弁道 / 第三則
後世貴精賤粗之見。昉於濂溪。濂溪乃淵源於易道器之言。殊不知道謂易道也。形謂奇偶之象也。器謂制器也。易自卜筮書。不可與它經一視焉。如宋儒訓道爲事物當行之理。是其格物究理之學。欲使學者以己意求夫當行之理於事物。而以此逞禮樂刑政焉。夫先王者聖人也。人人而欲操先王之權。非僣則妄。亦不自揣之甚。近世又有專據中庸孟子。以孝弟五常爲道者。殊不知所謂天下達道五者。本謂先王之道可以達於天子庶人者有五也。非謂五者可以盡先王之道也。堯舜之道。孝弟而已矣。亦中庸登高必自卑意。非謂堯舜之道盡於孝弟也。又如以中庸爲道。亦欲以己意擇所謂中庸者。苟不學先王之道。則中庸將何準哉。又如以往來弗已爲道。是其人所自負死活之說。猶爾貴精賤粗之流哉。凡是皆坐不識道爲統名故耳。
新字:後世貴精賤粗之見。昉於濂渓。濂渓乃淵源於易道器之言。殊不知道謂易道也。形謂奇偶之象也。器謂制器也。易自卜筮書。不可与它経一視焉。如宋儒訓道為事物当行之理。是其格物究理之学。欲使学者以己意求夫当行之理於事物。而以此逞礼楽刑政焉。夫先王者聖人也。人人而欲操先王之権。非僣則妄。亦不自揣之甚。近世又有専拠中庸孟子。以孝弟五常為道者。殊不知所謂天下達道五者。本謂先王之道可以達於天子庶人者有五也。非謂五者可以尽先王之道也。堯舜之道。孝弟而已矣。亦中庸登高必自卑意。非謂堯舜之道尽於孝弟也。又如以中庸為道。亦欲以己意択所謂中庸者。苟不学先王之道。則中庸将何準哉。又如以往来弗已為道。是其人所自負死活之説。猶爾貴精賤粗之流哉。凡是皆坐不識道為統名故耳。
書き下し
後世の精を貴び粗を賤しむの見は、濂渓に昉まる。濂渓は乃ち易の道器の言に淵源す。殊に知らず、道は易の道を謂ふなり、形は奇偶の象を謂ふなり、器は器を制するを謂ふなることを。易は自ら卜筮の書にして、它経と一視すべからず。宋儒の道を訓じて事物当行の理と為すが如きは、是れ其の格物究理の学にして、学者をして己が意を以て夫の当行の理を事物に求めしめ、而して此を以て礼楽刑政を逞しくせんと欲す。夫れ先王は聖人なり。人人にして先王の権を操らんと欲するは、僭に非ずんば則ち妄なり。亦た自ら揣らざるの甚だしきなり。近世又た専ら中庸・孟子に拠りて、孝弟五常を以て道と為す者有り。殊に知らず、所謂天下の達道五とは、本と先王の道の以て天子庶人に達すべき者五有るを謂ふなり。五者以て先王の道を尽くすべしと謂ふに非ざるなり。「堯舜の道は孝弟のみ」とは、亦た中庸の「高きに登るには必ず卑きよりす」の意なり。堯舜の道は孝弟に尽くと謂ふに非ざるなり。又た中庸を以て道と為すが如きも、亦た己が意を以て所謂中庸なる者を択ばんと欲す。苟も先王の道を学ばずんば、則ち中庸将た何をか準とせんや。又た往来已まざるを以て道と為すが如きは、是れ其の人の自ら負む死活の説にして、猶ほ爾く精を貴び粗を賤しむの流れなるかな。凡そ是れ皆道の統名たるを識らざるに坐するが故のみ。
現代語訳
後世の、精妙なものを貴び粗いものを賤しむ見方は、周濂渓(周敦頤)に始まる。濂渓は『易』の「形而上を道といい、形而下を器という」という言葉にもとづく。しかしそこの道とは易の道のことであり、形とは奇数・偶数の卦の象のこと、器とは器物を作ることだとは、まったく知らなかった。『易』はもともと占いの書であって、他の経書と同列に見てはならない。宋の儒者が道を「事物がまさに行うべき理」と解したのは、彼らの格物究理の学であって、学ぶ者に自分の考えでその理を事物に求めさせ、それによって礼楽刑政を思いのままにしようとするものである。そもそも先王は聖人である。誰もが先王の権限を握ろうとするのは、僭越でなければ妄想であり、身のほど知らずも甚だしい。近ごろはまた、もっぱら『中庸』『孟子』に拠って、孝悌や五常を道とする者がいる。『中庸』のいう「天下の達道五つ」とは、もともと先王の道のうち天子から庶民にまで通じるものが五つあるという意味であって、その五つで先王の道を尽くせるという意味ではないことを知らないのだ。(『孟子』の)「堯舜の道は孝悌だけだ」というのも、『中庸』の「高い所に登るには必ず低い所から」という意味であって、堯舜の道が孝悌に尽きるという意味ではない。また中庸を道とする者も、自分の考えで中庸なるものを選ぼうとしている。もし先王の道を学ばなければ、中庸は何を基準にするのか。また「往来してやまないこと」を道とする者もいるが、それはその人が自負する生と死の説であって、やはり精を貴び粗を賤しむ流れである。すべてこれらは、道が総称であることを知らないことから来ている。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『童子問』卷下問ふ、仏法甚だ熾んにして、孔子の教寥寥たる者は、何ぞや。曰く、常を厭うて新を喜び、正を嫉んで奇を好むは、古今の通病なり。孔子曰く、邦道有るに、貧しく且つ賤しきは恥なり。邦道無きに、富み且つ貴きは恥なりと。儻し儒教をして今の仏教の熾んなるがごとくならしめば、則ち即ち是れ唐虞三代の盛んなるのみ。後漢の明帝・唐の太宗の文教を崇ぶを以てすと雖も、奚ぞ敢へて其の万一に比するに足らん。然り而して仏の教は至る所有り、至らざる所有り。之を用ふれば則ち存し、之を舍つれば則ち息む。聖人の道の処として在らざる無く、時として然らざる無きに如かず。本然の道に非ざるが故なり。今天下の人をして悉く度して僧尼と為し、天下の屋宅を毀ちて皆蘭若と為さしむること能はず。則ち是れ其の道至る所有り、至らざる所有るなり。且つ唐虞三代の盛時、老荘の学有るを聞かず。後漢の明帝以前、又未だ仏法有らず。則ち之を須臾も離るべからざるの道と謂ふべからず。聖人の教のごときは然らず。東夷・西戎・南蛮・北狄、声教の曁ばざる所、言語の通ぜざる所と雖も、必ず当に君臣・父子・夫婦・朋友・昆弟の倫有るべく、又当に孝悌忠信を以て善と為すべし。大凡天下の出家緇衣せずして、君臣・父子・夫婦・昆弟・朋友の間に在る者は、挙げて皆儒人なり。四民の業を執りて、不孝・不弟・不忠・不信に至らざる者も、亦皆儒人なり。学ぶと学ばざるとに繋らざるなり。故に子夏曰く、未だ学ばずと曰ふと雖も、吾は必ず之を学びたりと謂はんと。見るべし、堯舜孔子の道は、日月と照を同じくし、極天墜つること罔し。猗嗟盛んなるかな。故に仏法は盛んなるがごとくにして実は微なり。孔子の道は微なるがごとくにして実は盛んなり。与に比擬を為すべからざるなり。
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『童子問』卷上問ふ、先生は易知易行なる者を是とし、難知難行なる者を非と説く。安んぞ難知難行なる者の真に是にして、易知易行なる者の是に非ざることを知らんや。乞ふ、申ねて論究せよ。曰く、中庸に曰く、「道なる者は、須臾も離るべからざるなり。離るべきは道に非ざるなり」と。道の真是真非は、実に此に判る。須臾も離るべからざる者は、堯舜孔子の道是れのみ。仏老の道の若きは、之有りて天下に益無く、之無くして天下に損無し。皆得て離るべし。豈に之を道と謂ふに足らんや。老荘の説は、戦国秦漢の際に盛んなり。浮屠の法は、後漢永平八年に始めて漢土に来たる。唐虞三代の時には皆之無し。然れども天下泰平にして、黎民寿考し、治皆数百年に及ぶ。時に二氏無きを以て其の治を害せざるなり。秦皇・漢武・唐の玄宗・宋の徽宗は最も道教を信ず。然れども政治日に壊れ、国俗日に隳る。仏法は晋・宋・斉・梁・陳・隋に盛んにして、延いて唐宋に及ぶ。六朝の間、乱亡相尋ぐ。時に二氏有るを以て其の乱を救はざるなり。唐宋頗る小康なりと雖も、本仏法に関はるに非ず、亦太平と為すに足らず。則ち豈に之有りて天下に益無く、之無くして天下に損無きに非ずや。堯舜孔子の道の若きは、一日之を離るれば、則ち天下の君臣・父子・夫婦・昆弟・朋友、皆其の所を失ふ。豈に須臾も離るべからざるの道に非ずや。其の真是真非も亦判然たり。
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『慎思録』巻之五孟子曰く、君子の言は、帯を下らずして、道存す、と。蓋し道は人に遠からず。性に率ふ、之を道と謂ふ。故に曰く、道なる者は、須臾も離るべからざるなり、と。身外の事に非ざるに由るなり。日用常行の間、至近の処にして、至道存す。此れ乃ち天理の流行発見する処なり。君子の道は、費にして隠なり。若し夫れ非常高遠の事に対して、以て至妙と為す者は、左太冲の所謂侈言験無く、麗なりと雖も経に非ずといふ者是れのみ。蓋し妙理を語ることは易し。一超直入、言下頓悟と雖も、亦為すべし。然れども真の悟りに非ざるのみ。
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『童子問』卷上中庸に曰く、「君子の道は、諸を身に本づけ、諸を庶民に徴し、諸を三王に考へて謬らず、諸を天地に建てて悖らず、諸を鬼神に質して疑ひ無く、百世以て聖人を俟ちて惑はず」と。言ふこころは、聖人の道は、之を己に求め、之を人に察し、之を往古に考へ、之を来世に推し、之を天地鬼神に徴して、皆合はざる所無し。山川草木・禽獣虫魚・蚑行喙息の微に至るまで、徴して合はざる無く、推して通ぜざる無し。天下の達道なるが故なり。夫の隠微の説・高妙の理の若きは、之を視れども見る所無く、之を聴けども聞く所無し。之を人倫風俗に求むれば皆悖る。見るべし、天地の間本来此の理無きことを。其の実是実非、断じて知るべきなり。
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『弁道』第一則道は知り難く、亦た言ひ難し。其の大なるが為の故なり。後世の儒者、各〻見る所を道とす、皆一端なり。夫れ道は先王の道なり。思孟よりして後、降りて儒家者流と為り、乃ち始めて百家と衡を争ふ。自ら小にすと謂ふべきのみ。夫の子思の中庸を作るを観るに、老氏と抗する者なり。老氏は聖人の道を偽なりと謂ふ。故に「性に率ふ之を道と謂ふ」とて、以て吾が道の偽に非ざるを明らかにす。是を以て其の言終に誠に帰す。中庸とは徳行の名なり。故に「択ぶ」と曰ふ。子思借りて以て道を明らかにし、而して老氏の中庸に非ざるを斥く。後世遂に以て中庸の道と為す者は誤れり。
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『慎思録』巻之三君子の道は、固より敢て物を離れず、又敢て物を逐はず。夫れ物を逐ふ者は、其の心を放ちて求むることを知らず、其の欲に徇ひて反ることを知らず。道を失ふ所以なり。物を離るる者は、倫理を去り人事を廃す。道を為す所以に非ざるなり。
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