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童子問 / 卷中

問。以先儒何語最爲至極。曰。伊川復卦象傳曰。一陽動於下。乃天地生物之心也。先儒皆以靜爲見天地之心。葢不知動之端乃天地之心也。非知道者。孰能識之。又經說曰。動靜無端。陰陽無始。非知道者。孰能識之。二章總一意。實彖象以來之名言。在道理。當爲古今極至之道理。在議論。當爲古今極至之議論。至矣。後之論註者。皆失其意。其所謂非知道者。孰能識之者。斥釋迦老子莊列之徒而言。非對區區諸子諸儒而辨之。又賁卦象傳云。一不獨立。二則有文。葢言一非一。而二中自有一也。與周子所謂五行一陰陽。陰陽一太極者。大異矣。又曰。非知道者。孰能識之。其自珍重之如此。雖尊信程子者。亦不實知其意之所在。程子平生不說太極。而以動靜無始。陰陽無端。爲至極。其見可謂卓越矣。但易傳序中。體用一源。顯微無間。及艮卦外物不接內欲不萠等語。不能無疑。然猶美玉之有瑕。雖應以此減價。而不害其爲眞玉。瑕不揜瑜。瑜不揜瑕。可以爲程子也。

新字:問。以先儒何語最為至極。曰。伊川復卦象伝曰。一陽動於下。乃天地生物之心也。先儒皆以静為見天地之心。葢不知動之端乃天地之心也。非知道者。孰能識之。又経説曰。動静無端。陰陽無始。非知道者。孰能識之。二章総一意。実彖象以来之名言。在道理。当為古今極至之道理。在議論。当為古今極至之議論。至矣。後之論註者。皆失其意。其所謂非知道者。孰能識之者。斥釈迦老子荘列之徒而言。非対区区諸子諸儒而弁之。又賁卦象伝云。一不独立。二則有文。葢言一非一。而二中自有一也。与周子所謂五行一陰陽。陰陽一太極者。大異矣。又曰。非知道者。孰能識之。其自珍重之如此。雖尊信程子者。亦不実知其意之所在。程子平生不説太極。而以動静無始。陰陽無端。為至極。其見可謂卓越矣。但易伝序中。体用一源。顕微無間。及艮卦外物不接内欲不萠等語。不能無疑。然猶美玉之有瑕。雖応以此減価。而不害其為真玉。瑕不揜瑜。瑜不揜瑕。可以為程子也。

書き下し

問ふ、先儒の何れの語を以て最も至極と為す。曰く、伊川の復卦の象伝に曰く、一陽下に動くは、乃ち天地物を生ずるの心なり。先儒皆静を以て天地の心を見ると為す。蓋し動の端乃ち天地の心なることを知らざるなり。道を知る者に非ずんば、孰か能く之を識らんと。又経説に曰く、動静端無く、陰陽始め無し。道を知る者に非ずんば、孰か能く之を識らんと。二章総べて一意なり。実に彖象以来の名言なり。道理に在りては、当に古今極至の道理為るべく、議論に在りては、当に古今極至の議論為るべし。至れり。後の論註する者、皆其の意を失ふ。其の所謂道を知る者に非ずんば孰か能く之を識らんとは、釈迦・老子・荘列の徒を斥して言ふ。区区たる諸子諸儒に対して之を弁ずるに非ず。又賁卦の象伝に云ふ、一は独立せず、二なれば則ち文有りと。蓋し一は一に非ずして、二の中に自ら一有ることを言ふなり。周子の所謂五行は一陰陽、陰陽は一太極なりといふ者と、大いに異なり。又曰く、道を知る者に非ずんば、孰か能く之を識らんと。其の自ら之を珍重すること此の如し。程子を尊信する者と雖も、亦実に其の意の在る所を知らず。程子平生太極を説かずして、動静始め無く、陰陽端無きを以て、至極と為す。其の見卓越せりと謂ふべし。但だ易伝序中の体用一源、顕微間無し、及び艮卦の外物接せず内欲萌さず等の語は、疑ひ無きこと能はず。然れども猶ほ美玉の瑕有るがごとし。応に此を以て価を減ずべしと雖も、其の真玉為るを害せず。瑕は瑜を揜はず、瑜は瑕を揜はず。以て程子と為すべきなり。

現代語訳

問う。先儒のどの言葉を最も至極とするか。答えていう。程伊川の復卦の伝に「一つの陽が下で動くのは、天地が物を生じる心である。先儒はみな静によって天地の心を見るとした。思うに、動の端緒こそが天地の心であることを知らなかったのである。道を知る者でなければ、誰がこれを知りえようか」とある。また『経説』に「動と静には端がなく、陰と陽には始めがない。道を知る者でなければ、誰がこれを知りえようか」とある。この二つの章は総じて一つの意である。まことに易の彖伝・象伝以来の名言である。道理としては古今の極みの道理であり、議論としては古今の極みの議論である。至れるものである。後にこれを論じ注釈した者は、みなその意を失っている。その「道を知る者でなければ誰が知りえようか」というのは、釈迦・老子・荘子・列子の徒を指して言ったのであって、こまごまとした諸子や諸儒に向けて弁じたのではない。また賁卦の伝に「一は独り立たず、二であれば文(あや)がある」とある。思うに、一は一ではなく、二の中におのずから一があることを言うのである。周子のいう「五行は一つの陰陽であり、陰陽は一つの太極である」というのとは、大いに異なる。さらに「道を知る者でなければ、誰がこれを知りえようか」と言っている。程子が自らこれを珍重したのはこのようであった。程子を尊信する者でさえ、本当にその意のあるところを知らない。程子は平生、太極を説かず、動静に始めなく陰陽に端なしということを至極とした。その見識は卓越していると言うべきである。ただ『易伝』の序にある「体と用は源を一つにし、顕と微のあいだに隔てがない」や、艮卦の「外の物に接せず、内の欲が萌さない」などの言葉には、疑いがないわけにはいかない。しかしそれは美しい玉に傷があるようなものである。これによって値打ちを減ずべきではあっても、本物の玉であることを損なうものではない。傷は玉の美しさを覆わず、玉の美しさは傷を覆わない。これをもって程子とすべきである。

解説

最も至極とする先儒の語を問われ、仁斎は程伊川の復卦の伝を挙げる。先儒が静に天地の心を見たのに対し、一陽が動く端こそ天地の心だとし、動静に端なく陰陽に始めなしと説いた語である。天地を活物と見る仁斎の思想と響き合うため、彖象以来の名言と最大級に称える。一方で「体用一源」や艮卦の語には疑いを残し、それを美玉の瑕にたとえて「瑕は瑜を揜はず、瑜は瑕を揜はず」と結ぶ。人や説を全面肯定も全面否定もせず、長所と短所を同時に見る公平さである。上司や同僚、他社の仕事を評価するときにも見習いたい態度である。

この章句が説くこと

動天地易程子活物公平

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