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童子問 / 卷下

問。詩文編集甚多。孰爲得正。曰。三百篇之後。唯漢魏之際。遺響尙存。厥後唯杜少陵氏之作。爲庶幾矣。葢古人之詩。皆發於咨嗟詠歎之餘。而一無非事實者。所謂本於性情。是已。非若後人之無事而强作也。其無所感托。徒流連光景。模寫物象者。雖寫難狀之景。如在目前。畢竟徒作耳。風雲月露。山川草木。本天地自有之物。不須詩人模寫之也。唯杜甫平生憂國愛民。忠憤感激。一皆寓之於詩。世稱詩史。故杜詩之妙。不在於巧拙之間。而在於眞情盈溢。不可歇止。無意托物比興。而托物比興無所不在。後世或譏其近質野。或誚其間有村陋句。至於明鄭善夫。亦褒貶是非。不少假借。後世徒知以詩家蠅墨糾之。而不知此反是其妙處也。李白雖神於詩。其意易識。至杜詩。註者亡慮數十家。是李之所不及。以人之所感自異也。至於文。則蕭統文選爲本。然識見不正。銓擇不精。多載淫麗蕪蔓。無益于實用者。甚害於學者也。特東萊文鑒。西山正宗。爲得正。然正宗中猶載退之畫記等。則未可謂純善。吳訥辨體。愼蒙明文。則稍可矣。

新字:問。詩文編集甚多。孰為得正。曰。三百篇之後。唯漢魏之際。遺響尚存。厥後唯杜少陵氏之作。為庶幾矣。葢古人之詩。皆発於咨嗟詠嘆之余。而一無非事実者。所謂本於性情。是已。非若後人之無事而強作也。其無所感托。徒流連光景。模写物象者。雖写難状之景。如在目前。畢竟徒作耳。風雲月露。山川草木。本天地自有之物。不須詩人模写之也。唯杜甫平生憂国愛民。忠憤感激。一皆寓之於詩。世称詩史。故杜詩之妙。不在於巧拙之間。而在於真情盈溢。不可歇止。無意托物比興。而托物比興無所不在。後世或譏其近質野。或誚其間有村陋句。至於明鄭善夫。亦褒貶是非。不少仮借。後世徒知以詩家蠅墨糾之。而不知此反是其妙処也。李白雖神於詩。其意易識。至杜詩。註者亡慮数十家。是李之所不及。以人之所感自異也。至於文。則蕭統文選為本。然識見不正。銓択不精。多載淫麗蕪蔓。無益于実用者。甚害於学者也。特東萊文鑒。西山正宗。為得正。然正宗中猶載退之画記等。則未可謂純善。呉訥弁体。慎蒙明文。則稍可矣。

書き下し

問ふ、詩文の編集甚だ多し。孰れか正を得たりと為す、と。曰く、三百篇の後は、唯漢魏の際のみ、遺響尚存す。厥の後は唯杜少陵氏の作のみ、庶幾しと為す。蓋し古人の詩は、皆咨嗟詠歎の余に発して、一として事実に非ざる者無し。所謂性情に本づくとは、是れなり。後人の事無くして強ひて作るが若きに非ざるなり。其の感托する所無く、徒に光景に流連し、物象を模写する者は、難状の景を写して目前に在るが如くなりと雖も、畢竟徒作のみ。風雲月露、山川草木は、本天地自有の物なり。詩人の之を模写するを須ひざるなり。唯杜甫は平生国を憂へ民を愛し、忠憤感激、一に皆之を詩に寓す。世に詩史と称す。故に杜詩の妙は、巧拙の間に在らずして、真情盈溢して歇止すべからざるに在り。物に托し比興するに意無くして、物に托し比興すること在らざる所無し。後世或いは其の質野に近きを譏り、或いは其の間に村陋の句有るを誚る。明の鄭善夫に至りては、亦是非を褒貶して、少しも仮借せず。後世徒に詩家の縄墨を以て之を糾すことを知りて、此れ反つて是れ其の妙処なることを知らざるなり。李白は詩に神なりと雖も、其の意識り易し。杜詩に至りては、註者亡慮数十家。是れ李の及ばざる所なり。人の感ずる所自ら異なるを以てなり。文に至りては、則ち蕭統の文選を本と為す。然れども識見正しからず、銓択精しからず、多く淫麗蕪蔓にして実用に益無き者を載す。甚だ学者を害するなり。特り東萊の文鑑、西山の正宗のみ、正を得たりと為す。然れども正宗の中に猶退之の画記等を載す。則ち未だ純善と謂ふべからず。呉訥の辨体、慎蒙の明文は、則ち稍可なり。

現代語訳

問う。詩文を編んだ集はたいへん多い。どれが正しさを得ているか。答える。『詩経』三百篇の後は、ただ漢魏の時代にだけその余韻がまだ残っている。その後はただ杜甫(少陵)の作品だけが、それに近いといえる。思うに古人の詩は、みな嘆き詠じるあまりに発したもので、一つとして事実にもとづかないものはない。いわゆる性情にもとづくとはこのことである。後人が何事もないのに無理に作るようなものではない。心に感じて託するところがなく、ただ風景に浸り、物の姿を写すだけのものは、言い表しにくい景色を目の前にあるように写したとしても、結局は無駄な作にすぎない。風雲や月露、山川や草木は、もともと天地に自然にある物である。詩人がそれを写す必要はない。ただ杜甫は、日ごろ国を憂え民を愛し、忠義の憤りや感激を、すべて詩に託した。世に「詩史」と称される。だから杜甫の詩の妙は、巧拙のところにはなく、真情があふれて止めようがないところにある。物に託して比喩や興を用いようという意図はないのに、物に託した比喩や興がどこにでもある。後世には、その質朴で野暮に近いところを譏る者や、その中に田舎じみた拙い句があるとそしる者がいる。明の鄭善夫に至っては、やはり是非を褒めたりけなしたりして、少しも容赦しない。後世の人は詩家の規矩でただそれを正すことしか知らず、それがかえってその妙所であることを知らない。李白は詩において神のようであるが、その意味は分かりやすい。杜甫の詩に至っては、注釈者はおよそ数十家にのぼる。これは李白の及ばないところである。人の感じるところがおのずから異なるからである。文章については、蕭統の『文選』を基本とする。しかし識見が正しくなく、選び方が精密でなく、なまめかしく華美で冗長な、実用に益のないものを多く載せている。学ぶ者をひどく害する。ただ呂祖謙(東萊)の『文鑑』と真徳秀(西山)の『文章正宗』だけが正しさを得ている。しかし『文章正宗』の中にも韓愈(退之)の「画記」などを載せている。だからまだ純粋に善いとは言えない。呉訥の『文章辨体』、慎蒙の『明文』は、まずまずよい。

解説

仁斎は詩の正統を、詩経の後は漢魏、そして杜甫に見いだす。古人の詩はみな嘆き詠じるあまりに発したもので、事実と性情にもとづいていた。これに対し、感じるところもなく風景を写すだけの詩は、どれほど巧みでも徒作にすぎないという。杜甫の妙は巧拙ではなく、国を憂え民を愛する真情があふれ出ているところにあり、野暮だと譏られる句さえかえって妙処だと仁斎は見る。文章でも、華美で実用に益のない文選より、正しさを得た選集を重んじる。表現の技巧よりも、伝えたい本当の思いがあるかどうかが人を動かすという指摘は、今の文章にもそのまま当てはまる。

この章句が説くこと

詩真情杜甫性情文選作文

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