童子問 / 卷中
問。以理爲學問之本原。則自流入于異端。其旨如何。曰。是非爾所知也。學問視其所本者如何耳。所本少差。邪正相反。聖人以天地爲活物。異端以天地爲死物。此處一差。千里之繆。葢天之所以爲活物者。以其有一元之氣也。一元之氣。猶人之有元陽。飮食言語。視聽動作。終身無息。正爲其有元陽也。若元陽一絕。忽爲異物。與木石無異。唯天地一大活物。生物而不生於物。悠久無窮。不比人物之有生死也。夫無太虛。則已。有太虛。則不能無斯氣。斯氣也。既無所生。亦無所不生。萬古獨立。攧撲不破。豈容以虛無目之邪。故曰。大哉乾元。萬物資始。乃統天。至哉坤元。萬物資生。乃順承天。聖人之論天。至此而極。從此以上。更不說一層之理。漢儒以太極爲一元氣。是也。此是千古不傳之祕。大易之露洩天機者也。欲明言之。則落于義解。欲不言。則亦可惜。子以意逆之。可矣。
新字:問。以理為学問之本原。則自流入于異端。其旨如何。曰。是非爾所知也。学問視其所本者如何耳。所本少差。邪正相反。聖人以天地為活物。異端以天地為死物。此処一差。千里之繆。葢天之所以為活物者。以其有一元之気也。一元之気。猶人之有元陽。飲食言語。視聴動作。終身無息。正為其有元陽也。若元陽一絶。忽為異物。与木石無異。唯天地一大活物。生物而不生於物。悠久無窮。不比人物之有生死也。夫無太虚。則已。有太虚。則不能無斯気。斯気也。既無所生。亦無所不生。万古独立。攧撲不破。豈容以虚無目之邪。故曰。大哉乾元。万物資始。乃統天。至哉坤元。万物資生。乃順承天。聖人之論天。至此而極。従此以上。更不説一層之理。漢儒以太極為一元気。是也。此是千古不伝之秘。大易之露洩天機者也。欲明言之。則落于義解。欲不言。則亦可惜。子以意逆之。可矣。
書き下し
問ふ、理を以て学問の本原と為せば、則ち自ら異端に流入す。其の旨如何。曰く、是れ爾の知る所に非ざるなり。学問は其の本づく所の者如何を視るのみ。本づく所少しく差へば、邪正相反す。聖人は天地を以て活物と為し、異端は天地を以て死物と為す。此の処一たび差へば、千里の繆りなり。蓋し天の活物為る所以の者は、其の一元の気有るを以てなり。一元の気は、猶ほ人の元陽有るがごとし。飲食言語、視聴動作、終身息むこと無きは、正に其の元陽有るが為なり。若し元陽一たび絶ゆれば、忽ち異物と為りて、木石と異なること無し。唯だ天地は一大活物、物を生じて物に生ぜられず、悠久無窮にして、人物の生死有るに比せざるなり。夫れ太虚無くんば、則ち已む。太虚有れば、則ち斯の気無きこと能はず。斯の気や、既に生ずる所無く、亦生ぜざる所無し。万古独立し、攧撲すれども破れず。豈に虚無を以て之を目することを容れんや。故に曰く、大いなるかな乾元、万物資りて始む、乃ち天を統ぶ。至れるかな坤元、万物資りて生ず、乃ち順ひて天を承くと。聖人の天を論ずる、此に至りて極まる。此より以上、更に一層の理を説かず。漢儒太極を以て一元気と為すは、是なり。此れ是れ千古不伝の秘、大易の天機を露洩する者なり。明らかに之を言はんと欲すれば、則ち義解に落つ。言はざらんと欲すれば、則ち亦惜しむべし。子意を以て之を逆へて、可なり。
現代語訳
問う。理を学問の本原とすると、おのずと異端に流れこむという。その趣旨はどういうことか。答えていう。これはあなたにはまだわからないことである。学問は、その拠って立つところがどうかを見るだけである。拠って立つところが少しでも違えば、邪と正が正反対になる。聖人は天地を生きたものと見、異端は天地を死んだものと見る。ここで一度違えば、千里の誤りとなる。思うに、天が生きたものである理由は、そこに一元の気があるからである。一元の気は、人に元陽(生命の根本の陽気)があるようなものである。飲食し語り、見聞きし動き、生涯やむことがないのは、まさに元陽があるからである。もし元陽がひとたび絶えれば、たちまち別の物となって、木や石と変わりがなくなる。ただ天地は一つの大いなる生きもので、物を生じて物に生じられることがなく、悠久にして窮まりなく、人や物に生死があるのとは比べられない。そもそも太虚(大空間)がなければそれまでである。太虚があれば、この気がないことはありえない。この気は、生じられたところもなく、また生じないものもない。万古に独り立ち、打ち叩いても破れない。どうして虚無とみなすことが許されようか。だから『易』に「大いなるかな乾元、万物はこれによって始まり、天を統べる。至れるかな坤元、万物はこれによって生まれ、従って天を承ける」と言う。聖人が天を論じたのはここで極まり、これより上にさらに一層の理を説かない。漢の儒者が太極を一元の気としたのは正しい。これこそ千古に伝わらなかった秘密であり、大いなる易が天の機微をあらわに漏らしたものである。はっきり言おうとすれば、ただの字義の解釈に落ちてしまう。言わずにおこうとすれば、それも惜しい。あなたは自分の心で推し量って受けとめればよい。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『童子問』卷中問ふ、理の字何の故に生生化化の原と為すに足らざるか。曰く、理は本死字なり。物に在りて物を宰すること能はず。生物に在りては生物の理有り、死物には死物の理有り。人には則ち人の理有り、物には則ち物の理有り。然れども一元の気之が本と為りて、理は則ち気の後に在り。故に理は以て万化の枢紐と為すに足らざるなり。万物は五行に本づき、五行は陰陽に本づく。再び推して陰陽の然る所以に至れば、則ち之を理に帰せざること能はず。既に理に帰すれば、則ち自ら虚無に陥らざること能はず。所謂万法一に帰す、一何れの所にか帰す、是れなり。此れ常識の必ず此に至る所以にして、聖人と自ら相違ふなり。惟だ聖人のみ能く天地の一大活物にして、理の字を以て之を尽くすべからざることを識る。故に彖に之を賛して曰く、大いなるかな乾元、至れるかな坤元と。至れり尽くせり。若し天地の真に活物なることを知らば、汝に許す、即身即ち伏犠なることを。
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『童子問』卷中問ふ、吾之を朱子に聞く。曰く、理に於て所以然と所当然との異有り。所以然とは、即ち所当然の本、而して所当然とは、便ち所以然の発なり。故に曰く、陰陽は自ら形よりして下の器なり、太極は自ら形よりして上の道なりと。今先生の説く所は、皆所当然の事にして、其の所以然の本に於ては、則ち未だ之に及ばず。用有りて体無し。恐らくは浅近に過ぐること無きを得んや。曰く、所謂所以然の理とは、人の人為る所以、物の物為る所以、陰陽の往来消長する所以の理を謂ふに非ずや。夫れ陰陽は固より道に非ず。一陰一陽往来して已まざる者、即ち是れ道なり。陰陽往来して、天道成る。剛柔相済して、地道成る。仁義相須ちて、人道成る。天の道は、陰陽に尽き、地の道は、剛柔に尽き、人の道は、仁義に尽く。故に易に曰く、一陰一陽、之を道と謂ふと。又曰く、大いなるかな乾元、万物資りて始む、乃ち天を統ぶ。至れるかな坤元、万物資りて生ず、乃ち順ひて天を承くと。古先聖人の天道を論ずる所以の者、此に至りて極まり、更に此の上面に於て復た一語を加へず。所謂太極と云ふ者も、亦此の一元気を斥して言ふのみ。若し此の上面に於て、其の所以然の理を求むれば、則ち是れ向に所謂無物の地に就きて物を求むるに非ずや。故に後世の所謂無極太極の理は、畢竟天地本無の理にして、聖人の言はざる所なり。之を袪けて可なり。
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『童子問』卷中問ふ、先生謂ふ、天地は一大活物、理の字を以て之を尽くすべからずと。即ち字義に所謂生有りて死無く、聚有りて散無し、生に一なるが故なりの理か。曰く、然り。凡そ天地の間は、皆一理のみ。動有りて静無く、善有りて悪無し。蓋し静は動の止、悪は善の変なり。善は生の類、悪は死の類なり。両者相対して並び生ずるに非ず。皆生に一なるが故なり。凡そ生ある者は動かざること能はず。惟だ死者にして後に其の真の静を見るなり。其の生くるや、昼は動きて夜は静かなり。然れども熟睡の中と雖も、夢無きこと能はず。鼻息の呼吸に及びては、昼夜の別無し。手足頭面、覚えずして自ら動揺す。是れ皆其の動く処なり。字義に所謂死は生の終はり、散は聚の尽くるなり、是れなり。之を天地に験すれば、亦益々信に然り。日月星辰、東に升り西に没し、昼夜旋転して、一息も機を停むること無し。日月相推して、明生じ、寒暑相推して、歳成る。天地日月、皆斯の気に乗じて行かざるは莫し。走馬灯の然るが若し。兵卒輿馬、火気に随ひて往来駆逐し、旋りて已まざるなり。流水の物為るや、昼夜に亘りて舎かず。艸木の生有るや、隆冬と雖も亦花有り。皆動有りて静無きが為なり。善有りて悪無きも、亦然り。人の是の四端有るや、猶ほ其の身の四体有るがごとし。天下皆然り。然れども適々生有りて耳目口鼻無き者は、之を不成人と謂ふ。其の成人ならざるを以てなり。故に曰く、惻隠羞悪辞譲是非の心無き者は、人に非ずと。所謂悪は善の変にして、相対して並び生ずるに非ず、其の理亦彰然たらずや。故に伏犠の目に死物無く、孟軻の目に不善の人無し。道を知る者に非ずんば、孰か能く之を識らん。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段万物生生して古今違はず。其生々を継物を善と云。分ていはゞ、天は形なふして心の如し、地は形有て物の如し。其生々する所は活物の如し、無心なる所は死物の如し。天地は、死活の二を兼たる物なり。死活の二を兼すぶるゆへに、万物の体となる。其物を暫く名づけて、理とも性とも善とも云。然るに私意を用ゆる者は、天地は活物なりと、一方を知て、死活を摂て、一理なることを知らず。因て害をなすこと甚し。是故に、孔子、異端を攻むるは斯れ害あるのみとの玉ふことなり。天地を、人の上にていはゞ、心は虚にして天なり、形はふさがつて地なり、呼吸は陰陽なり、これを継者は善なり、用を為所を主る体は性なり。是を以て見よ、人は全体一箇の小天地なり。我も一箇の天地と知らば、何に不足の有べきや。告子は是を知らず、生滅にあづかる思慮を以て、我性と思。思ふ所は性に非ず。いかんとなれば、思慮なき天理に異るゆへなり。此味ひを知らざる者は、天道に合はざるゆへに異端と云。渾然たる一理の性に至れる孟子には異る所なり。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段曰く、是も分がたし。答、其口と鼻との息は、直に天地の陰陽なり。天地に吐て天地に吸、其吸と吐とを、暫くも止め置れ候や。曰く、止ること能はず。答、呼吸は天地の陰陽にして、汝が息には非ず。因て汝も、天地の陰陽と一致にならざれば、忽に死するなり。陰陽の外に、汝が命なきこと明白なり。吸息は陰なり、吐息は陽なり。之を継ぐ者は善なり。身の動も静なるも、天地の陰陽なり。易と何ぞ替ことあらん。孔子は、天地を以て、道の体を説明し玉ふ。孟子は、人を以て道の体を説明し玉ふ。天人一なれば、道も亦一なり。周子曰く、五行は一陰陽なり、陰陽は一太極なり、太極は本無極なりと。此無極を一とやいはん二とやいはん。己に実知せずば、何を以て道を説ん。
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『童子問』卷中問ふ、先儒の何れの語を以て最も至極と為す。曰く、伊川の復卦の象伝に曰く、一陽下に動くは、乃ち天地物を生ずるの心なり。先儒皆静を以て天地の心を見ると為す。蓋し動の端乃ち天地の心なることを知らざるなり。道を知る者に非ずんば、孰か能く之を識らんと。又経説に曰く、動静端無く、陰陽始め無し。道を知る者に非ずんば、孰か能く之を識らんと。二章総べて一意なり。実に彖象以来の名言なり。道理に在りては、当に古今極至の道理為るべく、議論に在りては、当に古今極至の議論為るべし。至れり。後の論註する者、皆其の意を失ふ。其の所謂道を知る者に非ずんば孰か能く之を識らんとは、釈迦・老子・荘列の徒を斥して言ふ。区区たる諸子諸儒に対して之を弁ずるに非ず。又賁卦の象伝に云ふ、一は独立せず、二なれば則ち文有りと。蓋し一は一に非ずして、二の中に自ら一有ることを言ふなり。周子の所謂五行は一陰陽、陰陽は一太極なりといふ者と、大いに異なり。又曰く、道を知る者に非ずんば、孰か能く之を識らんと。其の自ら之を珍重すること此の如し。程子を尊信する者と雖も、亦実に其の意の在る所を知らず。程子平生太極を説かずして、動静始め無く、陰陽端無きを以て、至極と為す。其の見卓越せりと謂ふべし。但だ易伝序中の体用一源、顕微間無し、及び艮卦の外物接せず内欲萌さず等の語は、疑ひ無きこと能はず。然れども猶ほ美玉の瑕有るがごとし。応に此を以て価を減ずべしと雖も、其の真玉為るを害せず。瑕は瑜を揜はず、瑜は瑕を揜はず。以て程子と為すべきなり。
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