子の言葉が多く用いられているというが、見分けることができない。どうか一つ一つ取り出して教えてほしい。答える。『近思録』や『四書集註』などで禅や荘子の言葉を用いているものは、すべて挙げる暇がない。いま、そのとくにはなはだしいものを取り出して教えよう。「静」「忌」「公」「無欲」「無情」「無極」「無将迎」「冲漠無朕」「明鏡止水」「廓然太公」「尸居龍見」は、みな老荘の書物の中の要語である。「喚醒」「常惺惺法」「虚霊不昧」「体用一源・顕微無間」、これらの言葉はみな禅の書物から出ている。また静坐の工夫や調息の箴も、もっぱら老仏の方法を用いている。『論語』『孟子』の二書には、もともとこのような言葉はなく、このような理もない。聖人は寝言の中でさえ、おのずからこのような言葉は口にしない。もともと根本が異なるからである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『童子問』卷下問ふ、先儒多く仏老の語を用ひて、以て聖人の書を解す。或いは以て非と為し、或いは以て相妨げずと為し、或いは以て善く聖言の到らざる所を補ふと為す。紛紛として定まらず。孰れの説をか是と為すかを知らず、と。曰く、其の仏老の語を以て聖人の書を解するを善しとする者は、是れ其の学本禅荘の理より来たる。故に之を善しとす。相妨げずと謂ふ者は、是れ泛然として愛憎無き者の言にして、取るに足らざるなり。其の非と為す者は、似たり。然れども徒に禅荘の語を悪みて之を非とするのみ。吾恐らくは、真に仏老の吾が儒と、猶薫猶氷炭の相入れざるがごときを知りて、之を非とするに非ざらん。学脈自ら照応有り、言語自ら由来有り。彼を言へば、則ち此を言ふことを得ず。此を言へば、則ち彼を言ふことを得ず。富貴の人は猶自ら寒乞の語を作さず。矧んや邪正塗を殊にし、水火気を異にするをや。一毫も仮借することを得ず。其の之を非とする者も、亦真に知りて真に之を非とする者は、甚だ鮮し。大抵書を読む者は、本実見無し。是と謂ふも亦得、是ならずと謂ふも亦得。茫乎として定準無し。皆相妨げずと謂ふの類なり。諸を譬ふれば、人有り来たりて其の父を殴つ者あり、又一人有り来たりて旁らより之を拯ふ。之が子たる者は、其の父を拯ふ者に謝せんか、将た其の父を殴つ者に謝せんか。若し禅荘の理を以て孔孟の書を説く者は、是れ其の父を殴つ者なり。其の孔孟の旨に非ざるを弁ずる者は、是れ其の父を拯ふ者なり。今孔孟の旨に非ざるを弁ずる者を痛誚して、禅荘の理を用ふる者を回護するは、是れ其の父を拯ふ者に謝せずして、反つて其の父を殴つ者に党するなり。凡そ子たる者に在りては、則ち佗人の之を拯ふを待たず、当に自ら死力を出だして、其の父を殴つ者と相闘ひて可なるべし。豈に其の父を殴つ者に謝するを容れんや。斯れ之を是非を知らざるの類と謂ふ。思はざるの甚だしきなり。
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『童子問』卷上童子曰く、固より尊喩の如し。二書の若きは、則ち予平生熟読する所なり。集註・大全及び諸家の註解に於ても、亦た嘗て探討す。二書は固より日用の要典にして、至つて親切なり。然れども窃かに思ふ、此の外に別に簡径直截にして自ら至道に詣る者有るに非ずやと。曰く、非なり。学は其の正を欲し、功は其の熟を欲す。奇特を好むべからず、捷径を求むべからず。水到れば船浮び、華謝して子結ぶ。正路に遵ひて未だ到らざる者は有り。未だ邪蹊に由りて能く到る者は有らざるなり。苗よりして秀で、秀でて実る、自ら其の時有り。其の自ら悟るに任せて、我より悟りを求むること勿かれ。論孟を読む者、初学の若きは、固より註脚を去りて能く本文を暁ること能はず。苟も集註・章句既に通ずるの後は、悉く註脚を棄て去り、特だ正文に就きて、熟読詳味し、優游佩服せば、則ち其の孔孟の本旨に於ける、猶ほ大寐の頓に寤むるがごとく、自ら心目の間に瞭然たらん。今子の疑ひを致すを免れざる所以の者は、皆註脚の累はす所と為るのみ。天下の理は、語孟二書に到りて尽く。復た加ふべき無し。疑ふこと勿かれ。
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『童子問』卷上問ふ、吾宋明の諸儒及び禅荘の諸書に於て、議論高遠にして遽かに通じ難き者は、固より其の至言妙道為るかと疑ふ。論語の若きは、則ち甚だ平淡にして、殊に意味無きを覚ゆ。如何と。曰く、艱渋奇僻にして遽かに通じ難き者は、反つて通ずべし。惟だ論語は知るべからざるなり。至言は泛然たるが如く、邪説は人を動かし易し。泛然たるが若し、故に得て知るべからざるなり。人を動かし易し、故に覚えずして自ら其の窠臼に陥る。温厚和平・従容正大なる者に非ざれば、必ず論語の妙に通ずること能はず。気質偏勝・耽奇驚高なる者の得て知る所に非ざるなり。今子語孟を外にして、径ちに至道に詣らんと欲す。此れ乃ち邪僻に陥るの漸にして、其の後復た救ふべからず。慎んで近世学者の故轍を踏むこと勿かれ。昔漢五経博士を置きて、論語博士を置くことを知らず。宜なり、論語の若きは、其の語平淡にして、意味深長なり。故に漢人と雖も、亦た其の理到り道到り、広大周徧にして、六経の上に高出することを知らず。程子曰く、論語孟子既に治まれば、則ち六経は治めずして明らかなるべしと。此の論実に古今の名言なり。大抵詞直く理明らかにして、知り易く記し易き者は、必ず正理なり。詞艱く理遠くして、知り難く記し難き者は、必ず邪説なり。子此を以て之を天下の書に求めば、百に一を失はず。
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『童子問』卷中禅家に頓悟の説有り、儒者に一旦豁然の論有り。聖人の学に於て、亦之れ有りやと問ふ。曰く、之れ無し。聖人の学は、実語を以て実理を明らかにす。目観て耳聞き、心得て身有す。故に践履の言ふべき有りて、頓悟の期すべき無し。禅者は空言を以て空理を説く。耳聞く所無く、目観る所無し。故に悟を用ひざることを得ず。蓋し実徳有りて、而る後に実見有り。猶ほ白日に物を視るがごとし。歴歴分明にして、既に疑ふ所無く、亦迷ふ所無し。人心に根ざし、風俗に存し、天地を包括して余り無く、古今を周羅して遺す無し。仁者は仁に安んじ、智者は仁を利とす。任重くして道遠し、死して後已む。何ぞ頓悟の期すべき有らん。宋儒は無声無臭の妙を以て、無極の真と為し、本心の体と為して、格物致知して以て之を領会せんことを要す。所以に亦一旦豁然の説有るなり。猶ほ無物の地に於て物を求むるがごとし。眼中見る所有るが如しと雖も、実は物無し。空見に非ずして何ぞ。水は吾其の淡きを知り、塩は吾其の鹹きを知る。然れども塩と水とを服せずして、其の鹹淡を知らんと欲するは、既に得べからず。況んや鹹淡を塩と水との外に求めんと欲するをや。吾其の以て鹹しと為し淡しと為す者は、乃ち其の虚見にして、真の鹹淡に非ざることを知るなり。夫れ道は仁義礼智に至りて極まり、教へは孝弟忠信に至りて尽く。而るに其の上面に於て、更に悟道を求むるは、奚ぞ鹹淡を塩と水との外に求むるに異ならんや。宜なるかな、其の頓悟豁然の説有るや。
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『童子問』卷上一童行有り。問うて曰く、伏して聞く、先生孔孟の正指を闡明して、以て学者を教導すと。然れども門に入ること日浅く、賦性も亦た魯なり。之に加ふるに先入の言主と為りて、孔孟の直指に免れず、反つて驚き且つ怪しむ。冀はくは開示を賜へと。予之に応へて曰く、孔孟の直指は、論孟二書に見ゆる者、炳として丹青の如し。天下の理を包含して欠くること無く、百家の典を会萃して遺さず。此を出づれば、則ち旁径なり、他岐なり。子予が意を識らんと欲せば、則ち語孟二書を観て足れり。今子の為に困を傾け廩を倒して、以て尽く之を告ぐと雖も、亦た能く二書の外に出づる者莫し。子能く熟読翫味して得ること有らば、則ち予と生相睽違し、地を阻て世を隔つと雖も、猶ほ一堂に相聚まり、終日論議して、心心相照らし、符節を合はするが若く、自ら相違ふこと莫からん。勉めよや、怠ること勿かれ。惟だ恐る、子徒らに以て聖門平正親切の書と為して、深意の在る所を知らざらんことを。
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『童子問』卷下問ふ、宋明の諸儒、一家各一家の宗旨有りて人を指導す。孰か是、孰か非なる。願はくは其の詳を聞かん。曰く、吾に読書の一法有り。今子が為に之を発せん。天下に全く是なるの書無く、又全く非なるの書無し。蓋し聖人に降ること一等なれば、必ず一短一長無きこと能はず。大儒先生と雖も、必ず小疵有り。稗官小説と雖も、亦或は至言有りて、取らざるべからず。然れども其の長処は、必ず淡然として味無く、跡の尋ぬべき無し。而して其の悦ぶべく好むべき者は、必ず其の短処なり。故に短処は得易くして、長処は得難し。若し専ら一家の学を主とせば、則ち必ず先づ其の短処を得て、日に染み月に漬して、卒に終身の深害と為り、永く除くべからず。宜しく砂を披いて金を簡び、左に沙ひ右に汰ひて、悉く塵沙を棄て去りて、斯に真金を得るがごとくすべし。苟も兼ね取り周く捜し広く求めて、竝びに諸家の書を蓄へ、其の短を捨てて其の長を取らば、則ち是非相形はれ、彼此相済して、翫索既に久しくして、而る後に一の至正至当の理有りて、自ら其の中に在らん。徒に終身の害を免るべきのみに非ず、而して天下の書、皆吾が師に非ざる靡し。孔門の博学を貴ぶ者は、蓋し此れが為なり。今朱・王氏の学を講ずる者のごとき、其の朱学を宗とする者は、専ら晦翁の書を読みて、象山・陽明の書に至つては、一も目を過ごさず。王学を講ずる者も亦然り。殊に知らず、朱氏には朱子の短長有り、王氏には王氏の短長有ることを。其の長を知り、又其の短を知る、是れを能く其の人を知ると為すなり。苟も語孟二書を熟読翫味し、此れを以て規矩縄墨と為して、其の是非を校し、其の得失を覈せば、則ち真是真非、斤両適均しくして、毫も差爽無からん。今一一枚挙するに暇あらず。
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