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童子問 / 卷中

問。上達之時。畢竟如何。曰。中庸曰。素富貴行乎富貴。素貧賤行乎貧賤。素夷狄行乎夷狄。素患難行乎患難。君子無人而不自得焉。此是上達之功驗。葢學者之進道。其初學問與日用扞格齟齬。不能相入。及乎眞積力久。自有所得。則向視之以爲遠者。今始得近。向視之以爲難者。今始得易。漸次近前。非學問不樂。非學問不言。及乎其愈熟。殆如布帛菽粟不可須臾離焉。至於子女臧獲之賤。米鹽柴薪之細。大凡接乎耳目。施乎日用者。總是莫非道。俗外無道。道外無俗。而雖一點俗氣。亦著不得。此是上達光景。

新字:問。上達之時。畢竟如何。曰。中庸曰。素富貴行乎富貴。素貧賤行乎貧賤。素夷狄行乎夷狄。素患難行乎患難。君子無人而不自得焉。此是上達之功験。葢学者之進道。其初学問与日用扞格齟齬。不能相入。及乎真積力久。自有所得。則向視之以為遠者。今始得近。向視之以為難者。今始得易。漸次近前。非学問不楽。非学問不言。及乎其愈熟。殆如布帛菽粟不可須臾離焉。至於子女臧獲之賤。米塩柴薪之細。大凡接乎耳目。施乎日用者。総是莫非道。俗外無道。道外無俗。而雖一点俗気。亦著不得。此是上達光景。

書き下し

問ふ、上達の時、畢竟如何。曰く、中庸に曰く、富貴に素しては富貴に行ひ、貧賤に素しては貧賤に行ひ、夷狄に素しては夷狄に行ひ、患難に素しては患難に行ふ。君子入るとして自得せざる無しと。此れ是れ上達の功験なり。蓋し学者の道に進むや、其の初め学問と日用と扞格齟齬して、相入ること能はず。真積力久しくして、自ら得る所有るに及べば、則ち向に之を視て以て遠しと為せし者、今始めて近きを得、向に之を視て以て難しと為せし者、今始めて易きを得。漸次に近前し、学問に非ざれば楽しまず、学問に非ざれば言はず。其の愈々熟するに及べば、殆ど布帛菽粟の須臾も離るべからざるが如し。子女臧獲の賤、米塩柴薪の細に至るまで、大凡耳目に接し、日用に施す者、総べて是れ道に非ざる莫し。俗の外に道無く、道の外に俗無し。而して一点の俗気と雖も、亦著け得ず。此れ是れ上達の光景なり。

現代語訳

問う。上達したときとは、結局どのようなものか。答えていう。『中庸』に「富貴の境遇にあっては富貴なりに行い、貧賤の境遇にあっては貧賤なりに行い、夷狄の地にあっては夷狄なりに行い、患難にあっては患難なりに行う。君子はどこに入っても自ら満ち足りないことがない」とある。これこそ上達の効験である。思うに、学ぶ者が道に進むとき、初めは学問と日常とがかみ合わずに食い違い、互いに入り込むことができない。誠実な積み重ねと努力が久しく続いて、自ら得るところがあるようになると、以前は遠いと見えたものが今は近くなり、以前は難しいと見えたものが今は易しくなる。だんだん近づいていき、学問でなければ楽しまず、学問でなければ語らなくなる。いよいよ熟してくると、まるで布や絹、豆や穀物のように、片時も離れられないものとなる。子どもや下僕といった身分の低い者、米や塩、薪といった細かなものに至るまで、およそ耳目に触れ、日常に用いるものは、すべて道でないものはない。俗の外に道はなく、道の外に俗はない。それでいて一点の俗気も、また付けることができない。これこそ上達の光景である。

解説

上達した境地とはどのようなものかを、仁斎は具体的に描く。初めは学問と日常が食い違ってかみ合わないが、積み重ねるうちに遠いものが近く、難しいものが易しくなり、ついには学問が衣食のように離れられないものになる。そのとき米や塩や薪といった日常の細事まで、すべてが道となる。「俗の外に道無く、道の外に俗無し」は、道を日用のうちに見る仁斎の思想の核心を示す言葉である。しかも俗に染まるわけではなく、一点の俗気もつかない。仕事の細かな雑事こそ道の現れだと受けとめられるとき、働くことそのものが学びになる。

この章句が説くこと

上達道日用学問中庸自得

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