童子問 / 卷中
問。先生謂天地一大活物。不可以理字盡之。卽字義所謂有生而無死。有聚而無散。一乎生故也之理。曰然。凡天地間。皆一理耳。有動而無靜。有善而無惡。葢靜者動之止。惡者善之變。善者生之類。惡者死之類。非兩者相對而並生。皆一乎生故也。凡生者不能不動。惟死者而後見其眞靜也。其生也晝動而夜靜。然雖熟睡之中。不能無夢。及鼻息之呼吸。無晝夜之別。手足頭面。不覺自動搖。是皆其動處。字義所謂死者生之終。散者聚之盡。是也。驗之天地。亦益信然。日月星辰。東升西沒。晝夜旋轉。無一息停機。日月相推。而明生焉。寒暑相推。而歲成焉。天地日月。皆莫不乘斯氣而行。若走馬燈然。兵卒輿馬。隨火氣而往來驅逐。旋而不已也。流水之爲物也。亘晝夜而不舍。艸木之有生也。雖隆冬亦有花。皆爲有動而無靜也。有善而無惡。亦然。人之有是四端也。猶其身之有四體。天下皆然。然適有生而無耳目口鼻者。謂之不成人。以其不成人也。故曰。無惻隱羞惡辭讓是非之心者。非人也。所謂惡者善之變。非相對而並生。其理不亦彰然乎。故伏犧之目無死物。孟軻之目無不善之人。非知道者。孰能識之
新字:問。先生謂天地一大活物。不可以理字尽之。即字義所謂有生而無死。有聚而無散。一乎生故也之理。曰然。凡天地間。皆一理耳。有動而無静。有善而無悪。葢静者動之止。悪者善之変。善者生之類。悪者死之類。非両者相対而並生。皆一乎生故也。凡生者不能不動。惟死者而後見其真静也。其生也昼動而夜静。然雖熟睡之中。不能無夢。及鼻息之呼吸。無昼夜之別。手足頭面。不覚自動揺。是皆其動処。字義所謂死者生之終。散者聚之尽。是也。験之天地。亦益信然。日月星辰。東升西没。昼夜旋転。無一息停機。日月相推。而明生焉。寒暑相推。而歳成焉。天地日月。皆莫不乗斯気而行。若走馬灯然。兵卒輿馬。随火気而往来駆逐。旋而不已也。流水之為物也。亘昼夜而不舎。艸木之有生也。雖隆冬亦有花。皆為有動而無静也。有善而無悪。亦然。人之有是四端也。猶其身之有四体。天下皆然。然適有生而無耳目口鼻者。謂之不成人。以其不成人也。故曰。無惻隠羞悪辞譲是非之心者。非人也。所謂悪者善之変。非相対而並生。其理不亦彰然乎。故伏犠之目無死物。孟軻之目無不善之人。非知道者。孰能識之
書き下し
問ふ、先生謂ふ、天地は一大活物、理の字を以て之を尽くすべからずと。即ち字義に所謂生有りて死無く、聚有りて散無し、生に一なるが故なりの理か。曰く、然り。凡そ天地の間は、皆一理のみ。動有りて静無く、善有りて悪無し。蓋し静は動の止、悪は善の変なり。善は生の類、悪は死の類なり。両者相対して並び生ずるに非ず。皆生に一なるが故なり。凡そ生ある者は動かざること能はず。惟だ死者にして後に其の真の静を見るなり。其の生くるや、昼は動きて夜は静かなり。然れども熟睡の中と雖も、夢無きこと能はず。鼻息の呼吸に及びては、昼夜の別無し。手足頭面、覚えずして自ら動揺す。是れ皆其の動く処なり。字義に所謂死は生の終はり、散は聚の尽くるなり、是れなり。之を天地に験すれば、亦益々信に然り。日月星辰、東に升り西に没し、昼夜旋転して、一息も機を停むること無し。日月相推して、明生じ、寒暑相推して、歳成る。天地日月、皆斯の気に乗じて行かざるは莫し。走馬灯の然るが若し。兵卒輿馬、火気に随ひて往来駆逐し、旋りて已まざるなり。流水の物為るや、昼夜に亘りて舎かず。艸木の生有るや、隆冬と雖も亦花有り。皆動有りて静無きが為なり。善有りて悪無きも、亦然り。人の是の四端有るや、猶ほ其の身の四体有るがごとし。天下皆然り。然れども適々生有りて耳目口鼻無き者は、之を不成人と謂ふ。其の成人ならざるを以てなり。故に曰く、惻隠羞悪辞譲是非の心無き者は、人に非ずと。所謂悪は善の変にして、相対して並び生ずるに非ず、其の理亦彰然たらずや。故に伏犠の目に死物無く、孟軻の目に不善の人無し。道を知る者に非ずんば、孰か能く之を識らん。
現代語訳
問う。先生は、天地は一つの大いなる生きもので、理の字で尽くすことはできないと言う。それはつまり『語孟字義』にいう「生があって死がなく、聚まることがあって散ることがない、生に一つだからである」という理か。答えていう。そうである。およそ天地の間は、みな一つの理にすぎない。動があって静はなく、善があって悪はない。思うに、静とは動が止まったもの、悪とは善が変じたものである。善は生の類、悪は死の類である。二つが向かい合って並んで生じるのではない。みな生に一つだからである。およそ生あるものは動かずにはいられない。ただ死者になって初めて本当の静が見られる。生きているときは昼に動き夜に静まる。しかし熟睡の中にあっても夢を見ないことはなく、鼻の呼吸に至っては昼夜の別がない。手足や頭や顔も、知らず知らず自ら動いている。これらはみな動いているところである。『字義』にいう「死は生の終わり、散は聚の尽きたもの」がこれである。これを天地に照らしてみると、いよいよまことにそうである。日月星辰は東から昇って西に沈み、昼夜めぐって一息も働きを止めることがない。日と月が推し移って明るさが生じ、寒さと暑さが推し移って一年が成る。天地も日月も、みなこの気に乗って運行しないものはない。走馬灯のようなもので、兵士や車馬の影が火の気に従って行き来し駆けまわり、めぐってやまないのである。流れる水は昼も夜も止まらず、草木の生命は真冬にもなお花を咲かせる。みな動があって静がないからである。善があって悪がないのもまた同じである。人に四端があるのは、体に四肢があるようなもので、天下みなそうである。しかしたまたま生まれながら耳目口鼻のない者は、まともな人に成っていないという。その成らなかったことによるのである。だから孟子は「惻隠・羞悪・辞譲・是非の心のない者は人ではない」と言った。いわゆる悪は善の変じたもので、向かい合って並んで生じるのではないという理は、なんと明らかではないか。だから伏羲の目には死んだ物がなく、孟子の目には不善の人がいない。道を知る者でなければ、誰がこれを知りえようか。
解説
この章句が説くこと
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『童子問』卷中問ふ、理を以て学問の本原と為せば、則ち自ら異端に流入す。其の旨如何。曰く、是れ爾の知る所に非ざるなり。学問は其の本づく所の者如何を視るのみ。本づく所少しく差へば、邪正相反す。聖人は天地を以て活物と為し、異端は天地を以て死物と為す。此の処一たび差へば、千里の繆りなり。蓋し天の活物為る所以の者は、其の一元の気有るを以てなり。一元の気は、猶ほ人の元陽有るがごとし。飲食言語、視聴動作、終身息むこと無きは、正に其の元陽有るが為なり。若し元陽一たび絶ゆれば、忽ち異物と為りて、木石と異なること無し。唯だ天地は一大活物、物を生じて物に生ぜられず、悠久無窮にして、人物の生死有るに比せざるなり。夫れ太虚無くんば、則ち已む。太虚有れば、則ち斯の気無きこと能はず。斯の気や、既に生ずる所無く、亦生ぜざる所無し。万古独立し、攧撲すれども破れず。豈に虚無を以て之を目することを容れんや。故に曰く、大いなるかな乾元、万物資りて始む、乃ち天を統ぶ。至れるかな坤元、万物資りて生ず、乃ち順ひて天を承くと。聖人の天を論ずる、此に至りて極まる。此より以上、更に一層の理を説かず。漢儒太極を以て一元気と為すは、是なり。此れ是れ千古不伝の秘、大易の天機を露洩する者なり。明らかに之を言はんと欲すれば、則ち義解に落つ。言はざらんと欲すれば、則ち亦惜しむべし。子意を以て之を逆へて、可なり。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段万物生生して古今違はず。其生々を継物を善と云。分ていはゞ、天は形なふして心の如し、地は形有て物の如し。其生々する所は活物の如し、無心なる所は死物の如し。天地は、死活の二を兼たる物なり。死活の二を兼すぶるゆへに、万物の体となる。其物を暫く名づけて、理とも性とも善とも云。然るに私意を用ゆる者は、天地は活物なりと、一方を知て、死活を摂て、一理なることを知らず。因て害をなすこと甚し。是故に、孔子、異端を攻むるは斯れ害あるのみとの玉ふことなり。天地を、人の上にていはゞ、心は虚にして天なり、形はふさがつて地なり、呼吸は陰陽なり、これを継者は善なり、用を為所を主る体は性なり。是を以て見よ、人は全体一箇の小天地なり。我も一箇の天地と知らば、何に不足の有べきや。告子は是を知らず、生滅にあづかる思慮を以て、我性と思。思ふ所は性に非ず。いかんとなれば、思慮なき天理に異るゆへなり。此味ひを知らざる者は、天道に合はざるゆへに異端と云。渾然たる一理の性に至れる孟子には異る所なり。
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『童子問』卷中問ふ、理の字何の故に生生化化の原と為すに足らざるか。曰く、理は本死字なり。物に在りて物を宰すること能はず。生物に在りては生物の理有り、死物には死物の理有り。人には則ち人の理有り、物には則ち物の理有り。然れども一元の気之が本と為りて、理は則ち気の後に在り。故に理は以て万化の枢紐と為すに足らざるなり。万物は五行に本づき、五行は陰陽に本づく。再び推して陰陽の然る所以に至れば、則ち之を理に帰せざること能はず。既に理に帰すれば、則ち自ら虚無に陥らざること能はず。所謂万法一に帰す、一何れの所にか帰す、是れなり。此れ常識の必ず此に至る所以にして、聖人と自ら相違ふなり。惟だ聖人のみ能く天地の一大活物にして、理の字を以て之を尽くすべからざることを識る。故に彖に之を賛して曰く、大いなるかな乾元、至れるかな坤元と。至れり尽くせり。若し天地の真に活物なることを知らば、汝に許す、即身即ち伏犠なることを。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段答、是汝が得ざるの所なり。先告子が善不善無しと云は、是思慮なり。如何となれば、我性と云者を尋見れども、善とも不善とも分れず、然れば善も不善も無者なりと、思慮を以て見たる所なり。孟子の性善は直に天地なり。如何となれば、人の寝入たる時にても、無心にして動くは呼吸の息なり。其呼吸は我息には非ず。天地の陰陽が我体に出入し、形の動くは、天地浩然の気なり。我と天地と、渾然たる一物なりと貫通する所より、人の性は善なりと説玉ふ。自然にして易に合へり。扠此所は、前後ともに聞分がたき所なり。黙して工夫せらるべし。易は、天地の上にて説玉へば、凡て無心の所なり。其無心の陰陽が、一たび動き、一たび静なり。是を継者が、
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段孔子の易の性善も天なり。天地と人と別々といはゞ、汝口と鼻とを塞、活て見よ。天地の陰陽を受ずして活られなば、孟子は非なり。死すべしといはゞ、孟子は是にして、天地の性善と一致なること決せり。是端的の証なり。其継物を知らざるによつて迷ふなり。其迷よりして、告子が説を、実尤と請合なり。告子がいへる如く、性に何ぞ善不善あらんやといはゞ、人挙て是に寄べきが、退て工夫すべき所なり。善不善なしと思ふ一念は、毫釐の差なれども、遂る所にては、千里の謬となる。聖人の道は天地のみ。天地は見へたる通に、清と濁と有て、天は清り地は濁れり。清る天も濁れる地も、何方を見ればとて、物を生じ育ふべきとも見へず。無心なれども、
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『童子問』卷中問ふ、先生易の乾卦の亨の字を釈して曰く、通有りて塞無しと。亦生有りて死無く、動有りて静無きの意か。曰く、然り。天地の間、物各々足らざるの理無し。通有りて塞無きが為なり。日は昼に煜き、月は夜に煜き、水は流れて已まず、物は生じて窮まらず。人の一身の若き、耳有りて以て万物の声を受け、目以て万物の色を弁じ、鼻以て万物の臭ひを嗅ぎ、口以て万物の味を知る。其の飲食に於ける、歯舌以て之を噬嗑し、咽喉以て之を呑嚥し、三焦以て之を通じ、膀胱以て之を瀉す。惟だ人のみ然りと為すに非ず、物も亦然り。凡そ跂行喙息、翾飛蠕動の微も、皆各々其の用有り、用各々相足る。彼に失へば則ち此に得、此に失へば則ち彼に得て、物に在りて各々足らざるの患ひ無し。造化の工、亦何ぞ巧みなるかな。通有りて塞無きが為なり。易に曰く、品物形を流くと。是れなり。流は即ち流通の意なり。
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