童子問 / 卷上
問。禪莊宋儒之談道。以遠者大者爲極。今說道在於近。而不在遠。願明其是非之所以然。曰。語人而難知者。非善敎。導人而難從者。非善道。聖人之道。在於君臣父子夫婦昆弟朋友之間。而德不出於仁義忠信之外。通干古今。而無所變。準乎四海。而無所違。根於人心。徹干風俗。天子不能廢焉。聖人不能改焉。夫婦之愚不肖。皆可能知。皆可能行。故謂之天下之達道德。若禪莊之理宋儒理性之學。其理隱微而難知。其道高妙而難行。遠於人事。戾於風俗。推之於人倫日用。皆無所用。豈得謂之天下之達道德乎。大抵鶩干高遠。而無益干人倫。無資干日用。無補干天下國家之治者。便孟子所謂邪說暴行。是已。其是非從而可知矣。
新字:問。禅荘宋儒之談道。以遠者大者為極。今説道在於近。而不在遠。願明其是非之所以然。曰。語人而難知者。非善教。導人而難従者。非善道。聖人之道。在於君臣父子夫婦昆弟朋友之間。而徳不出於仁義忠信之外。通干古今。而無所変。準乎四海。而無所違。根於人心。徹干風俗。天子不能廃焉。聖人不能改焉。夫婦之愚不肖。皆可能知。皆可能行。故謂之天下之達道徳。若禅荘之理宋儒理性之学。其理隠微而難知。其道高妙而難行。遠於人事。戻於風俗。推之於人倫日用。皆無所用。豈得謂之天下之達道徳乎。大抵鶩干高遠。而無益干人倫。無資干日用。無補干天下国家之治者。便孟子所謂邪説暴行。是已。其是非従而可知矣。
書き下し
問ふ、禅荘・宋儒の道を談ずる、遠き者・大なる者を以て極と為す。今、道は近きに在りて遠きに在らずと説く。願はくは其の是非の然る所以を明らかにせよ。曰く、人に語りて知り難き者は、善き教へに非ず。人を導きて従ひ難き者は、善き道に非ず。聖人の道は、君臣・父子・夫婦・昆弟・朋友の間に在りて、徳は仁義忠信の外に出でず。古今に通じて変ずる所無く、四海に準じて違ふ所無し。人心に根ざし、風俗に徹す。天子も廃すること能はず、聖人も改むること能はず。夫婦の愚不肖も、皆能く知るべく、皆能く行ふべし。故に之を天下の達道徳と謂ふ。禅荘の理、宋儒理性の学の若きは、其の理隠微にして知り難く、其の道高妙にして行ひ難し。人事に遠く、風俗に戻る。之を人倫日用に推すに、皆用ふる所無し。豈に之を天下の達道徳と謂ふことを得んや。大抵高遠に鶩せて、人倫に益無く、日用に資する無く、天下国家の治に補ひ無き者は、便ち孟子の所謂邪説暴行、是れのみ。其の是非は従りて知るべし。
現代語訳
問う。禅や老荘、宋代の儒者が道を論じるときは、遠いもの・大きなものを究極とする。ところが今(先生は)道は近くにあって遠くにはないと説かれる。どうかその是非の理由を明らかにしていただきたい。答える。人に語っても理解しにくいものは、よい教えではない。人を導いても従いにくいものは、よい道ではない。聖人の道は、君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友の間にあり、その徳は仁義と忠信の外に出ない。古今を通じて変わることがなく、四海のどこに当てはめても食い違うことがない。人の心に根ざし、風俗の隅々まで行き渡っている。天子でもこれを廃することはできず、聖人でもこれを改めることはできない。平凡な夫婦の愚かで未熟な者でも、皆知ることができ、皆行うことができる。だからこれを天下の達道・達徳というのである。禅や老荘の理、宋儒の理性の学のようなものは、その理は奥深く隠れて知りにくく、その道は高く玄妙で行いにくい。人の営みから遠く、風俗に背く。これを人倫日用に押し広げてみても、何の役にも立たない。どうしてこれを天下の達道・達徳と呼べようか。およそ高遠なものを追い求めて、人倫に益がなく、日々の暮らしの助けにならず、天下国家の治めに補いのないものは、つまり孟子のいう邪説・暴行にほかならない。その是非はここから自ずと知られるのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『童子問』卷下問ふ、仏法甚だ熾んにして、孔子の教寥寥たる者は、何ぞや。曰く、常を厭うて新を喜び、正を嫉んで奇を好むは、古今の通病なり。孔子曰く、邦道有るに、貧しく且つ賤しきは恥なり。邦道無きに、富み且つ貴きは恥なりと。儻し儒教をして今の仏教の熾んなるがごとくならしめば、則ち即ち是れ唐虞三代の盛んなるのみ。後漢の明帝・唐の太宗の文教を崇ぶを以てすと雖も、奚ぞ敢へて其の万一に比するに足らん。然り而して仏の教は至る所有り、至らざる所有り。之を用ふれば則ち存し、之を舍つれば則ち息む。聖人の道の処として在らざる無く、時として然らざる無きに如かず。本然の道に非ざるが故なり。今天下の人をして悉く度して僧尼と為し、天下の屋宅を毀ちて皆蘭若と為さしむること能はず。則ち是れ其の道至る所有り、至らざる所有るなり。且つ唐虞三代の盛時、老荘の学有るを聞かず。後漢の明帝以前、又未だ仏法有らず。則ち之を須臾も離るべからざるの道と謂ふべからず。聖人の教のごときは然らず。東夷・西戎・南蛮・北狄、声教の曁ばざる所、言語の通ぜざる所と雖も、必ず当に君臣・父子・夫婦・朋友・昆弟の倫有るべく、又当に孝悌忠信を以て善と為すべし。大凡天下の出家緇衣せずして、君臣・父子・夫婦・昆弟・朋友の間に在る者は、挙げて皆儒人なり。四民の業を執りて、不孝・不弟・不忠・不信に至らざる者も、亦皆儒人なり。学ぶと学ばざるとに繋らざるなり。故に子夏曰く、未だ学ばずと曰ふと雖も、吾は必ず之を学びたりと謂はんと。見るべし、堯舜孔子の道は、日月と照を同じくし、極天墜つること罔し。猗嗟盛んなるかな。故に仏法は盛んなるがごとくにして実は微なり。孔子の道は微なるがごとくにして実は盛んなり。与に比擬を為すべからざるなり。
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『童子問』卷下大学に曰く、先後する所を知れば、則ち道に近しと。論語に曰く、信義に近ければ、言復むべし。恭礼に近ければ、恥辱に遠ざかると。若し後儒をして之を言はしめば、必ず曰はん、先後する所を知れば、則ち道に合ふと。必ず曰はん、信義に合ひ、恭礼に合ふと。而して近の字を用ふべからず。然るに聖賢皆近と言ふ者は、何ぞや。中庸に云ふ、忠恕は道を違ること遠からずと。亦近きを言ふなり。蓋し道の広大なる、何の執守する所ぞ。故に唯忠信を主とすることを要して、強ひて為すことを要せず。忠信を主とすれば、則ち中らずと雖も遠からず。強ひて為せば、則ち外は似て内は実に非なり。聖人の道は、優優洋洋として、促迫することを得ず、牽強することを得ず。顔子の亜聖も、猶曰く、三月仁に違はずと。曾子の篤行も、亦疾革まるに至つて、初めて簀を易ふ。天地の化も亦然り。二十四節、七十二候、或は進み或は退き、寒熱温涼、截然として悉く其の数のごとくなること能はず。亦活物なるが故なり。語に曰く、礼は其の奢らんよりは寧ろ倹せよと。又曰く、奢れば則ち不遜、倹なれば則ち固なり。其の不遜ならんよりは寧ろ固なれと。寧とは庶幾の辞にして、亦近きの謂なり。聖人豈に其の一一中を得んことを欲せざらんや。而れども必ずしも得べからず。故に之を寧と謂ふ。蓋し人に教ふるに一歩を退きて質実に就くを以てするなり。註家は聖人の微意の在る所を知らず、乃ち前章に於て之を解して曰く、礼は中を得るを貴ぶ。奢れば則ち過ぎ、倹なれば則ち及ばず。二者皆礼に合はずと。又後章を解して曰く、奢倹倶に中を失ふ。已むことを得ずして時の弊を救ふなりと。果して其の説のごとくならば、則ち是れ聖人の言、皆半上落下にして、教と為すに足らざるなり。明道先生曰く、道の浩浩たる、何れの処にか手を下さん。惟誠を立てて、纔かに居るべきの処有りと。又曰く、惟誠心を進むれば、其の文章中らずと雖も遠からずと。伊川先生曰く、人の道は唯忠信に在りと。皆確言なり。人其の意味の深長なることを知らず。
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『童子問』卷上故に孔子曰く、中庸の徳為るや、其れ至れるかな、民鮮きこと久しと。至れりとは、子必ず想ふ、耳目の見聞する所を外にして、更に至貴至高・光明閃爍・驚くべく楽しむべきの理有らんと。非なり。天地の間は、唯だ一つの実理のみ。更に奇特無し。生民有りてより以来、君臣有り、父子有り、夫婦有り、昆弟有り、朋友有り。相親しみ相愛し、相従ひ相聚まる。善なる者は以て善と為し、悪なる者は以て悪と為し、是なる者は以て是と為し、非なる者は以て非と為す。万古の前も此の如く、万古の後も亦た此の如し。子能く孝弟忠信にして、身を修め業を勤め、夙夜懈らざれば、則ち自ら天道に合し、人倫に宜しくして、人為る所以を失ふに至らず。詩に曰く、永く言に命に配し、自ら多福を求むと。或いは人至貴至高・光明閃爍・驚くべく楽しむべきの理を以て、汝に説き与ふる者有らば、野狐山鬼の汝を魅するに非ずんば、必ず是れ邪説の魁なり。謹んで聴くこと勿かれ。
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