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童子問 / 卷中

且刑有罪者。理之常也。亦奚足恤。然聖人三赦三宥。惟刑之恤者。豈非過爲姑息哉。善善而惡惡。亦理之常也。然聖人善善毎長。惡惡毎短者。亦豈非愛憎失宜耶。然聖人皆不然者。足見不可依理字以斷天下之事也。故凡事專依理斷決。則殘忍刻薄之心勝。而寬裕仁厚之心寡。上德非薄。而下必傷損。人亦不心服。須有長者氣象方可。隱惡而揚善。成人之美。而不成人之惡。躬自厚。而薄責人。是皆長者氣象。唯仁者能之。非區區小儒之所能及也。予觀通鑑纂要等書。其評隲人物。善善惡惡。不一毫假借。可謂嚴矣。然斷決深刻。古今無全人。殆有申韓刑名之氣象。而無聖人涵容之意味。持己甚堅。責人甚深。浸淫于肺腑。透浹于骨髓。卒爲刻薄之流。專主張理字之弊。一至於此。悲哉。夫無裨於世道。無補於生民者。聖人不爲。今講理學者。或論至六合之外。暨近世講天學者。好說無限道理。雖窮微極妙。然皆無裨於世道。無補于生民。聖人之所不取也。孟子曰。楊墨之道不息。孔子之道不著。予所以呶呶然如此其不已者。實恐孔子之道不著也。非好辯也。君子諒諸。

新字:且刑有罪者。理之常也。亦奚足恤。然聖人三赦三宥。惟刑之恤者。豈非過為姑息哉。善善而悪悪。亦理之常也。然聖人善善毎長。悪悪毎短者。亦豈非愛憎失宜耶。然聖人皆不然者。足見不可依理字以断天下之事也。故凡事専依理断決。則残忍刻薄之心勝。而寛裕仁厚之心寡。上徳非薄。而下必傷損。人亦不心服。須有長者気象方可。隠悪而揚善。成人之美。而不成人之悪。躬自厚。而薄責人。是皆長者気象。唯仁者能之。非区区小儒之所能及也。予観通鑑纂要等書。其評隲人物。善善悪悪。不一毫仮借。可謂厳矣。然断決深刻。古今無全人。殆有申韓刑名之気象。而無聖人涵容之意味。持己甚堅。責人甚深。浸淫于肺腑。透浹于骨髄。卒為刻薄之流。専主張理字之弊。一至於此。悲哉。夫無裨於世道。無補於生民者。聖人不為。今講理学者。或論至六合之外。暨近世講天学者。好説無限道理。雖窮微極妙。然皆無裨於世道。無補于生民。聖人之所不取也。孟子曰。楊墨之道不息。孔子之道不著。予所以呶呶然如此其不已者。実恐孔子之道不著也。非好弁也。君子諒諸。

書き下し

且つ罪有る者を刑するは、理の常なり。亦奚ぞ恤むに足らん。然れども聖人三たび赦し三たび宥め、惟れ刑を之れ恤むは、豈に過ぎて姑息を為すに非ずや。善を善とし悪を悪とするも、亦理の常なり。然れども聖人善を善とすること毎に長く、悪を悪とすること毎に短きは、亦豈に愛憎宜しきを失ふに非ずや。然れども聖人皆然らざるは、理の字に依りて以て天下の事を断ずべからざるを見るに足るなり。故に凡そ事専ら理に依りて断決すれば、則ち残忍刻薄の心勝ちて、寛裕仁厚の心寡なし。上徳に非ず薄くして、下必ず傷損す。人も亦心服せず。須らく長者の気象有りて方に可なるべし。悪を隠して善を揚げ、人の美を成して、人の悪を成さず。躬自ら厚くして、薄く人を責む。是れ皆長者の気象なり。唯だ仁者のみ之を能くす。区区たる小儒の能く及ぶ所に非ざるなり。予通鑑纂要等の書を観るに、其の人物を評隲する、善を善とし悪を悪とし、一毫も仮借せず。厳なりと謂ふべし。然れども断決深刻にして、古今に全人無し。殆ど申韓刑名の気象有りて、聖人涵容の意味無し。己を持すること甚だ堅く、人を責むること甚だ深く、肺腑に浸淫し、骨髄に透浹して、卒に刻薄の流と為る。専ら理の字を主張するの弊、一に此に至る。悲しいかな。夫れ世道に裨無く、生民に補無き者は、聖人為さず。今理学を講ずる者、或いは論じて六合の外に至り、近世天学を講ずる者に暨んでは、好んで無限の道理を説く。微を窮め妙を極むと雖も、然れども皆世道に裨無く、生民に補無し。聖人の取らざる所なり。孟子曰く、楊墨の道息まざれば、孔子の道著れずと。予が呶呶然として此の如く其れ已まざる所以の者は、実に孔子の道の著れざることを恐るればなり。弁を好むに非ざるなり。君子諸を諒とせよ。

現代語訳

さらに、罪ある者を罰するのは理の常である。どうして気の毒がるに足りよう。それなのに聖人が三度赦し三度ゆるめ、刑罰をひたすら慎んだのは、度を越して甘やかしたということにならないか。善を善とし悪を悪とするのもまた理の常である。それなのに聖人が、善を善とするときはいつも長く、悪を悪とするときはいつも短かったのは、愛憎の加減を誤ったということにならないか。ところが聖人がみなそうしなかったのは、理の字に依って天下の事を断じてはならないことを示すに足りる。だから、およそ物事をもっぱら理に依って断じ決めれば、残忍で薄情な心がまさり、寛く豊かで情け深い心は少なくなる。上は徳を失って薄くなり、下は必ず傷つけられる。人も心から服しはしない。長者の気風があってこそよいのである。人の悪を隠して善を揚げ、人の美点を成し遂げさせて悪を成させず、自分を責めることは厚く人を責めることは薄くする。これがみな長者の気風である。ただ仁者だけがこれをよくできるのであって、こせこせした小儒の及ぶところではない。私は『通鑑纂要』などの書物を見たが、人物を評定するのに、善は善、悪は悪として、少しも手加減しない。厳格と言うべきである。しかし断定が深く苛酷で、古今に完全な人など一人もいなくなる。ほとんど申不害・韓非の刑名家の気風があって、聖人の包みこむ寛さの味わいがない。自分の見解を固く守り、人を深く責め、それが肺腑に染みこみ骨髄にまでしみとおって、ついには薄情な者の仲間となる。もっぱら理の字を主張することの弊害は、ここまで至るのである。悲しいことだ。そもそも世の道に役立たず、民の暮らしの助けにならないものを、聖人はなさない。今、理学を講じる者は、ときに論じて天地四方の外にまで及び、近ごろ天学を講じる者に至っては、好んで限りのない道理を説く。微を窮め妙を極めても、みな世の道に役立たず、民の暮らしの助けにならない。聖人の取らないところである。孟子は「楊朱・墨翟の道がやまなければ、孔子の道は明らかにならない」と言った。私がこのようにくどくどと言ってやまないのは、まことに孔子の道が明らかにならないことを恐れるからである。議論を好むからではない。君子よ、このことを察してほしい。

解説

後半では、理の字で事を断じることの弊害が具体的に語られる。罪を罰し悪を悪とするのは理の常だが、聖人は三赦三宥し、善を称えるに長く悪を責めるに短かった。理だけで断じれば残忍刻薄の心がまさり、人は心服しない。だから人の悪を隠して善を揚げ、自らに厚く人に薄い長者の気象が要るという。人物を容赦なく裁く史書の評を申韓の刑名家に近いと評し、世道と生民に役立たない議論を退ける。正論で部下や同僚を裁きたくなるときこそ、寛く包みこむ長者の気象を思い出したい一節である。

この章句が説くこと

理仁寛容長者刻薄朱子学批判

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