童子問 / 卷中
問。吾聞中也者。堯舜以來相傳心法。以此聖聖相承。今專主張仁義者。何哉。曰。仁義卽中也。兼愛爲我。失之過。非仁義。煦煦孑孑。失之不及。亦非仁義。所謂仁義者。乃言其無過不及者。故周子曰。仁義中正而已矣。其專以中爲傳授心法。而不以仁義爲孔孟之宗旨者。葢不深考耳。中之理虛。而仁義之德實。
新字:問。吾聞中也者。堯舜以来相伝心法。以此聖聖相承。今専主張仁義者。何哉。曰。仁義即中也。兼愛為我。失之過。非仁義。煦煦孑孑。失之不及。亦非仁義。所謂仁義者。乃言其無過不及者。故周子曰。仁義中正而已矣。其専以中為伝授心法。而不以仁義為孔孟之宗旨者。葢不深考耳。中之理虚。而仁義之徳実。
書き下し
問ふ。吾聞く、中なる者は、堯舜以来相伝ふるの心法にして、此を以て聖聖相承く、と。今専ら仁義を主張するは、何ぞや。曰く、仁義は即ち中なり。兼愛・為我は、之を過ぐるに失して、仁義に非ず。煦煦孑孑は、之を及ばざるに失して、亦仁義に非ず。所謂仁義とは、乃ち其の過不及無き者を言ふ。故に周子曰く、仁義中正のみ、と。其の専ら中を以て伝授の心法と為し、而して仁義を以て孔孟の宗旨と為さざる者は、蓋し深く考へざるのみ。中の理は虚にして、仁義の徳は実なり。
現代語訳
問う。中こそ堯舜以来伝えられてきた心法であり、これによって聖人たちは代々受け継いできたと聞いている。それなのに先生がもっぱら仁義を主張されるのはなぜか。答える。仁義こそが中なのである。墨子の兼愛や楊子の為我は行き過ぎによって誤ったもので仁義ではない。こまごまとした情けや小さな義理立ては、足りないことによって誤ったもので、これも仁義ではない。いわゆる仁義とは、過ぎることも足りないこともないものを言うのである。だから周濂溪は「仁義中正のみ」と言った。中だけを伝授の心法とし、仁義を孔孟の宗旨としない者は、深く考えていないだけである。中という理は空虚であり、仁義という徳は実質がある。
解説
この章句が説くこと
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