童子問 / 卷中
問。王道之學。固大矣。而非今日儒者之先務。曰否。儒者之於王道。猶孫吳之於兵。盧扁之於醫。蓋專門之業也。學問以王道爲本。故中庸曰。仲尼祖述堯舜。憲章文武。葢孔子之學。卽堯舜文武之道。孟子之說。卽孔子之學。皆堯舜文武治天下之道。外此而豈有所謂學問者邪。葢非以王道爲主而行之。修己治人萬般功夫。皆由王道而出。故孔子曰。君子修己以安百姓。又曰。一日克己復禮。天下歸仁。凡存心養性。忠信篤敬。條目雖多。皆莫不以王道爲本。而乃以仁爲要。其獨善其身。豈聖人之本心也哉。後世儒者雖說王道。其實專以心法爲務。故不能不流入于異端。子以此意觀論孟。頭頭相合。句句鬭湊。聖人微意之所在。註脚之所不能悉。了了分明。自無遺漏。
新字:問。王道之学。固大矣。而非今日儒者之先務。曰否。儒者之於王道。猶孫呉之於兵。盧扁之於医。蓋専門之業也。学問以王道為本。故中庸曰。仲尼祖述堯舜。憲章文武。葢孔子之学。即堯舜文武之道。孟子之説。即孔子之学。皆堯舜文武治天下之道。外此而豈有所謂学問者邪。葢非以王道為主而行之。修己治人万般功夫。皆由王道而出。故孔子曰。君子修己以安百姓。又曰。一日克己復礼。天下帰仁。凡存心養性。忠信篤敬。条目雖多。皆莫不以王道為本。而乃以仁為要。其独善其身。豈聖人之本心也哉。後世儒者雖説王道。其実専以心法為務。故不能不流入于異端。子以此意観論孟。頭頭相合。句句闘湊。聖人微意之所在。註脚之所不能悉。了了分明。自無遺漏。
書き下し
問ふ。王道の学は、固より大なり。而れども今日儒者の先務に非ず。曰く、否。儒者の王道に於けるは、猶ほ孫呉の兵に於ける、盧扁の医に於けるがごとし。蓋し専門の業なり。学問は王道を以て本と為す。故に中庸に曰く、仲尼は堯舜を祖述し、文武を憲章す、と。蓋し孔子の学は、即ち堯舜文武の道なり。孟子の説は、即ち孔子の学なり。皆堯舜文武の天下を治むるの道なり。此を外にして豈に所謂学問なる者有らんや。蓋し王道を以て主と為して之を行ふに非ざれば、修己治人の万般の功夫、皆王道に由りて出づ。故に孔子曰く、君子は己を修めて以て百姓を安んず、と。又曰く、一日己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す、と。凡そ存心養性、忠信篤敬、条目多しと雖も、皆王道を以て本と為さざるは莫くして、乃ち仁を以て要と為す。其の独り其の身を善くするは、豈に聖人の本心ならんや。後世の儒者は王道を説くと雖も、其の実は専ら心法を以て務めと為す。故に異端に流入せざること能はず。子此の意を以て論孟を観よ。頭頭相合し、句句闘湊して、聖人の微意の在る所、註脚の悉くすること能はざる所、了了として分明にして、自ら遺漏無からん。
現代語訳
問う。王道の学はもとより大きい。しかし今日の儒者が先に務めるべきことではない。答える。そうではない。儒者にとっての王道は、孫子・呉子にとっての兵法、扁鵲にとっての医術のようなもので、専門の業である。学問は王道を根本とする。だから中庸に「孔子は堯舜を祖として述べ、文王・武王を手本とした」とある。思うに孔子の学は堯舜文武の道であり、孟子の説は孔子の学であり、みな堯舜文武が天下を治めた道である。これを外れて、いったいどこに学問というものがあろうか。王道を主として行うのでなくとも、己を修め人を治めるあらゆる工夫は、みな王道から出てくる。だから孔子は「君子は己を修めて民を安んじる」と言い、また「一日でも己に克って礼に立ち返れば、天下は仁に帰する」と言った。およそ心を存し性を養うこと、忠信篤敬など、項目は多いが、みな王道を根本とし、仁を要としないものはない。自分一人の身を善くするだけで済ませるのが、どうして聖人の本心であろうか。後世の儒者は王道を説いても、実際にはもっぱら心法を務めとしている。だから異端に流れ込まずにはいられない。あなたはこの考えで論語・孟子を読みなさい。どこもかしこもぴたりと合い、一句一句がかみ合って、聖人の深い意図のあるところ、注釈では言い尽くせないところが、はっきりと分かり、自然に見落としがなくなるであろう。
解説
この章句が説くこと
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『格言聯璧』學問類・萬物一體、之を仁と謂ふ忠を竭し孝を盡す、之を人と謂ふ。國を治め邦を經む、之を學と謂ふ。 危を安んじ變を定む、之を才と謂ふ。天を經とし地を緯とす、之を文と謂ふ。 霽月光風、之を度と謂ふ。萬物一體、之を仁と謂ふ。 心術を以て本根と爲し、倫理を以て楨幹と爲し、學問を以て菑畬と爲し、文章を以て花萼と爲し、事業を以て結實と爲し、書史を以て園林と爲し、歌詠を以て鼓吹と爲し、義理を以て膏粱と爲し、著述を以て文繡と爲し、誦讀を以て耕耘と爲し、記問を以て居積と爲し、前言往行を以て師友と爲し、忠信篤敬を以て修持と爲し、作善降祥を以て受用と爲し、樂天知命を以て依歸と爲す。
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