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童子問 / 卷上

問。南軒張子類聚論語中言仁諸章爲一編。名曰洙泗言仁錄。當耶。曰不然。魯論二十篇。從頭至尾。無一言之非仁。南軒唯知言仁處之爲仁。而不知不言仁處亦總是仁。大傳固言。仁者見之謂之仁。智者見之謂之智。百姓日用而不知。故君子之道鮮矣。然仁者德之長。學至於仁。則衆德合湊。故子夏曰。博學而篤志。切問而近思。仁在其中矣。夫博學篤志。切問近思。皆學問之事。子夏何以言仁在其中也。葢仁者聖門學問之宗旨。而外仁無所謂學問者也。諸老先生皆依理解之。去仁之義益遠矣。

新字:問。南軒張子類聚論語中言仁諸章為一編。名曰洙泗言仁録。当耶。曰不然。魯論二十篇。従頭至尾。無一言之非仁。南軒唯知言仁処之為仁。而不知不言仁処亦総是仁。大伝固言。仁者見之謂之仁。智者見之謂之智。百姓日用而不知。故君子之道鮮矣。然仁者徳之長。学至於仁。則衆徳合湊。故子夏曰。博学而篤志。切問而近思。仁在其中矣。夫博学篤志。切問近思。皆学問之事。子夏何以言仁在其中也。葢仁者聖門学問之宗旨。而外仁無所謂学問者也。諸老先生皆依理解之。去仁之義益遠矣。

書き下し

問ふ、南軒張子、論語中の仁を言ふ諸章を類聚して一編と為し、名づけて洙泗言仁録と曰ふ。当れるか。曰く、然らず。魯論二十篇、頭より尾に至るまで、一言として仁に非ざる無し。南軒は唯仁を言ふ処の仁為るを知りて、仁を言はざる処も亦総て是れ仁なることを知らず。大伝に固より言ふ、「仁者は之を見て之を仁と謂ひ、智者は之を見て之を智と謂ふ。百姓は日に用ひて知らず。故に君子の道鮮し」と。然れども仁は徳の長なり。学仁に至れば、則ち衆徳合湊す。故に子夏曰く、「博く学びて篤く志し、切に問ひて近く思ふ。仁其の中に在り」と。夫れ博学篤志、切問近思は、皆学問の事なり。子夏何を以て仁其の中に在りと言ふや。蓋し仁は聖門学問の宗旨にして、仁の外に所謂学問なる者無きなり。諸老先生皆理に依りて之を解す。仁の義を去ること益々遠し。

現代語訳

問う。南軒張先生(張栻)は、『論語』の中で仁を語った諸章を集めて一編とし、『洙泗言仁録』と名づけた。これは妥当か。答える。そうではない。『論語』二十篇は、初めから終わりまで、一言として仁でないものはない。南軒はただ仁を語った箇所が仁であることだけを知って、仁を語っていない箇所もまたすべて仁であることを知らなかった。『易』の繋辞伝にももとより「仁者はこれを見て仁と言い、智者はこれを見て智と言う。民衆は日々これを用いながら知らない。だから君子の道を知る者は少ない」とある。しかし仁は徳の長である。学問が仁に至れば、多くの徳がそこに集まってくる。だから子夏は「広く学んで志を篤くし、切実に問うて身近に考える。仁はその中にある」と言った。そもそも広く学び志を篤くし、切実に問い身近に考えることは、みな学問の事柄である。子夏はなぜ仁がその中にあると言ったのか。思うに、仁は聖門の学問の宗旨であり、仁の外にいわゆる学問というものはないからである。諸先生はみな理によってこれを解釈している。仁の意味からいよいよ遠ざかっている。

解説

張南軒が『論語』から仁を語った章だけを集めて『洙泗言仁録』を編んだことへの批判である。仁斎は、『論語』は二十篇すべてが仁を説いており、仁という字がない箇所も仁だと言う。仁は徳の長であり、学問が仁に至ればあらゆる徳が集まる。子夏が博学・篤志・切問・近思という学問の営みの中に仁があると言ったのも、仁の外に学問がないからだという。キーワード検索のように言葉の表面だけを拾っても、本質は見えてこない。文書や人の言動を読むときも、言葉の有無ではなく全体を貫く精神をつかみたい。

この章句が説くこと

仁論語学問宗旨徳読書

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