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童子問 / 卷上

問。以仁爲性。徒爲虛器。其意如何。曰。仁者。天下之美德。豈可以性情分之哉。若以宋儒之說論之。則性爲未發。情爲已發。性猶水之在地中。情猶發源之泉。疏導澄治之功。渾可施之於流出之後。而於其在地中之時。則無可奈之何。以仁義禮智爲性。則猶水之在地中。不可施疏導澄治之功也。故後世學問。不復要存養仁義。而別立一般宗旨。曰無欲主靜。曰明鏡止水。專欲除其蔽仁義之物。以復其初。然則。仁義之德徒爲虛器。而不如直曰滅欲之爲愈也。孟子曰。仁人心也。義人路也。舍其路而弗由。放其心而不知求。學問之道無他。求其放心而已矣。集註曰。能求放心。則不違於仁。而義自在其中矣。其意以爲。仁之在心。猶月之映水。波定則影明。波搖則影亂。如此。則其功夫專在收歛此心。而居仁由義之功廢矣。猶月之隱見。繫水而不繫月也。

新字:問。以仁為性。徒為虚器。其意如何。曰。仁者。天下之美徳。豈可以性情分之哉。若以宋儒之説論之。則性為未発。情為已発。性猶水之在地中。情猶発源之泉。疏導澄治之功。渾可施之於流出之後。而於其在地中之時。則無可奈之何。以仁義礼智為性。則猶水之在地中。不可施疏導澄治之功也。故後世学問。不復要存養仁義。而別立一般宗旨。曰無欲主静。曰明鏡止水。専欲除其蔽仁義之物。以復其初。然則。仁義之徳徒為虚器。而不如直曰滅欲之為愈也。孟子曰。仁人心也。義人路也。舎其路而弗由。放其心而不知求。学問之道無他。求其放心而已矣。集註曰。能求放心。則不違於仁。而義自在其中矣。其意以為。仁之在心。猶月之映水。波定則影明。波揺則影乱。如此。則其功夫専在収歛此心。而居仁由義之功廃矣。猶月之隠見。繋水而不繋月也。

書き下し

問ふ、仁を以て性と為せば、徒に虚器と為る。其の意如何。曰く、仁は天下の美徳なり。豈に性情を以て之を分かつべけんや。若し宋儒の説を以て之を論ずれば、則ち性は未発為り、情は已発為り。性は猶ほ水の地中に在るがごとく、情は猶ほ発源の泉のごとし。疏導澄治の功は、渾て之を流出の後に施すべくして、其の地中に在るの時に於ては、則ち之を奈何ともすべき無し。仁義礼智を以て性と為せば、則ち猶ほ水の地中に在りて、疏導澄治の功を施すべからざるがごときなり。故に後世の学問は、復た仁義を存養することを要せずして、別に一般の宗旨を立て、無欲主静と曰ひ、明鏡止水と曰ひ、専ら其の仁義を蔽ふの物を除きて、以て其の初めに復らんと欲す。然らば則ち、仁義の徳は徒に虚器と為りて、直ちに滅欲と曰ふの愈れりと為すに如かざるなり。孟子曰く、「仁は人の心なり。義は人の路なり。其の路を舎てて由らず、其の心を放ちて求むることを知らず。学問の道は他無し、其の放心を求むるのみ」と。集註に曰く、「能く放心を求むれば、則ち仁に違はずして、義自ら其の中に在り」と。其の意以為へらく、仁の心に在るは、猶ほ月の水に映ずるがごとし。波定まれば則ち影明らかに、波揺らげば則ち影乱ると。此の如くんば、則ち其の功夫は専ら此の心を収斂するに在りて、仁に居り義に由るの功廃す。猶ほ月の隠見、水に繋りて月に繋らざるがごときなり。

現代語訳

問う。仁を性とすると、ただ空しい器になってしまうという。その意味はどういうことか。答える。仁は天下の美しい徳である。どうして性と情とでこれを分けることができようか。もし宋儒の説でこれを論じれば、性は未発(心がまだ動き出す前)であり、情は已発(心が動き出した後)である。性は水がまだ地中にあるようなもの、情は水源から湧き出た泉のようなものである。水路を通し濁りを澄ます工夫は、すべて流れ出た後に施すべきもので、地中にある時には、どうすることもできない。仁義礼智を性とすれば、水が地中にあって水路を通し濁りを澄ます工夫を施せないのと同じである。だから後世の学問は、もはや仁義を存し養うことを求めず、別に一種の宗旨を立てて、「無欲主静」と言い、「明鏡止水」と言い、もっぱら仁義を覆い隠しているものを取り除いて、その初めの状態に戻ろうとする。そうであれば、仁義の徳はただ空しい器となって、いっそ直接に「欲を滅せよ」と言うほうがましだということになってしまう。孟子は「仁は人の心である。義は人の道である。その道を捨てて通らず、その心を放してしまって求めることを知らない。学問の道はほかでもない、その放した心を求めることだけである」と言った。『集註』は「よく放した心を求めれば、仁に違わず、義もおのずからその中にある」と言う。その意図はこう考えている。仁が心にあるのは、月が水に映っているようなものだ。波が静まれば影ははっきりし、波が揺れれば影は乱れる、と。このようであれば、その工夫はもっぱらこの心を引き締め収めることにあって、仁に居り義に従うという工夫は廃れてしまう。それはちょうど月が見えたり隠れたりするのが、水次第であって月次第ではない、というようなものである。

解説

仁を性とする朱子学の構造を、仁斎が水のたとえで批判した章の前半である。宋儒の説では性は未発、つまり地中の水であり、工夫を施せるのは流れ出た後の情に限られる。仁義礼智を性とすれば、仁義そのものには手の施しようがなくなり、学問は無欲主静や明鏡止水といった、欲を除いて初めに戻る修養に変わってしまう。それでは仁義の徳は空しい器にすぎない。さらに『集註』の月と水のたとえでは、心を静めることだけが工夫になり、仁義を実践する努力が消えると指摘する。心を整えるだけで満足せず、行動で善を積むことを大切にしたい。

この章句が説くこと

仁性虚器宋儒集註存養

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