童子問 / 卷下
孟子之意。本非謂天下之性皆善而無惡也。就氣質之中。而指其善而言之。非離氣質而論其理也。而其所謂善者。就四端之心而言。非謂未發之時有斯理也。故曰。人性之善也。猶水之就下也。夫水之就下。在流行之時而可見焉。則人性之善。亦就發動之時而言之。可知矣。又曰。人之有是四端也。猶其有四躰也。言四端之心。人人具足不假他求。猶四躰之有于其身。而相離不得也。可見孟子之學。本無未發已發之別。而以四端之心。比四躰之有于其身。則性善者。即以四端之心言。而非本然之理也。下文又曰。無惻隱之心。非人也。無羞惡之心。非人也。無辭讓之心。非人也。無是非之心。非人也。則知孟子之意。以謂凡人必有耳目四躰。而後謂之人。四端之在于吾身也。猶四躰之有于其身。非天下之性皆善而無惡乎。然而。天下之衆。間或有生而無目者。或有耳不聞者。或有四躰不具者。其無有四端之心者。亦猶如此。如高陽氏不才子子越椒羊舌氏之類。是已。猶有人之形。而無耳目四躰者。然人而無耳目四躰者。億萬人中之一二耳。人而無四端者。亦億萬人中之一二耳。故曰天下之性皆善而無惡。當以意理會之。
新字:孟子之意。本非謂天下之性皆善而無悪也。就気質之中。而指其善而言之。非離気質而論其理也。而其所謂善者。就四端之心而言。非謂未発之時有斯理也。故曰。人性之善也。猶水之就下也。夫水之就下。在流行之時而可見焉。則人性之善。亦就発動之時而言之。可知矣。又曰。人之有是四端也。猶其有四体也。言四端之心。人人具足不仮他求。猶四体之有于其身。而相離不得也。可見孟子之学。本無未発已発之別。而以四端之心。比四体之有于其身。則性善者。即以四端之心言。而非本然之理也。下文又曰。無惻隠之心。非人也。無羞悪之心。非人也。無辞譲之心。非人也。無是非之心。非人也。則知孟子之意。以謂凡人必有耳目四体。而後謂之人。四端之在于吾身也。猶四体之有于其身。非天下之性皆善而無悪乎。然而。天下之衆。間或有生而無目者。或有耳不聞者。或有四体不具者。其無有四端之心者。亦猶如此。如高陽氏不才子子越椒羊舌氏之類。是已。猶有人之形。而無耳目四体者。然人而無耳目四体者。億万人中之一二耳。人而無四端者。亦億万人中之一二耳。故曰天下之性皆善而無悪。当以意理会之。
書き下し
孟子の意は、本天下の性皆善にして悪無しと謂ふに非ず。気質の中に就いて、其の善を指して之を言ふ。気質を離れて其の理を論ずるに非ず。而して其の所謂善なる者は、四端の心に就いて言ふ。未発の時に斯の理有りと謂ふに非ず。故に曰く、人性の善なるや、猶水の下きに就くがごとしと。夫れ水の下きに就くは、流行の時に在つて見るべし。則ち人性の善も、亦発動の時に就いて之を言ふこと、知るべし。又曰く、人の是の四端有るや、猶其の四体有るがごとしと。言ふこころは、四端の心は人人具足して他に求むることを仮らず、猶四体の其の身に有りて、相離るることを得ざるがごとし。見るべし、孟子の学は本未発・已発の別無くして、四端の心を以て四体の其の身に有るに比す。則ち性善とは、即ち四端の心を以て言ふ、而して本然の理に非ざるなり。下文に又曰く、惻隠の心無きは人に非ざるなり、羞悪の心無きは人に非ざるなり、辞譲の心無きは人に非ざるなり、是非の心無きは人に非ざるなりと。則ち知る、孟子の意、以為へらく凡そ人は必ず耳目四体有りて、而る後に之を人と謂ふ、四端の吾が身に在るや、猶四体の其の身に有るがごとしと。天下の性皆善にして悪無きに非ずや。然り而して、天下の衆、間或は生まれながらにして目無き者有り、或は耳聞こえざる者有り、或は四体具はらざる者有り。其の四端の心有ること無き者も、亦猶此くのごとし。高陽氏の不才子・子越椒・羊舌氏の類のごとき、是れなり。猶人の形有りて、耳目四体無き者のごとし。然れども人にして耳目四体無き者は、億万人中の一二のみ。人にして四端無き者も、亦億万人中の一二のみ。故に天下の性皆善にして悪無しと曰ふ。当に意を以て之を理会すべし。
現代語訳
孟子の意図は、もともと天下の人の性がみな善で悪がないと言うことではない。気質の中に即して、その善を指して言ったのであり、気質を離れて理を論じたのではない。そしてその善というのは、四端の心について言ったものであり、心がまだ発動していない時にこの理があると言ったのではない。だから孟子は「人の性が善であるのは、水が低いところへ流れるようなものだ」と言う。水が低い方へ流れるのは、流れている時に見てとれる。ならば人の性の善も、心が動く時について言ったものだとわかる。また「人に四端があるのは、四肢があるようなものだ」と言う。その意味は、四端の心は誰にでも備わっていて他に求める必要はなく、四肢が身体についていて離れられないのと同じだということである。ここから、孟子の学にはもともと未発・已発の区別などなく、四端の心を身体の四肢にたとえていることがわかる。とすれば、性善とは四端の心について言ったのであって、本然の理のことではない。その下の文にはさらに「惻隠の心がなければ人ではない。羞悪の心がなければ人ではない。辞譲の心がなければ人ではない。是非の心がなければ人ではない」とある。これによって孟子の意図がわかる。およそ人は必ず耳目四肢があってこそ人と呼ばれるのであり、四端が自分の身にあるのは、四肢が身体にあるのと同じだというのである。それなら天下の性はみな善で悪がないということにならないか。ところが、天下の大勢の人の中には、まれに生まれつき目の見えない者、耳の聞こえない者、四肢の備わらない者がいる。四端の心をもたない者も、これと同じである。高陽氏の不才の子や子越椒、羊舌氏の者たちの類がそれである。人の形をしていながら耳目四肢がないようなものだ。しかし人でありながら耳目四肢のない者は億万人中の一人二人にすぎず、四端のない人もまた億万人中の一人二人にすぎない。だから「天下の性はみな善で悪がない」と言うのである。これは言葉の意図をくみ取って理解すべきである。
解説
この章句が説くこと
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