童子問 / 卷下
問。佛法甚熾。而孔子之敎寥寥者。何哉。曰。厭常而喜新。嫉正而好奇。古今之通病也。孔子曰。邦有道。貧且賤焉恥也。邦無道。富且貴焉恥也。儻使儒敎若今之佛敎之熾焉。則卽是唐虞三代之盛耳。雖以後漢明帝唐太宗之崇文敎。奚敢足比其萬一。然而佛之敎有所至。有所不至。用之則存。舍之則息。不如聖人之道無處不在。無時不然。非本然之道故也。今不能使度天下之人悉爲僧尼。毀天下之屋宅皆為蘭若。則是其道有所至。有所不至也。且唐虞三代之盛時。不聞有老莊之學。後漢明帝以前。又未有佛法焉。則不可謂之不可須臾離之道。若聖人之敎不然。雖東夷西戎南蠻北狄。聲敎之所不曁。言語之所不通。必當有君臣父子夫婦朋友昆弟之倫。又當以孝悌忠信爲善。大凡天下之不出家緇衣。在於君臣父子夫婦昆弟朋友之間者。擧皆儒人也。執四民之業。而不至不孝不弟不忠不信者。亦皆儒人也。不繫學與不學也。故子夏曰。雖曰未學。吾必謂之學矣。可見堯舜孔子之道。與日月同照。極天罔墜猗嗟盛乎。故佛法如盛。而實微。孔子之道如微。而實盛。不可與爲比擬也。
新字:問。仏法甚熾。而孔子之教寥寥者。何哉。曰。厭常而喜新。嫉正而好奇。古今之通病也。孔子曰。邦有道。貧且賤焉恥也。邦無道。富且貴焉恥也。儻使儒教若今之仏教之熾焉。則即是唐虞三代之盛耳。雖以後漢明帝唐太宗之崇文教。奚敢足比其万一。然而仏之教有所至。有所不至。用之則存。舎之則息。不如聖人之道無処不在。無時不然。非本然之道故也。今不能使度天下之人悉為僧尼。毀天下之屋宅皆為蘭若。則是其道有所至。有所不至也。且唐虞三代之盛時。不聞有老荘之学。後漢明帝以前。又未有仏法焉。則不可謂之不可須臾離之道。若聖人之教不然。雖東夷西戎南蠻北狄。声教之所不曁。言語之所不通。必当有君臣父子夫婦朋友昆弟之倫。又当以孝悌忠信為善。大凡天下之不出家緇衣。在於君臣父子夫婦昆弟朋友之間者。挙皆儒人也。執四民之業。而不至不孝不弟不忠不信者。亦皆儒人也。不繋学与不学也。故子夏曰。雖曰未学。吾必謂之学矣。可見堯舜孔子之道。与日月同照。極天罔墜猗嗟盛乎。故仏法如盛。而実微。孔子之道如微。而実盛。不可与為比擬也。
書き下し
問ふ、仏法甚だ熾んにして、孔子の教寥寥たる者は、何ぞや。曰く、常を厭うて新を喜び、正を嫉んで奇を好むは、古今の通病なり。孔子曰く、邦道有るに、貧しく且つ賤しきは恥なり。邦道無きに、富み且つ貴きは恥なりと。儻し儒教をして今の仏教の熾んなるがごとくならしめば、則ち即ち是れ唐虞三代の盛んなるのみ。後漢の明帝・唐の太宗の文教を崇ぶを以てすと雖も、奚ぞ敢へて其の万一に比するに足らん。然り而して仏の教は至る所有り、至らざる所有り。之を用ふれば則ち存し、之を舍つれば則ち息む。聖人の道の処として在らざる無く、時として然らざる無きに如かず。本然の道に非ざるが故なり。今天下の人をして悉く度して僧尼と為し、天下の屋宅を毀ちて皆蘭若と為さしむること能はず。則ち是れ其の道至る所有り、至らざる所有るなり。且つ唐虞三代の盛時、老荘の学有るを聞かず。後漢の明帝以前、又未だ仏法有らず。則ち之を須臾も離るべからざるの道と謂ふべからず。聖人の教のごときは然らず。東夷・西戎・南蛮・北狄、声教の曁ばざる所、言語の通ぜざる所と雖も、必ず当に君臣・父子・夫婦・朋友・昆弟の倫有るべく、又当に孝悌忠信を以て善と為すべし。大凡天下の出家緇衣せずして、君臣・父子・夫婦・昆弟・朋友の間に在る者は、挙げて皆儒人なり。四民の業を執りて、不孝・不弟・不忠・不信に至らざる者も、亦皆儒人なり。学ぶと学ばざるとに繋らざるなり。故に子夏曰く、未だ学ばずと曰ふと雖も、吾は必ず之を学びたりと謂はんと。見るべし、堯舜孔子の道は、日月と照を同じくし、極天墜つること罔し。猗嗟盛んなるかな。故に仏法は盛んなるがごとくにして実は微なり。孔子の道は微なるがごとくにして実は盛んなり。与に比擬を為すべからざるなり。
現代語訳
問う。仏法はたいへん盛んであるのに、孔子の教えはひっそりとしているのは、なぜか。答える。平常を嫌って新しさを喜び、正しさを妬んで奇抜さを好むのは、古今に共通する病である。孔子は「国に道があるのに貧しく卑しいのは恥であり、国に道がないのに富み貴いのは恥である」と言った。もし儒教を今の仏教のように盛んにさせることができたなら、それはそのまま唐虞三代の盛世である。後漢の明帝や唐の太宗が文教を尊んだことでさえ、その万分の一にも比べられようか。しかしながら仏の教えには行き届くところと行き届かないところがある。用いれば存続し、捨てれば止んでしまう。聖人の道がどこにでもあり、いつでもそうであるのには及ばない。本来そうあるべき道ではないからである。今、天下の人をことごとく出家させて僧尼とし、天下の家屋を壊してすべて寺院にすることはできない。つまりその道には行き届くところと行き届かないところがあるのだ。しかも唐虞三代の盛世には老荘の学があったとは聞かず、後漢の明帝以前にはまだ仏法がなかった。それなら仏法を、わずかの間も離れることのできない道とは言えない。聖人の教えはそうではない。東夷・西戎・南蛮・北狄のように、教化が及ばず言葉も通じないところであっても、必ず君臣・父子・夫婦・朋友・兄弟の人倫があり、また孝悌忠信を善とするはずである。およそ天下で出家して墨染めの衣を着ることなく、君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友の間に生きている者は、すべて儒者である。士農工商の仕事に就いて、不孝・不悌・不忠・不信に至らない者もまた、みな儒者である。学問をしたかどうかには関わらない。だから子夏は「まだ学んでいないと言っても、私は必ず学んだ人だと言おう」と言った。ここから、堯舜孔子の道は日月と同じく照らし、天の果てまで墜ちることがないとわかる。ああ、なんと盛んなことか。だから仏法は盛んに見えて実は微かであり、孔子の道は微かに見えて実は盛んである。比べものにならないのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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論語・学而篇有子曰く、「其の人と為りや、孝弟にして上を犯すことを好む者は鮮なし。上を犯すことを好まずして乱を作すことを好む者は、未だ之有らざるなり。君子は本を務む。本立ちて道生ず。孝弟や者は、其れ仁の本為るか。」
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『童子問』卷上問ふ、禅荘・宋儒の道を談ずる、遠き者・大なる者を以て極と為す。今、道は近きに在りて遠きに在らずと説く。願はくは其の是非の然る所以を明らかにせよ。曰く、人に語りて知り難き者は、善き教へに非ず。人を導きて従ひ難き者は、善き道に非ず。聖人の道は、君臣・父子・夫婦・昆弟・朋友の間に在りて、徳は仁義忠信の外に出でず。古今に通じて変ずる所無く、四海に準じて違ふ所無し。人心に根ざし、風俗に徹す。天子も廃すること能はず、聖人も改むること能はず。夫婦の愚不肖も、皆能く知るべく、皆能く行ふべし。故に之を天下の達道徳と謂ふ。禅荘の理、宋儒理性の学の若きは、其の理隠微にして知り難く、其の道高妙にして行ひ難し。人事に遠く、風俗に戻る。之を人倫日用に推すに、皆用ふる所無し。豈に之を天下の達道徳と謂ふことを得んや。大抵高遠に鶩せて、人倫に益無く、日用に資する無く、天下国家の治に補ひ無き者は、便ち孟子の所謂邪説暴行、是れのみ。其の是非は従りて知るべし。
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『童子問』卷上問ふ、性・道・教の分に於て、既に其の詳を聞くことを得たり。願はくは詳らかに教の条目を諭されんと。曰く、子四を以て教ふ、文・行・忠・信と。此れ孔門学問の定法にして、初学入道の規矩なり。万世の学者違ふことを得ず。文とは、詩書六芸是れのみ。行とは、孝悌礼譲是れのみ。己を尽くす之を忠と謂ひ、人に与ふるに実有る之を信と謂ふ。文を学べば則ち其の智偏らず、行に力むれば則ち其の学虚ならず。忠なれば則ち道以て行ふに足り、信なれば則ち徳以て立つ有り。文を学ばざれば則ち其の智必ず偏る。仏老の学是れなり。行に力めざれば則ち其の学自ら虚なり。俗儒の学是れなり。忠信ならざれば則ち人道立たず。市井の小人是れなり。此の四者は次序有りと雖も、而も階級有るに非ず。蓋し学者終身の業なり。苟も此を以て法と為さば、則ち安宅居るべく、大路由るべくして、学を為すの道備はる。
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『童子問』卷下大学に曰く、先後する所を知れば、則ち道に近しと。論語に曰く、信義に近ければ、言復むべし。恭礼に近ければ、恥辱に遠ざかると。若し後儒をして之を言はしめば、必ず曰はん、先後する所を知れば、則ち道に合ふと。必ず曰はん、信義に合ひ、恭礼に合ふと。而して近の字を用ふべからず。然るに聖賢皆近と言ふ者は、何ぞや。中庸に云ふ、忠恕は道を違ること遠からずと。亦近きを言ふなり。蓋し道の広大なる、何の執守する所ぞ。故に唯忠信を主とすることを要して、強ひて為すことを要せず。忠信を主とすれば、則ち中らずと雖も遠からず。強ひて為せば、則ち外は似て内は実に非なり。聖人の道は、優優洋洋として、促迫することを得ず、牽強することを得ず。顔子の亜聖も、猶曰く、三月仁に違はずと。曾子の篤行も、亦疾革まるに至つて、初めて簀を易ふ。天地の化も亦然り。二十四節、七十二候、或は進み或は退き、寒熱温涼、截然として悉く其の数のごとくなること能はず。亦活物なるが故なり。語に曰く、礼は其の奢らんよりは寧ろ倹せよと。又曰く、奢れば則ち不遜、倹なれば則ち固なり。其の不遜ならんよりは寧ろ固なれと。寧とは庶幾の辞にして、亦近きの謂なり。聖人豈に其の一一中を得んことを欲せざらんや。而れども必ずしも得べからず。故に之を寧と謂ふ。蓋し人に教ふるに一歩を退きて質実に就くを以てするなり。註家は聖人の微意の在る所を知らず、乃ち前章に於て之を解して曰く、礼は中を得るを貴ぶ。奢れば則ち過ぎ、倹なれば則ち及ばず。二者皆礼に合はずと。又後章を解して曰く、奢倹倶に中を失ふ。已むことを得ずして時の弊を救ふなりと。果して其の説のごとくならば、則ち是れ聖人の言、皆半上落下にして、教と為すに足らざるなり。明道先生曰く、道の浩浩たる、何れの処にか手を下さん。惟誠を立てて、纔かに居るべきの処有りと。又曰く、惟誠心を進むれば、其の文章中らずと雖も遠からずと。伊川先生曰く、人の道は唯忠信に在りと。皆確言なり。人其の意味の深長なることを知らず。
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『童子問』卷上故に孔子曰く、中庸の徳為るや、其れ至れるかな、民鮮きこと久しと。至れりとは、子必ず想ふ、耳目の見聞する所を外にして、更に至貴至高・光明閃爍・驚くべく楽しむべきの理有らんと。非なり。天地の間は、唯だ一つの実理のみ。更に奇特無し。生民有りてより以来、君臣有り、父子有り、夫婦有り、昆弟有り、朋友有り。相親しみ相愛し、相従ひ相聚まる。善なる者は以て善と為し、悪なる者は以て悪と為し、是なる者は以て是と為し、非なる者は以て非と為す。万古の前も此の如く、万古の後も亦た此の如し。子能く孝弟忠信にして、身を修め業を勤め、夙夜懈らざれば、則ち自ら天道に合し、人倫に宜しくして、人為る所以を失ふに至らず。詩に曰く、永く言に命に配し、自ら多福を求むと。或いは人至貴至高・光明閃爍・驚くべく楽しむべきの理を以て、汝に説き与ふる者有らば、野狐山鬼の汝を魅するに非ずんば、必ず是れ邪説の魁なり。謹んで聴くこと勿かれ。
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『十善法語』巻第一・不殺生戒諸ノ国土ニ父母ナキ子ナク。親族ノ撫育ニ由スシテ長セル人ナケレハ。自暴自棄セ子ハ。自ラ父母親族ニ尊重ノ心カ生スル。親族ノ中ニ尊重ノ心アレハ孝悌ノ道カ立ス。孝悌ノ道立スレハ。忠義モ仁慈モ立スルシヤ。此仁慈ノ心ヲ擴メ充テ。禽獣諸虫ニ至マテ。母子ノ愛アルヲ見ル。雌雄ノ親アルヲ見ル。生ヲ楽ミ死ヲ怖ルルヲ見ル。此人情ヲ以テ彼カ情欲ヲ察スル。此中不殺生戒カ自ラ顕ルルシヤ。宿福深厚ノ者ハ此中ニ因果ヲ信シ。縁起ノ趣ニ達スル。流転生死ノ中。昇沈ノ窮リナキコトヲ知ル。此微細ノ虫蟻ニ至マテ。本性ノ平等ナルニ達ス。是ヲ不殺生戒全キト名ツクルシヤ。
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