童子問 / 卷下
問。作文如何。曰。詩起於三百篇。文本於尙書。詩以言志。文以明道。其用不同。詩作之。固不作亦無害。若文。必不可不作。非言。無以述志。非文。無以傳道。學而無文。猶有口而不能言。然文之入律。亦難。以司馬遷董仲舒劉向班固爲正。韓柳歐曾二蘇之文。皆法之所在。不可不熟讀。方正學王遵巖歸震川等。皆近世大家。正而有法。必可讀之。文以詔奏論說爲要。記序志傳次之。尺牘之類。不足爲文。賦騒及一切間戯無益文字。皆不可作。甚害於道。葉水心曰。作文不關世敎。雖工無益。此作文之律。亦看文之繩尺也。
新字:問。作文如何。曰。詩起於三百篇。文本於尚書。詩以言志。文以明道。其用不同。詩作之。固不作亦無害。若文。必不可不作。非言。無以述志。非文。無以伝道。学而無文。猶有口而不能言。然文之入律。亦難。以司馬遷董仲舒劉向班固為正。韓柳欧曽二蘇之文。皆法之所在。不可不熟読。方正学王遵巖帰震川等。皆近世大家。正而有法。必可読之。文以詔奏論説為要。記序志伝次之。尺牘之類。不足為文。賦騒及一切間戯無益文字。皆不可作。甚害於道。葉水心曰。作文不関世教。雖工無益。此作文之律。亦看文之縄尺也。
書き下し
問ふ、文を作るは如何、と。曰く、詩は三百篇に起こり、文は尚書に本づく。詩は以て志を言ひ、文は以て道を明らかにす。其の用同じからず。詩は之を作るも、固より作らざるも亦害無し。文の若きは、必ず作らざるべからず。言に非ざれば、以て志を述ぶること無く、文に非ざれば、以て道を伝ふること無し。学びて文無きは、猶口有りて言ふこと能はざるがごとし。然れども文の律に入ること、亦難し。司馬遷・董仲舒・劉向・班固を以て正と為す。韓・柳・欧・曾・二蘇の文は、皆法の在る所、熟読せざるべからず。方正学・王遵巌・帰震川等は、皆近世の大家にして、正しくして法有り。必ず之を読むべし。文は詔奏論説を以て要と為し、記序志伝之に次ぐ。尺牘の類は、文と為すに足らず。賦騒及び一切の間戯無益の文字は、皆作るべからず。甚だ道を害す。葉水心曰く、文を作りて世教に関はらざれば、工なりと雖も益無し、と。此れ文を作るの律にして、亦文を看るの縄尺なり。
現代語訳
問う。文章を作ることはどうか。答える。詩は『詩経』三百篇に始まり、文は『書経』にもとづく。詩は志を述べるものであり、文は道を明らかにするものである。その用途は同じではない。詩は作るのももちろんよいし、作らなくても害はない。文となると、必ず作らなければならない。言葉がなければ志を述べることができず、文章がなければ道を伝えることができない。学問をして文章が書けないのは、口があるのにものが言えないようなものである。しかし文章が法則にかなうのは難しい。司馬遷・董仲舒・劉向・班固を正しい手本とする。韓愈・柳宗元・欧陽脩・曾鞏・蘇軾と蘇轍の文章は、みな法則のあるところであるから、熟読しなければならない。方孝孺(正学)・王慎中(遵巌)・帰有光(震川)らは、みな近世の大家であり、正しくて法則がある。必ず読むべきである。文章は詔・奏・論・説を要とし、記・序・志・伝がこれに次ぐ。手紙の類は文章とするには足りない。賦や騒、およびあらゆる遊び半分で無益な文字は、どれも作ってはならない。道をひどく害するからである。葉適(水心)は「文章を作っても世の教化にかかわらなければ、巧みであっても益はない」と言った。これが文章を作る法則であり、また文章を読む物差しでもある。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『慎思録』巻之四善く学ぶ者は、志倦まず、心盈たず。一善の聞かず、一理の知らざること、歉然として飲食の飽かざるが如し。此れ何に繇りて然るや。誠に道は限り無くして、事は尽くること無きを以てなり。君子の平居無事の時に当たりては、大率衆人と異なること無し。艱難多事に遇ひて、而る後に其の才器の蘊蓄する所、優れて且つ長ずることを見る。所謂盤根錯節に遇はざれば、以て利器を別つに足ること無きなり。
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うひ山ぶみ・注[ロ]かのしなじなある学びのすぢすぢ外の国の事に用ひんよりは、わがみづからの国の事に用ひまほしく思ふ也、その勝劣のさだなどは、姑くさしおきて、まづよその事にのみかゝづらひて、わが内の国の事をしらざらんは、くちをしきわざならざらんや、志を高く大きにたてて云々、すべて学問は、はじめよりその心ざしを、高く大きに立テて、その奥を究めつくさずはやまじと、かたく思ひまうくべし、此志よわくては、学問すゝみがたく、倦怠るもの也、主としてよるべきすぢは云々、道を学ぶを主とすべき子細は、今さらいふにも及ばぬことなれども、いさゝかいはば、まづ人として、人の道はいかなるものぞといふことを、しらで有べきにあらず、学問の志なきものは、論のかぎりにはあらず、かりそめにもその心ざしあらむ者は、同じくは道のために、力を用ふべきこと也、然るに道の事をば、なほざりにさしおきて、たゞ末の事にのみ、かゝづらひをらむは、学問の本意にあらず、さて道を学ぶにつきては、天地の間にわたりて、殊にすぐれたる、まことの道の伝はれる、御国に生れ来つるは、
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『文武訓』文訓下一文学ひろく、聖賢の書をあまねく読んでも、道を知らざる人古今多し。斯くひろく聖賢の書を読んでは、道を知るべくして知らざるは、志なく聰明なきゆゑなり。文学に通ぜず、聖賢の書を多く読まずして、道を知れらん人は古今これなし。是道理のなき所なり。舟橋なくして海河をわたり、梯なくして高きに登らんとするが如し。近世、種の学問文学をせずして、聖学をせんとするも、文学して義理を知らざるも同じ。たとへば歌学をせずして、和歌のあしき人はあり。歌学なくしてうたよく詠む人はなきが如し。但学問なく、すこし師の口伝をききて、頗心ををさめんとする人あり。是亦聴かざるに遥にまされり。稊稗の熟するは、五穀の熟せざるにまされるが如し。
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『慎思録』巻之六古来本邦の文学の士、往往詩文を作為することを喜ぶ。其の工夫甚だ苦し。然れども其の文字多しと雖も、中華の作に似ず、作文の法度無き者多し。惜しむべし、箇の無益の閑労擾を做し、枉げて心力を費やすことを。若し果たして道を求むるの志有らば、断じて此に到らじ。
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『慎思録』巻之五凡そ事は必ず咨訪して後に明らかなり。故に曰く、問ふことを好めば則ち裕かなり、と。必ず経歴して後に熟す。故に曰く、一事に躓く者は一智を長ず、と。苟も咨訪せずして自ら用ひ、経歴せずして妄りに行へば、亦殆ふいかなと曰ふ。朱子曰く、学は道を知るを以て本と為す。道を知れば則ち学純にして心正し、と。愚謂ふ、是れ学を為すの本旨なり。学者の志を立つる、宜しく此くの如くなるべし。蓋し学は将に以て道を知らんとす。苟も学を為して、道を知るを以て本と為さずんば、博学広聞すと雖も益無く、徒に心思を労するのみ。所謂多しと雖も亦奚を以て為さんといふものなり。夫れ道を知るは固より極めて難し。然れども道を知るを以て志と為さざれば、則ち学を為すこと駁雑にして純一ならず、心を立つること邪僻にして平正ならず。其の本を失ふに因るなり。然らば則ち宏才博聞の人に逾ゆる有りと雖も、儒者の学と為すべからず。百家衆技の流と相同じきを免れず。此れ即ち俗学の習ひにして、亦貴しと為すに足らず。若し乃ち朱子の言を以て之を反覆して言はば、道を知らんと欲すれば、則ち先づ須らく学純にして心正しきを要すべし。苟も学雑にして純一ならず、心正しからずして邪僻なれば、則ち道と相乖戻す。何を以てか道を知るを得んや。
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『五常訓』巻之五・信一道を信ずる志は、専一にして厚かるべし。厚からざれば、彼方此方に志うつりて、道を守ること堅固ならず。得る事あれども、必失ふ。然れば、信なければ、初道を好むといへども、終をたもちがたく、巧言にまよひて、邪道におち入りやすし。之を誠にする者は、人の道なり。之を誠にするの道は、道を信ずること篤きにあり。道を信ずること篤ければ、行之果す。果すとは行ひとぐるなり。行之果せば、守之固しとは、道を守ること堅固にして、失はざるなり。道を信ずること篤からざれは、道行はれず。利欲にひかれ、外物にうつりて、道を守ること堅固ならず。道を信ぜずして、守ること堅固ならずば、万の才能ありとも、見るに足らず。是学者の、重んずべき所なり。
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