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童子問 / 卷中

問。承聖門之學。以王道爲本。然於受用功夫。頗似不切緊。如何。曰。莫問切緊與不切緊。惟看合道與否如何。其功夫不切緊者。固不足云。然凡稱切緊者。必至矯枉過直。能免此兩者。乃學問難中之難也。然其不切緊者。其病郤淺。至矯枉過直。則沈病痼疾。無藥可醫。可不懼乎。孟子曰。養心。莫善於寡欲。此中庸之極也。濂溪曰。養心不止於寡欲。寡之又寡。以至於無。則誠立明通。較之孟子之言。則似都切緊。然不免有矯枉過直之病。葢古人以禮義二者。爲萬事之規矩繩尺。如家常茶飯然。以此飮食。以此被服。出入起居。不可須臾離也。書曰。以禮制心。以義制事。孔子曰。義以爲質。孟子曰。以禮存心。是也。夫苟以禮義制之。則曰情曰欲。卽是爲道。本非可惡之物。若不以禮義制之。而徒欲功夫切緊。則必不至滅情無欲。則不止。是近世理學諸家所以不能不自流入于禪莊也。子以王道爲不切緊。亦俗見焉耳。

新字:問。承聖門之学。以王道為本。然於受用功夫。頗似不切緊。如何。曰。莫問切緊与不切緊。惟看合道与否如何。其功夫不切緊者。固不足云。然凡称切緊者。必至矯枉過直。能免此両者。乃学問難中之難也。然其不切緊者。其病郤浅。至矯枉過直。則沈病痼疾。無薬可医。可不懼乎。孟子曰。養心。莫善於寡欲。此中庸之極也。濂渓曰。養心不止於寡欲。寡之又寡。以至於無。則誠立明通。較之孟子之言。則似都切緊。然不免有矯枉過直之病。葢古人以礼義二者。為万事之規矩縄尺。如家常茶飯然。以此飲食。以此被服。出入起居。不可須臾離也。書曰。以礼制心。以義制事。孔子曰。義以為質。孟子曰。以礼存心。是也。夫苟以礼義制之。則曰情曰欲。即是為道。本非可悪之物。若不以礼義制之。而徒欲功夫切緊。則必不至滅情無欲。則不止。是近世理学諸家所以不能不自流入于禅荘也。子以王道為不切緊。亦俗見焉耳。

書き下し

問ふ。聖門の学は、王道を以て本と為すと承く。然れども受用の功夫に於て、頗る切緊ならざるに似たり。如何。曰く、切緊と切緊ならざるとを問ふこと莫れ。惟道に合ふと否とを看よ、如何と。其の功夫の切緊ならざる者は、固より云ふに足らず。然れども凡そ切緊と称する者は、必ず枉を矯めて直に過ぐるに至る。能く此の両者を免るるは、乃ち学問難中の難なり。然れども其の切緊ならざる者は、其の病却つて浅し。枉を矯めて直に過ぐるに至りては、則ち沈病痼疾、薬の医すべき無し。懼れざるべけんや。孟子曰く、心を養ふは、欲を寡くするより善きは莫し、と。此れ中庸の極なり。濂渓曰く、心を養ふは欲を寡くするに止まらず。之を寡くし又寡くして、以て無きに至れば、則ち誠立ち明通ず、と。之を孟子の言に較ぶれば、則ち都て切緊なるに似たり。然れども矯枉過直の病有ることを免れず。蓋し古人は礼義の二者を以て、万事の規矩縄尺と為すこと、家常茶飯のごとく然り。此を以て飲食し、此を以て被服し、出入起居、須臾も離るべからざるなり。書に曰く、礼を以て心を制し、義を以て事を制す、と。孔子曰く、義以て質と為す、と。孟子曰く、礼を以て心に存す、と。是れなり。夫れ苟も礼義を以て之を制すれば、則ち情と曰ひ欲と曰ふも、即ち是れ道為り、本悪むべきの物に非ず。若し礼義を以て之を制せずして、徒に功夫の切緊ならんことを欲すれば、則ち必ず情を滅し欲を無くするに至らずんば、則ち止まず。是れ近世理学諸家の自ら禅荘に流入せざること能はざる所以なり。子王道を以て切緊ならずと為すは、亦俗見なるのみ。

現代語訳

問う。聖門の学は王道を根本とすると承った。しかし自分の身に引き受けて修める工夫としては、どうも切実さに欠けるように思われる。どうか。答える。切実かどうかを問うてはならない。ただ道に合うかどうかを見なさい。工夫が切実でないものは、もとより論ずるに足りない。しかしおよそ切実だと称するものは、必ず曲がりを直そうとして行き過ぎるに至る。この両方を免れることこそ、学問の難しい中でも最も難しいことである。それでも切実でないものは、その病はかえって浅い。曲がりを直そうとして行き過ぎるに至っては、深い病、治らぬ持病となって、薬で治すことができない。恐れずにいられようか。孟子は「心を養うには欲を少なくすることより善いものはない」と言った。これは中庸の極みである。周濂渓は「心を養うことは欲を少なくするにとどまらない。少なくし、さらに少なくして無に至れば、誠が立ち明らかさが通じる」と言った。これを孟子の言葉と比べれば、すべてが切実であるように見える。しかし行き過ぎの病を免れない。思うに古人は礼義の二つを、日常の茶や飯のように、万事の規矩・物差しとした。これによって飲み食いし、これによって衣服を着け、出入りや起居にも、少しの間も離れることはなかった。書経に「礼によって心を制し、義によって事を制する」とあり、孔子は「義を本質とする」と言い、孟子は「礼を心に存する」と言ったのがそれである。かりにも礼義によってこれを制するならば、情といい欲といっても、そのまま道であり、もともと憎むべきものではない。もし礼義によって制することなく、ただ工夫を切実にしようとすれば、必ず情を滅ぼし欲をなくすところまで行かなければ止まらない。これが近世の理学者たちが、知らず知らず禅や老荘に流れ込んでしまう理由である。あなたが王道を切実でないと見るのも、世俗の見方にすぎない。

解説

王道の学は修養として物足りない、もっと切実な工夫が欲しいという問いに対し、仁斎は「切緊」を求める心そのものの危うさを指摘する。修養が切実でないのは浅い病だが、切実さを求めて行き過ぎると不治の病になるという。孟子の「寡欲」を周濂渓が「無欲」にまで押し進めたのがその例で、ここに宋学が禅や老荘に流れた原因を見る。古人は礼義を日々の茶飯のように物差しとして用い、それで情欲を制すれば情も欲も道になると説く。自己改革や業務改善でも、厳しさを競うほど成果が上がるとは限らない。極端な引き締めより、日常に根づいた適切な規範を持つほうが、長く健全に続けられるのである。

この章句が説くこと

礼義寡欲矯枉過直王道修養

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