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童子問 / 卷上

問。子夏曰。雖曰未學。吾必謂之學矣。吳氏曰。詞氣之間。抑揚太過。其流之弊。將或至於廢學。先生所說。亦與子夏同其弊。豈非矯枉過直者耶。曰。子何輕子夏之甚耶。夫子夏孔門之高第。親炙聖人久矣。固當深得夫子之意。而編論語者。亦非眞知孔門之學脈者。則不能。今其載之於首篇第七章。則豈徒然乎哉。葢有深意在。且以諸弟子之語。與夫子之言同載。則其尊之。葢亦亞夫子矣。今輕議之。則與侮聖人之言同罪。可不懼乎。自宋人理性之學起。諸儒自居太高。雖孔門弟子子夏子張有若樊遲之徒。皆有蔑視之意。從晦翁取吳說入之集註。其論愈堅。其說愈定。卒爲後來學者之深害。矧文學易過。而德行難及。古今學者之通病。今又不勸勉難及之德行。而反欲增益易過之文學。詎異乎以火添火。以泥和泥。詩曰。勿敎猱升木。如塗塗附。

新字:問。子夏曰。雖曰未学。吾必謂之学矣。呉氏曰。詞気之間。抑揚太過。其流之弊。将或至於廃学。先生所説。亦与子夏同其弊。豈非矯枉過直者耶。曰。子何軽子夏之甚耶。夫子夏孔門之高第。親炙聖人久矣。固当深得夫子之意。而編論語者。亦非真知孔門之学脈者。則不能。今其載之於首篇第七章。則豈徒然乎哉。葢有深意在。且以諸弟子之語。与夫子之言同載。則其尊之。葢亦亜夫子矣。今軽議之。則与侮聖人之言同罪。可不懼乎。自宋人理性之学起。諸儒自居太高。雖孔門弟子子夏子張有若樊遅之徒。皆有蔑視之意。従晦翁取呉説入之集註。其論愈堅。其説愈定。卒為後来学者之深害。矧文学易過。而徳行難及。古今学者之通病。今又不勧勉難及之徳行。而反欲增益易過之文学。詎異乎以火添火。以泥和泥。詩曰。勿教猱升木。如塗塗附。

書き下し

問ふ、子夏曰く、「未だ学ばずと曰ふと雖も、吾は必ず之を学びたりと謂はん」と。呉氏曰く、「詞気の間、抑揚太だ過ぐ。其の流の弊、将に或いは学を廃するに至らんとす」と。先生の説く所も、亦子夏と其の弊を同じくす。豈に枉れるを矯めて直きに過ぐる者に非ずや。曰く、子何ぞ子夏を軽んずるの甚だしきや。夫れ子夏は孔門の高第にして、聖人に親炙すること久し。固より当に深く夫子の意を得べし。而して論語を編む者も、亦真に孔門の学脈を知る者に非ずんば、則ち能はず。今其れを首篇の第七章に載す。則ち豈に徒然ならんや。蓋し深意在る有り。且つ諸弟子の語を以て、夫子の言と同じく載す。則ち其の之を尊ぶこと、蓋し亦夫子に亜ぐ。今之を軽議するは、則ち聖人の言を侮ると罪を同じくす。懼れざるべけんや。宋人理性の学起こりしより、諸儒自ら居ること太だ高く、孔門の弟子子夏・子張・有若・樊遅の徒と雖も、皆蔑視の意有り。晦翁の呉説を取りて之を集註に入れしより、其の論愈々堅く、其の説愈々定まり、卒に後来学者の深き害と為る。矧んや文学は過ぎ易くして、徳行は及び難きは、古今学者の通病なり。今又及び難きの徳行を勧勉せずして、反つて過ぎ易きの文学を増益せんと欲す。詎ぞ火を以て火に添へ、泥を以て泥に和するに異ならんや。詩に曰く、「猱に木に升ることを教ふること勿かれ。塗に塗を附くるが如し」と。

現代語訳

問う。子夏は「(徳行を備えた人なら)まだ学問をしていないと言っても、私は必ずその人を学んだ人だと言おう」と言った。呉氏は「言葉の勢いの上で、持ち上げ方が過ぎている。その流れの弊害は、あるいは学問を廃することにまで至るだろう」と言っている。先生の説くところも、子夏と同じ弊害があるのではないか。曲がったものを矯めて真っ直ぐを通り越してしまったものではないか。答える。あなたはなぜそれほどまでに子夏を軽んじるのか。子夏は孔子門下の高弟であり、長く聖人に親しく教えを受けた。当然深く孔子の意を得ているはずである。そして『論語』を編んだ者も、本当に孔門の学問の筋道を知る者でなければ、編むことはできなかった。いまこの言葉を巻頭の篇の第七章に載せている。どうして意味もなくそうしたであろうか。思うに深い意図があるのである。しかも諸弟子の言葉を孔子の言葉と同列に載せている。とすれば、それを尊ぶことは孔子に次ぐほどである。いまそれを軽々しく論難するのは、聖人の言葉を侮るのと同罪である。恐れずにいられようか。宋人の理性の学が起こってから、儒者たちは自らを非常に高い所に置き、孔門の弟子である子夏・子張・有若・樊遅のような人々に対してさえ、皆さげすむ気持ちを持つようになった。朱子が呉氏の説を取って『集註』に入れてから、その論はいよいよ固く、その説はいよいよ定着し、ついに後の学者の深い害となった。まして文学は度を越しやすく、徳行は及びにくいというのは、古今の学者に共通する病である。いま及びにくい徳行を勧め励まさずに、かえって度を越しやすい文学をさらに増やそうとする。それは火に火を添え、泥に泥を混ぜるのとどう違おうか。『詩経』に「猿に木登りを教えるな。泥の上に泥を塗るようなものだ」とある。

解説

『論語』学而篇の子夏の言葉「未だ学ばずと曰ふと雖も、吾は必ず之を学びたりと謂はん」をめぐる章である。朱子が『集註』に呉氏の批判を採ったのに対し、仁斎は子夏が孔門の高弟であり、編者が首篇に載せたことに深意があると反論する。宋儒が孔子の弟子たちまで見下すようになったことを、仁斎は学問の傲りとして退ける。そもそも学者の通病は知識が過剰で徳行が足りないことであり、文学をさらに勧めるのは火に火を添えるようなものだという。知識を増やすより、行いを整えることのほうが難しく大切だと、自分の学び方を見直したい。

この章句が説くこと

学問徳行子夏論語文学集註

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