童子問 / 卷下
其下又繼之曰。凡有四端於我者。知皆擴而充之矣。若火之始然。泉之始達。言天下或亦有無四端者。則固無如之何。凡有四端者。苟能知所以擴充之。則其勢猶火之始然。泉之始達。漸次張皇。不能歇止。觀其不曰凡爲人者。而曰凡有四端於我者。則知其無四端者。所謂禽獸之心。不可以人理論者。而置而不論。其道性善者。皆就其有四端者而言之也。孟子之語。明白順妥。無復可疑。從來諸儒誤認孟子之意。以爲天下之性唯善一樣。而無一惡者。然見天下之人。剛柔善惡。氣稟不同。於是荀揚韓之說興矣。自理氣之說作。而又謂其善者理。而自堯舜至塗人不異。而其不同者。則氣之不齊也。若如其說。則無有下愚之不可移者。於是。乃以自暴自棄者充之。而曰。非不可移也。不肯移耳。是皆不得孟子之意故耳。此是先儒未了之公案。故不厭其詞之繁。豈不千載之一大快乎。童子曰唯。
新字:其下又継之曰。凡有四端於我者。知皆擴而充之矣。若火之始然。泉之始達。言天下或亦有無四端者。則固無如之何。凡有四端者。苟能知所以擴充之。則其勢猶火之始然。泉之始達。漸次張皇。不能歇止。観其不曰凡為人者。而曰凡有四端於我者。則知其無四端者。所謂禽獣之心。不可以人理論者。而置而不論。其道性善者。皆就其有四端者而言之也。孟子之語。明白順妥。無復可疑。従来諸儒誤認孟子之意。以為天下之性唯善一様。而無一悪者。然見天下之人。剛柔善悪。気稟不同。於是荀揚韓之説興矣。自理気之説作。而又謂其善者理。而自堯舜至塗人不異。而其不同者。則気之不斉也。若如其説。則無有下愚之不可移者。於是。乃以自暴自棄者充之。而曰。非不可移也。不肯移耳。是皆不得孟子之意故耳。此是先儒未了之公案。故不厭其詞之繁。豈不千載之一大快乎。童子曰唯。
書き下し
其の下に又之に継いで曰く、凡そ四端の我に有る者、皆拡めて之を充たすことを知らば、火の始めて然え、泉の始めて達するがごとしと。言ふこころは、天下或は亦四端無き者有らば、則ち固より之を如何ともする無し。凡そ四端有る者、苟も能く之を拡充する所以を知らば、則ち其の勢は猶火の始めて然え、泉の始めて達するがごとく、漸次に張皇して、歇止すること能はず。其の凡そ人為る者と曰はずして、凡そ四端の我に有る者と曰ふを観れば、則ち知る、其の四端無き者は、所謂禽獣の心にして、人理を以て論ずべからざる者なれば、置いて論ぜず、其の性善を道ふ者は、皆其の四端有る者に就いて之を言ふなり。孟子の語、明白順妥にして、復た疑ふべき無し。従来諸儒孟子の意を誤認して、以為へらく天下の性は唯善一様にして、一の悪無き者なりと。然るに天下の人を見るに、剛柔善悪、気稟同じからず。是に於て荀・揚・韓の説興る。理気の説作りてより、又其の善なる者は理にして、堯舜より塗人に至るまで異ならず、其の同じからざる者は、則ち気の斉しからざるなりと謂ふ。若し其の説のごとくならば、則ち下愚の移すべからざる者有ること無からん。是に於て、乃ち自暴自棄の者を以て之に充てて曰く、移すべからざるに非ず、移すことを肯ぜざるのみと。是れ皆孟子の意を得ざるが故のみ。此れは是れ先儒未了の公案なり。故に其の詞の繁を厭はず。豈に千載の一大快ならずや。童子曰く、唯と。
現代語訳
その下の文で孟子はさらに続けて言う。「およそ四端を自分にもつ者が、みなこれを押し広げて満たすことを知れば、火が燃え始め、泉が湧き出し始めたようになる」と。その意味は、天下にもし四端のない者がいるなら、それはもとよりどうしようもない。しかし四端をもつ者が、それを押し広げ満たすすべを知れば、その勢いは燃え始めた火、湧き始めた泉のように、次第に大きくなって止められなくなる、ということである。孟子が「およそ人である者は」と言わず「およそ四端を自分にもつ者は」と言っていることを見れば、四端のない者はいわゆる禽獣の心であって人の道理で論じられないので、脇に置いて論じず、性善を説くのはすべて四端をもつ者について言っているのだとわかる。孟子の言葉は明白で筋が通っており、もはや疑う余地はない。これまでの儒者は孟子の意を誤解し、天下の性はただ善一色で一つの悪もないと考えた。ところが天下の人を見ると、剛柔善悪、生まれつきの気質は同じではない。そこで荀子・揚雄・韓愈の説が起こった。理気の説が現れてからは、さらに、善なるものは理であって堯舜から道行く人まで異ならず、異なるのは気が等しくないからだと言うようになった。もしその説の通りなら、下愚で移しようのない者などいないことになる。そこで自暴自棄の者をそれに当てて、「移せないのではない、移ろうとしないだけだ」と言った。これはみな孟子の意を得ていないからである。これは先儒が解き残した公案である。だから言葉が多くなるのも厭わなかった。千年来の大いなる快事ではないか。童子は「はい」と答えた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『童子問』卷下孟子の意は、本天下の性皆善にして悪無しと謂ふに非ず。気質の中に就いて、其の善を指して之を言ふ。気質を離れて其の理を論ずるに非ず。而して其の所謂善なる者は、四端の心に就いて言ふ。未発の時に斯の理有りと謂ふに非ず。故に曰く、人性の善なるや、猶水の下きに就くがごとしと。夫れ水の下きに就くは、流行の時に在つて見るべし。則ち人性の善も、亦発動の時に就いて之を言ふこと、知るべし。又曰く、人の是の四端有るや、猶其の四体有るがごとしと。言ふこころは、四端の心は人人具足して他に求むることを仮らず、猶四体の其の身に有りて、相離るることを得ざるがごとし。見るべし、孟子の学は本未発・已発の別無くして、四端の心を以て四体の其の身に有るに比す。則ち性善とは、即ち四端の心を以て言ふ、而して本然の理に非ざるなり。下文に又曰く、惻隠の心無きは人に非ざるなり、羞悪の心無きは人に非ざるなり、辞譲の心無きは人に非ざるなり、是非の心無きは人に非ざるなりと。則ち知る、孟子の意、以為へらく凡そ人は必ず耳目四体有りて、而る後に之を人と謂ふ、四端の吾が身に在るや、猶四体の其の身に有るがごとしと。天下の性皆善にして悪無きに非ずや。然り而して、天下の衆、間或は生まれながらにして目無き者有り、或は耳聞こえざる者有り、或は四体具はらざる者有り。其の四端の心有ること無き者も、亦猶此くのごとし。高陽氏の不才子・子越椒・羊舌氏の類のごとき、是れなり。猶人の形有りて、耳目四体無き者のごとし。然れども人にして耳目四体無き者は、億万人中の一二のみ。人にして四端無き者も、亦億万人中の一二のみ。故に天下の性皆善にして悪無しと曰ふ。当に意を以て之を理会すべし。
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『童子問』卷下問ふ、向に教誨を蒙る。孟子性善の説は、気質の中に就いて言ふ、気質を離れて之を言ふに非ずと。然るに諸儒の説、紛紛籍籍として、適従すべからず。冀はくは明弁極論して、以て其の帰趣を発せよ。曰く、孟子の性を説く、古今性を言ふの準則なり。諸儒の紛紛の説有る所以の者は、皆孟子を善く読まざるの過ちなり。荀子は専ら教を主とすることを知りて、以為へらく人教へざれば則ち善ならずと。故に性悪を説く。善く教を受くる者は性の善なるを以てなることを知らず。楊子は両端を疑信して、一に帰すること能はず。故に善悪混ずと把る。韓子は以為へらく孟子は其の上を得、荀・揚は各其の中・下を得と。衆説を調停せんと欲して、目して品題を下す。故に性に三品有りと曰ふ。此れ等は皆俗見のみ。程・張二先生に至つて、又本然・気質の論を立て、以為へらく孔子は気質の性を説き、孟子は本然の性を説くと。而して蘇氏・胡氏は又以為へらく性は本善悪の言ふべき無し、孟子之を善と謂ふは讃歎の辞なりと。此れも亦禅説より来る。凡そ此れ等の説は、皆徒に孟子の本旨を知らざるのみに非ず、実に孟子の文義を理会すること能はざる者なり。怪しむべし怪しむべし。
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孟子・告子章句上公都子曰く、「告子曰く、『性は善も無く不善も無きなり。』或ひと曰く、『性は以て善を為す可く、以て不善を為す可し。是の故に文武興れば、則ち民善を好み、幽厲興れば、則ち民暴を好む。』或ひと曰く、『性善なる有り、性不善なる有り。是の故に堯を以て君と為して、象有り、瞽瞍を以て父と為して舜有り。紂を以て兄の子と為し、且つ以て君と為して、微子啓・王子比干有り。』今、性は善なりと曰う。然らば則ち彼は皆非なるか。」孟子曰く、「乃ち其の情に若えば、則ち以て善を為す可し。乃ち所謂善なり。夫の不善を為すが若きは、才の罪に非ざるなり。惻隱の心は、人皆之れ有り。羞惡の心は、人皆之れ有り。恭敬の心は、人皆之れ有り。是非の心は、人皆之れ有り。惻隱の心は、仁なり。羞惡の心は、義なり。恭敬の心は、禮なり。是非の心は、智なり。仁義禮智は、外由り我を鑠(シャク)するに非ざるなり。我之を固有するなり。思わざるのみ。故に曰く、『求むれば則ち之を得、舍つれば則ち之を失う。』或いは相倍蓰して、算無き者は、其の才を盡くすこと能わざる者なり。詩に曰く、『天の蒸民を生ずる、物有れば則有り。民は夷を秉(とる)る、是の懿德を好む。』孔子曰く、『此の詩を為る者は、其れ道を知れるか。』故に物有れば必ず則有り。民は夷を秉る、故に是の懿德を好む。」
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『五常訓』巻之一・総論一孝弟、忠順、愛敬などは、皆仁義礼智の性より行ひ出せる道理にして、其理は五常の性の内にあり。性の条目にはあらず。人の性は唯仁なり。わかてば五常となる。一人たるもの、必五常の性を生れつきたれば、事物にふれて、必四端おこる。たとへば物の中にありて、其はしの少し外に見ゆるが如し。性は見えがたしといへども、外にあらはるる四端を以て、内に実に此性あることの証とすべし。孟子の、性は善也と説き給へるも、五常の性あればなり。人の性善なる故、人もし学問し、道を知りて行はば、堯舜の聖にもいたるべしとなり。この故に、程子曰く、孟子の万世に功有る者は、性善の一言なり。
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『童子問』卷上問ふ、論語は専ら教を言ひて、道其の中に在ることは、既に命を聞くことを獲たり。孟子は専ら道を言ひて、教其の中に在りとは、審らかならず、如何と。曰く、道とは何ぞ。仁義是れなり。孟子の書は、仁義を以て其の首脳と為す。七篇の中、一字として此の二字より紬繹し出で来たらざる者無し。其の性善の説を倡ふる者も、亦た徒らに其の理を発明するに非ず。人をして其の性の善なるを知りて、之を擴充せしめんと欲するなり。故に曰く、其の心を尽くす者は、其の性を知るなりと。又曰く、苟も之を充たさざれば、以て父母に事ふるに足らずと。又曰く、苟も其の養ひを得れば、物として長ぜざる無く、苟も其の養ひを失へば、物として消せざる無しと。此れ皆性の善恃むべからずして、擴充の功懈るべからざるを言ふなり。故に曰く、孟子は専ら道を言ひて、教其の中に在りと。人好学と号称すと雖も、然れども其の志を持し学に力め、勇往直前して、自暴自棄せざる者は、千百の一二のみ。故に性善の説は、仁義の己の固有為るを明らかにすと雖も、而も其の実は自暴自棄する者の為に之を発するなり。
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『五常訓』巻之一・総論是智の端なり。もし是非をわきまへずんば、智なきなり。此四端は、人となれる者は必あり。此四端あるを以て、仁義礼智内にあることを知るべし。又如何なる愚なる人も、親を愛し、君をたふとび、兄を敬ひ、弟をあはれみ、善をほめ、悪を悪まざる者なし。是仁義あればなり。飢寒する人を見ては、あはれむ心おこるは、仁あればなり。又小人といへども、我がいつはりあらはれ、不義を人に知らるれば、赤面し、汗をながす。是義あればなり。凡かやうの類、物にふれて、善心おこること多し。みづから心見て知るべし。皆是仁義礼智の四徳を生れつきたるにあらずや。ここを以て、孟子は、人の性は善なりとのたまふ。もし五常の徳なくんば、何ぞ性は善なりといはんや。
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