導師導古典を学びたいすべての人に

童子問 / 卷下

問。先儒多用佛老之語。以解聖人之書。或以爲非。或以爲不相妨。或以爲善補聖言之所不到。紛紛不定。不知孰說爲是。曰。其善以佛老之語解聖人之書者。是其學本自禪莊之理來。故善之。謂不相妨者。是泛然無愛憎者之言。不足取也。其爲非者。似矣。然徒惡禪莊之語。而非之耳。吾恐非眞知佛老之與吾儒。猶薰猶氷炭之不相入。而非之也。學脈自有照應。言語自有由來。言彼。則不得言此。言此。則不得言彼。富貴人猶自不作寒乞語。矧邪正殊塗。水火異氣。一毫不得假借。其非之者。亦眞知而眞非之者。甚鮮矣。大抵讀書者。本無實見。謂是亦得。謂不是亦得。茫乎無定準。皆謂不相妨之類也。譬諸。有人來毆其父者。又有一人來從旁拯之。爲之子者。謝拯其父者耶。將謝毆其父者耶。若以禪莊之理說孔孟之書者。是毆其父者也。辯其非孔孟之旨者。是拯其父者也。今痛誚辯非孔孟之旨者。而回護用禪莊之理者。是不謝拯其父者。而反黨毆其父者也。凡在爲子者。則不待佗人拯之。當自出死力。與毆其父者相鬭。而可矣。豈容謝毆其父者乎。斯之謂不知是非之類。弗思甚也。

新字:問。先儒多用仏老之語。以解聖人之書。或以為非。或以為不相妨。或以為善補聖言之所不到。紛紛不定。不知孰説為是。曰。其善以仏老之語解聖人之書者。是其学本自禅荘之理来。故善之。謂不相妨者。是泛然無愛憎者之言。不足取也。其為非者。似矣。然徒悪禅荘之語。而非之耳。吾恐非真知仏老之与吾儒。猶薫猶氷炭之不相入。而非之也。学脈自有照応。言語自有由来。言彼。則不得言此。言此。則不得言彼。富貴人猶自不作寒乞語。矧邪正殊塗。水火異気。一毫不得仮借。其非之者。亦真知而真非之者。甚鮮矣。大抵読書者。本無実見。謂是亦得。謂不是亦得。茫乎無定準。皆謂不相妨之類也。譬諸。有人来殴其父者。又有一人来従旁拯之。為之子者。謝拯其父者耶。将謝殴其父者耶。若以禅荘之理説孔孟之書者。是殴其父者也。弁其非孔孟之旨者。是拯其父者也。今痛誚弁非孔孟之旨者。而回護用禅荘之理者。是不謝拯其父者。而反党殴其父者也。凡在為子者。則不待佗人拯之。当自出死力。与殴其父者相闘。而可矣。豈容謝殴其父者乎。斯之謂不知是非之類。弗思甚也。

書き下し

問ふ、先儒多く仏老の語を用ひて、以て聖人の書を解す。或いは以て非と為し、或いは以て相妨げずと為し、或いは以て善く聖言の到らざる所を補ふと為す。紛紛として定まらず。孰れの説をか是と為すかを知らず、と。曰く、其の仏老の語を以て聖人の書を解するを善しとする者は、是れ其の学本禅荘の理より来たる。故に之を善しとす。相妨げずと謂ふ者は、是れ泛然として愛憎無き者の言にして、取るに足らざるなり。其の非と為す者は、似たり。然れども徒に禅荘の語を悪みて之を非とするのみ。吾恐らくは、真に仏老の吾が儒と、猶薫猶氷炭の相入れざるがごときを知りて、之を非とするに非ざらん。学脈自ら照応有り、言語自ら由来有り。彼を言へば、則ち此を言ふことを得ず。此を言へば、則ち彼を言ふことを得ず。富貴の人は猶自ら寒乞の語を作さず。矧んや邪正塗を殊にし、水火気を異にするをや。一毫も仮借することを得ず。其の之を非とする者も、亦真に知りて真に之を非とする者は、甚だ鮮し。大抵書を読む者は、本実見無し。是と謂ふも亦得、是ならずと謂ふも亦得。茫乎として定準無し。皆相妨げずと謂ふの類なり。諸を譬ふれば、人有り来たりて其の父を殴つ者あり、又一人有り来たりて旁らより之を拯ふ。之が子たる者は、其の父を拯ふ者に謝せんか、将た其の父を殴つ者に謝せんか。若し禅荘の理を以て孔孟の書を説く者は、是れ其の父を殴つ者なり。其の孔孟の旨に非ざるを弁ずる者は、是れ其の父を拯ふ者なり。今孔孟の旨に非ざるを弁ずる者を痛誚して、禅荘の理を用ふる者を回護するは、是れ其の父を拯ふ者に謝せずして、反つて其の父を殴つ者に党するなり。凡そ子たる者に在りては、則ち佗人の之を拯ふを待たず、当に自ら死力を出だして、其の父を殴つ者と相闘ひて可なるべし。豈に其の父を殴つ者に謝するを容れんや。斯れ之を是非を知らざるの類と謂ふ。思はざるの甚だしきなり。

現代語訳

問う。先儒の多くは仏教や老荘の言葉を用いて聖人の書を解釈している。それを誤りとする者もあり、差し支えないとする者もあり、聖人の言葉の行き届かないところをうまく補うとする者もある。議論が入り乱れて定まらない。どの説が正しいのかわからない。答える。仏老の言葉で聖人の書を解釈するのをよしとする者は、その学問がもともと禅や荘子の理から来ている。だからそれをよしとするのである。差し支えないと言う者は、漠然として好悪の判断のない者の言葉であって、取るに足りない。誤りとする者は、正しいように見える。しかしただ禅や荘子の言葉を嫌って非としているだけである。私が思うに、仏老とわが儒とが、香草と臭草、氷と炭火のように相容れないことを本当に知って非としているのではあるまい。学問の筋道にはおのずから照応があり、言葉にはおのずから由来がある。あちらを言えばこちらを言うことはできず、こちらを言えばあちらを言うことはできない。富貴な人でさえ、自分から貧乏人の物乞いの言葉を口にはしない。まして邪と正とでは行く道が異なり、水と火とでは気が異なる。わずかも借り物にすることはできない。それを非とする者でも、本当に知って本当に非としている者はごく少ない。たいてい読書する者には、もともと確かな見識がない。正しいと言ってもよく、正しくないと言ってもよく、ぼんやりとして定まった基準がない。みな「差し支えない」と言う類である。たとえてみよう。ある人がやって来てその父を殴り、また別の一人がやって来てそばから父を救ったとする。その子たる者は、父を救った者に礼を言うだろうか、それとも父を殴った者に礼を言うだろうか。禅や荘子の理で孔孟の書を説く者は、父を殴る者である。それが孔孟の趣旨でないことを明らかにする者は、父を救う者である。いま、孔孟の趣旨でないことを明らかにする者をひどくそしり、禅荘の理を用いる者をかばうのは、父を救った者に礼を言わず、かえって父を殴った者の味方をすることである。およそ子たる者は、他人が救ってくれるのを待たず、自ら死力を尽くして父を殴る者と闘ってこそよいのである。どうして父を殴った者に礼を言うことなどできようか。これを是非を知らない類と言う。思慮のなさのはなはだしいものである。

解説

先儒が仏老の語で聖人の書を解することについて、仁斎は三つの立場をいずれも退ける。これを善しとする者は学問の根が禅荘にあり、差し支えないとする者は好悪の判断を欠き、非とする者も本当に違いを知ってのことではないという。学問には筋道があり言葉には由来があるので、邪と正、水と火のように混ぜることはできない。父を殴る者と救う者のたとえは激しいが、孔孟の本旨を守ろうとする仁斎の切迫感がよく伝わる。どちらでもよいという曖昧な態度は、結局誤りに加担することになる。大切な原則が損なわれるとき、はっきり是非を言う勇気を持てているかを問う章である。

この章句が説くこと

異端是非禅荘孔孟学脈実見

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る