童子問 / 卷中
問上達功夫。曰。功夫欲其密。議論欲其正。至奇極妙不如一當。學者當竢悟門自開。而勿自我開發之。眞積力久。怡然理順。渙然氷釋。謂之悟門自開。永爲己之有。而終身不失。葢實德之所到而非專事智見者之所得而及。正謂之實智。吾所謂上達者如此。不竢悟門之開。强自抽關啓鑰。等待促迫。謂之自我開發之。禪家所謂頓悟者。正如此。聰明强力。志氣超邁者。其卒必爲風癲佯狂之流。學之不可不謹。如此。予也固有與漢宋舊說異者。然皆積疑之至。融釋開明。自然得之。而一無思慮安排强探力索而得者也。嫌自我開發之也
新字:問上達功夫。曰。功夫欲其密。議論欲其正。至奇極妙不如一当。学者当竢悟門自開。而勿自我開発之。真積力久。怡然理順。渙然氷釈。謂之悟門自開。永為己之有。而終身不失。葢実徳之所到而非専事智見者之所得而及。正謂之実智。吾所謂上達者如此。不竢悟門之開。強自抽関啓鑰。等待促迫。謂之自我開発之。禅家所謂頓悟者。正如此。聰明強力。志気超邁者。其卒必為風癲佯狂之流。学之不可不謹。如此。予也固有与漢宋旧説異者。然皆積疑之至。融釈開明。自然得之。而一無思慮安排強探力索而得者也。嫌自我開発之也
書き下し
上達の功夫を問ふ。曰く、功夫は其の密なるを欲し、議論は其の正しきを欲す。至奇極妙も一当に如かず。学者は当に悟門の自ら開くを竢つべくして、自我より之を開発すること勿かれ。真積力久しくして、怡然として理順ひ、渙然として氷釈す。之を悟門自ら開くと謂ふ。永く己の有と為りて、終身失はず。蓋し実徳の到る所にして、専ら智見を事とする者の得て及ぶ所に非ず。正に之を実智と謂ふ。吾が所謂上達とは此の如し。悟門の開くを竢たずして、強ひて自ら関を抽き鑰を啓き、等待促迫す。之を自我より之を開発すと謂ふ。禅家の所謂頓悟とは、正に此の如し。聡明強力にして、志気超邁なる者は、其の卒必ず風癲佯狂の流と為る。学の謹まざるべからざること、此の如し。予や固より漢宋の旧説と異なる者有り。然れども皆疑ひを積むの至り、融釈開明して、自然に之を得たり。而して一も思慮安排、強探力索して得たる者無きなり。自我より之を開発するを嫌ふなり。
現代語訳
上達のための工夫を問うた。答えていう。工夫は綿密であることを求め、議論は正しいことを求める。どれほど奇抜で絶妙でも、一つの的確さには及ばない。学ぶ者は悟りの門が自ずから開くのを待つべきで、自分のほうから無理にこじ開けてはならない。誠実な積み重ねと努力が久しく続くと、すっと理がなじみ、さらりと氷が解けるように疑いが消える。これを悟りの門が自ずから開くという。それは永く自分のものとなり、生涯失われない。思うに実の徳が至ったところであって、ひたすら知恵や見識ばかりを事とする者が及べるものではない。まさにこれを実智という。私のいう上達とはこのようなものである。悟りの門が開くのを待たずに、無理に自分で閂を抜き錠を開け、待ちきれずに急き立てる。これを自分のほうからこじ開けるという。禅家のいう頓悟とは、まさにこれである。聡明で力強く、志気の飛び抜けた者は、最後には必ず狂気じみた者の類になる。学問を慎まなければならないことは、このとおりである。私はもとより漢や宋の古い説と異なるところがある。しかしそれはみな疑いを積み重ねた果てに、とけて明らかになり、自然に得たものであって、一つとして思案をめぐらし、無理に探り力ずくで求めて得たものはない。自分のほうからこじ開けるのを嫌うからである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『童子問』卷中禅家に頓悟の説有り、儒者に一旦豁然の論有り。聖人の学に於て、亦之れ有りやと問ふ。曰く、之れ無し。聖人の学は、実語を以て実理を明らかにす。目観て耳聞き、心得て身有す。故に践履の言ふべき有りて、頓悟の期すべき無し。禅者は空言を以て空理を説く。耳聞く所無く、目観る所無し。故に悟を用ひざることを得ず。蓋し実徳有りて、而る後に実見有り。猶ほ白日に物を視るがごとし。歴歴分明にして、既に疑ふ所無く、亦迷ふ所無し。人心に根ざし、風俗に存し、天地を包括して余り無く、古今を周羅して遺す無し。仁者は仁に安んじ、智者は仁を利とす。任重くして道遠し、死して後已む。何ぞ頓悟の期すべき有らん。宋儒は無声無臭の妙を以て、無極の真と為し、本心の体と為して、格物致知して以て之を領会せんことを要す。所以に亦一旦豁然の説有るなり。猶ほ無物の地に於て物を求むるがごとし。眼中見る所有るが如しと雖も、実は物無し。空見に非ずして何ぞ。水は吾其の淡きを知り、塩は吾其の鹹きを知る。然れども塩と水とを服せずして、其の鹹淡を知らんと欲するは、既に得べからず。況んや鹹淡を塩と水との外に求めんと欲するをや。吾其の以て鹹しと為し淡しと為す者は、乃ち其の虚見にして、真の鹹淡に非ざることを知るなり。夫れ道は仁義礼智に至りて極まり、教へは孝弟忠信に至りて尽く。而るに其の上面に於て、更に悟道を求むるは、奚ぞ鹹淡を塩と水との外に求むるに異ならんや。宜なるかな、其の頓悟豁然の説有るや。
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『童子問』卷中問ふ、上達の時、畢竟如何。曰く、中庸に曰く、富貴に素しては富貴に行ひ、貧賤に素しては貧賤に行ひ、夷狄に素しては夷狄に行ひ、患難に素しては患難に行ふ。君子入るとして自得せざる無しと。此れ是れ上達の功験なり。蓋し学者の道に進むや、其の初め学問と日用と扞格齟齬して、相入ること能はず。真積力久しくして、自ら得る所有るに及べば、則ち向に之を視て以て遠しと為せし者、今始めて近きを得、向に之を視て以て難しと為せし者、今始めて易きを得。漸次に近前し、学問に非ざれば楽しまず、学問に非ざれば言はず。其の愈々熟するに及べば、殆ど布帛菽粟の須臾も離るべからざるが如し。子女臧獲の賤、米塩柴薪の細に至るまで、大凡耳目に接し、日用に施す者、総べて是れ道に非ざる莫し。俗の外に道無く、道の外に俗無し。而して一点の俗気と雖も、亦著け得ず。此れ是れ上達の光景なり。
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伝習録・答顧東橋書来書に云う、「但だ恐る、説を立つること太(はなは)だ高く、功を用うること太だ捷(すみ)やかならんことを。後生の師傅、影響謬誤し、未だ仏氏の心を明らかにし性を見、定慧頓悟の機に墜つるを免れず。聞く者の疑いを見(あら)わすも怪しむ無し」と。区区たる格・致・誠・正の説は、是れ学者の本心・日用の事為の間に就く。体究践履し、実地に功を用う。是れ多少の次第、多少の積累か在る。正に空虚頓悟の説と相い反す。聞く者は本と聖人為らんことを求むるの志無く、又た未だ嘗て其の詳を講究せず。遂に以て疑いを見わすも、亦た怪しむに足る無し。吾子の高明の若きは、自ら当に一語の下に便ち瞭然たるべし。乃ち亦た「説を立つること太だ高く、功を用うること太だ捷やかなり」と謂う。何ぞや。
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『童子問』卷中下学上達の義を問ふ。曰く、下学は謙辞なり。猶ほ最下の学と曰ふがごとし。人倫平常の道を指して言ふ。程子の所謂下学は人事なり、是れなり。自ら向上の一路を求むる者と、正に相反す。上の字は当に上声と作して読むべし。上達は、漸次自ら進むの義なり。高遠の理を指して言ふに非ず。所謂君子は上達し小人は下達す、是れなり。下学は猶ほ平地の上に在りて行くがごとし。循循として止まざれば、則ち能く万里の遠きに到る。其の事甚だ近くして、其の功量るべからず。向上の一路を求むる者は、猶ほ平地の上を去りて空中に騰らんと欲するがごとし。墜ちて傷損せざる者、未だ之れ有らざるなり。此れ異端の、人倫を廃し日用を捨て、礼義を蔑して、万世常行の道と為すべからざる所以なり。
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伝習録・黄省曾録一友、「功夫、切ならず」を問う。先生曰く、「学問の功夫、我、已に曾て一句にて道い尽くせり。如何ぞ今日、転(うた)た説きて転た遠く、都て根に著かざるや」と。対えて曰く、「良知を致すは蓋し教えを聞けり。然れども亦た須らく講明すべし」と。先生曰く、「既に良知を致すを知らば、又た何ぞ講明すべけんや。良知は本と是れ明白なり。実落に功を用うれば便ち是なり。肯えて功を用いずして、只だ語言の上に在りて転た説きて転た糊塗す」と。曰く、「正に之を致すの功を講明せんことを求む」と。先生曰く、「此れも亦た須らく你、自家、求むべし。我も亦た別法の道うべき無し。昔、禅師有り。人、来たりて法を問えば、只だ塵尾を把りて提起す。一日、其の徒、其の塵尾を将って蔵し過ぎ、他が如何に法を設くるかを試む。禅師、塵尾を尋ねて見えず、又た只だ空手にて提起す。我の這個の良知は就ち是れ法を設くるの塵尾なり。這個を捨てなば、何の提げ得べき有らんや」と。少間、又た一友、功夫の切要を請い問う。先生、旁らを顧みて曰く、「我が塵尾、安くにか在る」と。一時、座に在る者、皆な躍然たり。
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『童子問』卷中問ふ。聖門の学は、王道を以て本と為すと承く。然れども受用の功夫に於て、頗る切緊ならざるに似たり。如何。曰く、切緊と切緊ならざるとを問ふこと莫れ。惟道に合ふと否とを看よ、如何と。其の功夫の切緊ならざる者は、固より云ふに足らず。然れども凡そ切緊と称する者は、必ず枉を矯めて直に過ぐるに至る。能く此の両者を免るるは、乃ち学問難中の難なり。然れども其の切緊ならざる者は、其の病却つて浅し。枉を矯めて直に過ぐるに至りては、則ち沈病痼疾、薬の医すべき無し。懼れざるべけんや。孟子曰く、心を養ふは、欲を寡くするより善きは莫し、と。此れ中庸の極なり。濂渓曰く、心を養ふは欲を寡くするに止まらず。之を寡くし又寡くして、以て無きに至れば、則ち誠立ち明通ず、と。之を孟子の言に較ぶれば、則ち都て切緊なるに似たり。然れども矯枉過直の病有ることを免れず。蓋し古人は礼義の二者を以て、万事の規矩縄尺と為すこと、家常茶飯のごとく然り。此を以て飲食し、此を以て被服し、出入起居、須臾も離るべからざるなり。書に曰く、礼を以て心を制し、義を以て事を制す、と。孔子曰く、義以て質と為す、と。孟子曰く、礼を以て心に存す、と。是れなり。夫れ苟も礼義を以て之を制すれば、則ち情と曰ひ欲と曰ふも、即ち是れ道為り、本悪むべきの物に非ず。若し礼義を以て之を制せずして、徒に功夫の切緊ならんことを欲すれば、則ち必ず情を滅し欲を無くするに至らずんば、則ち止まず。是れ近世理学諸家の自ら禅荘に流入せざること能はざる所以なり。子王道を以て切緊ならずと為すは、亦俗見なるのみ。
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