童子問 / 卷上
問。仁爲聖門第一字者。其旨如何。曰。仁之爲德。大矣。然一言以蔽之。曰愛而已矣。在君臣謂之義。父子謂之親。夫婦謂之別。兄弟謂之叙。朋友謂之信。皆自愛而出。葢愛出於實心。故此五者自愛而出。則爲實。不自愛而出。則僞而已。故君子莫大於慈愛之德。莫戚於殘忍刻薄之心。孔門以仁爲德之長。葢爲此也。此仁之所以爲聖門第一字也。苟非知德者。不能識之。亦不能信之。必視以爲泛然無緊要。而不知珍重信受。每從別路去。或高談性命。或耽樂虛靜。或以仁爲理爲性爲知覺。而不知施之於日用。故夫子罕言仁者。葢以驟告不知德者。即不惟不知其理。必有弊也。不可不慮焉。子惟務主忠信。熟讀論孟。以求實德爲心。久之自當理會。謹勿蹈故轍。
新字:問。仁為聖門第一字者。其旨如何。曰。仁之為徳。大矣。然一言以蔽之。曰愛而已矣。在君臣謂之義。父子謂之親。夫婦謂之別。兄弟謂之叙。朋友謂之信。皆自愛而出。葢愛出於実心。故此五者自愛而出。則為実。不自愛而出。則偽而已。故君子莫大於慈愛之徳。莫戚於残忍刻薄之心。孔門以仁為徳之長。葢為此也。此仁之所以為聖門第一字也。苟非知徳者。不能識之。亦不能信之。必視以為泛然無緊要。而不知珍重信受。毎従別路去。或高談性命。或耽楽虚静。或以仁為理為性為知覚。而不知施之於日用。故夫子罕言仁者。葢以驟告不知徳者。即不惟不知其理。必有弊也。不可不慮焉。子惟務主忠信。熟読論孟。以求実徳為心。久之自当理会。謹勿蹈故轍。
書き下し
問ふ、仁を聖門の第一字と為す者、其の旨如何。曰く、仁の徳為る、大なり。然れども一言以て之を蔽へば、曰く愛のみ。君臣に在りては之を義と謂ひ、父子には之を親と謂ひ、夫婦には之を別と謂ひ、兄弟には之を叙と謂ひ、朋友には之を信と謂ふ。皆愛より出づ。蓋し愛は実心に出づ。故に此の五者、愛より出づれば則ち実と為り、愛より出でざれば則ち偽のみ。故に君子は慈愛の徳より大なるは莫く、残忍刻薄の心より戚むべきは莫し。孔門仁を以て徳の長と為すは、蓋し此が為なり。此れ仁の聖門の第一字為る所以なり。苟も徳を知る者に非ざれば、之を識ること能はず、亦之を信ずること能はず。必ず視て以て泛然として緊要無しと為して、珍重信受することを知らず。毎に別路に従ひて去る。或いは性命を高談し、或いは虚静に耽楽し、或いは仁を以て理と為し性と為し知覚と為して、之を日用に施すことを知らず。故に夫子の罕に仁を言ふ者は、蓋し驟かに徳を知らざる者に告ぐれば、即ち惟に其の理を知らざるのみならず、必ず弊有るを以てなり。慮らざるべからず。子惟だ忠信を主とし、論孟を熟読して、実徳を求むるを以て心と為すことを務めよ。之を久しくすれば自ら当に理会すべし。謹みて故轍を蹈むこと勿かれ。
現代語訳
問う。仁を聖門の第一の字とするのは、その趣旨はどういうことか。答える。仁という徳は大きい。しかし一言でこれを言い尽くせば、愛にほかならない。君臣の間ではこれを義といい、父子ではこれを親といい、夫婦ではこれを別といい、兄弟ではこれを叙(長幼の順序)といい、朋友ではこれを信という。どれも愛から出ている。思うに愛は真実の心から出るものである。だからこの五つのものは、愛から出れば真実となり、愛から出なければ偽りにすぎない。だから君子にとっては、慈愛の徳より大きなものはなく、残忍で冷酷な心より悲しむべきものはない。孔門が仁を徳の長としたのは、思うにこのためである。これが仁が聖門の第一の字である理由である。徳を知る者でなければ、これを見分けることはできず、これを信じることもできない。必ずこれを漠然として大事でないものと見て、大切にし信じて受け入れることを知らない。いつも別の道に従って去っていく。ある者は天命や本性を高尚に語り、ある者は虚静の境地にふけり楽しみ、ある者は仁を理とし、性とし、知覚として、それを日々の行いに施すことを知らない。だから孔子がまれにしか仁を語らなかったのは、思うに、徳を知らない者ににわかに告げれば、ただその理を知らないだけでなく、必ず弊害が生じるからであろう。考えておかねばならない。あなたはただ忠信を主とし、『論語』『孟子』を熟読して、実の徳を求めることを心がけるよう努めなさい。それを長く続ければ、自然に会得するはずである。決して先人の誤った轍を踏んではならない。
解説
この章句が説くこと
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『五常訓』巻之二・仁之上故に人にまじはりては、あはれみの心自ら止む事なし。されども其中につきて、まづ父母を愛し、次に兄弟一族を愛するが、仁愛の内にていと大なる理なり。故に親をしたしむを大なりとすといへり。親とは親類なり。先親類をしたしみて後、他人を愛す。是仁を行ふ次第なり。人なりと説き、人の心也と説ける字訓、尤親切にして、仁の理によくかなへるなるべし。周子は徳愛を仁と云ふといへり。愛はあはれむ也。仁は心の徳にて、人をあはれむを云ふ。愛を以て仁を説くは、是仁の大用を説けり。仁の用をなすは、あはれみを人に施すにあり。故に愛を仁と云ふ。夫仁は性なり。性は心に生れつきたる、理なり、体なり。愛は情なり。情とは、性の外物に感じて、動きあらはれたる心を云ふ。
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『近思録』巻1 道体復の卦に「七日にして来復す」と言ふが如き、其の間元より断続せず、陽已に復生す。「物極まれば必ず返る」。其の理須らく此の如くなるべし。生有れば便ち死有り、始め有れば便ち終はり有り。明道先生曰く、天地の間、只だ一箇の感と応と有るのみ。更に甚(なん)の事か有らん。仁を問ふ。伊川先生曰く、此れ諸公自ら之を思ふに在り。聖賢の仁を言ふ所の処を将て、類聚して之を観、体認し出だし来たれ。孟子曰く、「惻隠の心は仁なり」と。後人遂に愛を以て仁と為す。愛は自ら是れ情、仁は自ら是れ性、豈に専ら愛を以て仁と為すべけんや。孟子言ふ、「惻隠の心は仁の端なり」と。既に仁の端と曰へば、則ち便ち之を仁と謂ふべからず。退之言ふ、「博愛之を仁と謂ふ」と、非なり。仁者は固より博愛なり、然れども便ち博愛を以て仁と為すは則ち不可なり。仁と心と何ぞ異なると問ふ。曰く、心は譬へば穀種の如し。生の性は、便ち是れ仁なり。陽気の発する処は、乃ち情なり。義は宜と訓じ、礼は別と訓ず、仁は当に何と訓ずべき。説く者覚と訓じ人と訓ずと謂ふも、皆非なり。当に孔孟の仁を言ふ処を合はせて、大概之を研窮すべし、二三歳にして之を得るも未だ晩からざるなり。
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