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童子問 / 卷下

問五經之理。曰。五經是宛然天地萬物人情世變圖子耳。天下之書。靡非論說。唯六經不屬論說。而萬理畢具。變化無方。隨取隨在。順之則治。逆之則亂。從之則存。悖之則亡。皆使人思而得之。不比論孟章章句句各有其義。而不能兼他義也。故論語雖爲宇宙第一書。然猶可有。六經不可有。其故何也。倘世有孔子。自當有論語書。若六經。則非有唐虞以來至於周末一世界。而其間又有極治極亂之時許多人情世變備。則不可有也。雖孔子。亦不能作。此六經之所以不可有也。然本無甚異義。求異義。則不是。詩民巷之歌謠。書先王之政事。易陰陽消長之變。春秋魯史簡牘之文。本何有異義。但其理自深遠耳。古來註六經者。皆作議論解之。淺矣。晉陶潛方夏日高臥北牕之下。自以爲犧皇上世之人。其見固高矣。然猶有待北牕之涼。論語曰。斯民也。三代之所以直道而行也。苟邃於六經之理焉。則今日即唐虞三代之時。斯身即唐虞三代之民。固無待乎外。余嘗有題壁詩云。天空海濶小茅堂。四序悠悠春色長。笑殺淵明無卓識。北牕何必慕犧皇。竊述此意。

新字:問五経之理。曰。五経是宛然天地万物人情世変図子耳。天下之書。靡非論説。唯六経不属論説。而万理畢具。変化無方。随取随在。順之則治。逆之則乱。従之則存。悖之則亡。皆使人思而得之。不比論孟章章句句各有其義。而不能兼他義也。故論語雖為宇宙第一書。然猶可有。六経不可有。其故何也。倘世有孔子。自当有論語書。若六経。則非有唐虞以来至於周末一世界。而其間又有極治極乱之時許多人情世変備。則不可有也。雖孔子。亦不能作。此六経之所以不可有也。然本無甚異義。求異義。則不是。詩民巷之歌謡。書先王之政事。易陰陽消長之変。春秋魯史簡牘之文。本何有異義。但其理自深遠耳。古来註六経者。皆作議論解之。浅矣。晋陶潜方夏日高臥北牕之下。自以為犠皇上世之人。其見固高矣。然猶有待北牕之涼。論語曰。斯民也。三代之所以直道而行也。苟邃於六経之理焉。則今日即唐虞三代之時。斯身即唐虞三代之民。固無待乎外。余嘗有題壁詩云。天空海濶小茅堂。四序悠悠春色長。笑殺淵明無卓識。北牕何必慕犠皇。窃述此意。

書き下し

問ふ、五経の理。曰く、五経は是れ宛然たる天地万物人情世変の図子のみ。天下の書、論説に非ざる靡し。唯六経のみ論説に属せずして、万理畢く具はり、変化方無く、取るに随つて在るに随ふ。之に順へば則ち治まり、之に逆へば則ち乱れ、之に従へば則ち存し、之に悖れば則ち亡ぶ。皆人をして思うて之を得しむ。論孟の章章句句各其の義有りて、他義を兼ぬること能はざるに比せざるなり。故に論語は宇宙第一の書たりと雖も、然れども猶有るべし。六経は有るべからず。其の故何ぞや。倘し世に孔子有らば、自ら当に論語の書有るべし。六経のごときは、則ち唐虞以来周末に至るまでの一世界有りて、其の間に又極治極乱の時、許多の人情世変備はるに非ざれば、則ち有るべからざるなり。孔子と雖も亦作ること能はず。此れ六経の有るべからざる所以なり。然れども本甚だしき異義無し。異義を求むれば、則ち是ならず。詩は民巷の歌謡、書は先王の政事、易は陰陽消長の変、春秋は魯史簡牘の文、本何の異義か有らん。但其の理自ら深遠なるのみ。古来六経に註する者、皆議論を作して之を解す。浅し。晋の陶潜、夏日に方つて北牕の下に高臥し、自ら以為へらく犠皇上世の人なりと。其の見固より高し。然れども猶北牕の涼を待つこと有り。論語に曰く、斯の民や、三代の直道にして行ふ所以なりと。苟も六経の理に邃ければ、則ち今日即ち唐虞三代の時、斯の身即ち唐虞三代の民にして、固より外に待つこと無し。余嘗て題壁の詩有りて云ふ、天空海濶小茅堂、四序悠悠として春色長し、笑殺す淵明卓識無きを、北牕何ぞ必ずしも犠皇を慕はんと。竊かに此の意を述ぶ。

現代語訳

問う。五経の道理について。答える。五経はまさしく天地万物・人情・世の移り変わりをそのまま写した図のようなものである。天下の書物は論説でないものはないが、六経だけは論説に属さず、しかもあらゆる道理がことごとく備わり、変化に決まった形がなく、どこから取ってもそこにある。これに従えば治まり、逆らえば乱れ、従えば存し、背けば滅ぶ。すべて人に考えさせてつかませるのであって、論語・孟子が章ごと句ごとにそれぞれの意味をもち、他の意味を兼ねられないのとは比べられない。だから論語は宇宙第一の書ではあるが、それでもまた現れうる。六経は現れえない。なぜか。もし世に孔子が現れれば、おのずと論語のような書ができるだろう。しかし六経は、唐虞(堯舜)以来周の末に至るまでの一つの世界があり、その間に極めて治まった時代と極めて乱れた時代、数多くの人情と世の変化が備わったのでなければ、生まれえない。孔子でさえ作ることはできない。これが六経が再び現れえない理由である。とはいえ、六経にはもともと特別な意味などない。特別な意味を求めるのは正しくない。詩経は民間の歌謡、書経は先王の政治、易経は陰陽の消長の変化、春秋は魯の国の史官の記録の文であって、もともと何の特別な意味があろうか。ただその道理がおのずと深遠なだけである。昔から六経に注を施す者は、みな議論を立てて解釈してきたが、浅はかである。晋の陶潜は夏の日に北の窓の下で悠々と寝そべり、自分は伏羲以前の上古の人だと思った。その見識はもとより高い。しかしそれでもなお北窓の涼しさを頼みとしていた。論語に「この民こそ、夏・殷・周の三代がまっすぐな道で治めた民である」とある。もし六経の道理に深く通じれば、今日がそのまま唐虞三代の時であり、この身がそのまま唐虞三代の民であって、外に頼むものはもとよりない。私はかつて壁に詩を書きつけたことがある。「天は広く海はひろびろとした小さな茅の家、四季はゆったりとめぐり春の色は長い。笑ってしまう、陶淵明に卓見がないことを。北窓の下でわざわざ伏羲の世を慕うことなどあろうか」。ひそかにこの意を述べたのである。

解説

仁斎は論語を宇宙第一の書としながら、六経には別の価値があると言う。論語は孔子のような人がいれば再び書かれうるが、六経は唐虞から周末までの治乱と人情世変の積み重ねがなければ生まれない、いわば天地と人の世そのものの図だからである。しかもそこに特別な奥義を探すのは誤りで、詩は歌謡、書は政事、春秋は史官の記録にすぎず、理がおのずと深いだけだとする。陶淵明が北窓の涼しさに上古を夢見たのを笑う詩には、理想の時代は外にあるのでなく、道理に通じた今日の暮らしの中にあるという確信がにじむ。理想の職場や時代を外に求めるより、目の前の日常をよく見ることが出発点になる。

この章句が説くこと

六経論語道人情日用五経

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