童子問 / 卷上
問。學問果在性之內。在性之外。曰。內外一致。內以資外。外以養內。不可相無。譬猶人之一體。心思知慮內也。視聽動作外也。專貴心思知慮。而盡廢視聽動作。可乎。且若生養之具。自飮食藥餌。以至於宮室衣服平生合用凡百器具。皆靡不資之於外。豈獨至學問。而疑之乎。樹非土則不生。魚非水則不活。然由樹與魚而見之。則土與水皆外也。然不得須臾離也。人之學問。生養之具。何物不資之於外。設若以其外而棄之。猶樹之離土。魚之去水。不得一日生焉。其不可也必矣。人之於五倫。雖父子之親兄弟之睦。既異其體。況君臣夫婦朋友皆以義合。豈謂之外而可乎哉。凡內外二字。古人之所稱。與後世之所謂。其義適別。所謂內者親之之辭。外者疎之之辭。若大學曰外本內末。莊周曰内聖外王。是也。非以性爲內。而以非性者爲外。而棄之也。告子之外義。亦謂以義爲外而行之。非棄而不用之謂。聖賢初無內外之辨。其立內外之分。後儒之陋說也。
新字:問。学問果在性之内。在性之外。曰。内外一致。内以資外。外以養内。不可相無。譬猶人之一体。心思知慮内也。視聴動作外也。専貴心思知慮。而尽廃視聴動作。可乎。且若生養之具。自飲食薬餌。以至於宮室衣服平生合用凡百器具。皆靡不資之於外。豈独至学問。而疑之乎。樹非土則不生。魚非水則不活。然由樹与魚而見之。則土与水皆外也。然不得須臾離也。人之学問。生養之具。何物不資之於外。設若以其外而棄之。猶樹之離土。魚之去水。不得一日生焉。其不可也必矣。人之於五倫。雖父子之親兄弟之睦。既異其体。況君臣夫婦朋友皆以義合。豈謂之外而可乎哉。凡内外二字。古人之所称。与後世之所謂。其義適別。所謂内者親之之辞。外者疎之之辞。若大学曰外本内末。荘周曰内聖外王。是也。非以性為内。而以非性者為外。而棄之也。告子之外義。亦謂以義為外而行之。非棄而不用之謂。聖賢初無内外之弁。其立内外之分。後儒之陋説也。
書き下し
問ふ、学問は果たして性の内に在りや、性の外に在りやと。曰く、内外一致す。内は以て外を資け、外は以て内を養ふ。相無かるべからず。譬へば猶ほ人の一体のごとし。心思知慮は内なり、視聴動作は外なり。専ら心思知慮を貴びて、尽く視聴動作を廃するは、可ならんや。且つ生養の具の若きは、飲食薬餌より、以て宮室衣服、平生の合用、凡百の器具に至るまで、皆之を外に資らざること靡し。豈に独り学問に至りて、之を疑はんや。樹は土に非ざれば則ち生ぜず、魚は水に非ざれば則ち活きず。然れども樹と魚とに由りて之を見れば、則ち土と水とは皆外なり。然れども須臾も離るることを得ざるなり。人の学問、生養の具、何物か之を外に資らざらん。設若し其の外なるを以て之を棄てば、猶ほ樹の土を離れ、魚の水を去るがごとく、一日も生くることを得ず。其の不可なること必せり。人の五倫に於ける、父子の親、兄弟の睦と雖も、既に其の体を異にす。況んや君臣夫婦朋友は皆義を以て合ふ。豈に之を外と謂ひて可ならんや。凡そ内外の二字、古人の称する所と、後世の謂ふ所と、其の義適に別なり。所謂内とは之を親しむの辞、外とは之を疎んずるの辞なり。大学に外本内末と曰ひ、荘周に内聖外王と曰ふが若き、是れなり。性を以て内と為して、性に非ざる者を以て外と為して、之を棄つるに非ざるなり。告子の外義も、亦た義を以て外と為して之を行ふを謂ふ。棄てて用ひざるの謂に非ず。聖賢初めより内外の弁無し。其の内外の分を立つるは、後儒の陋説なり。
現代語訳
問う。「学問はいったい性の内にあるのでしょうか、それとも性の外にあるのでしょうか。」答えて言う。「内と外とは一つに合わさっている。内は外を助け、外は内を養う。どちらも欠くことはできない。人の体にたとえれば、心で思い考えることは内であり、見聞きし動き働くことは外である。心の思慮だけを貴んで、見聞きし動くことをすべてやめてしまってよいだろうか。また生活を養う道具は、飲食や薬から住まい・衣服、日常に用いるあらゆる器具に至るまで、すべて外に頼らないものはない。どうして学問に限って疑うのか。木は土がなければ育たず、魚は水がなければ生きられない。木と魚の側から見れば、土と水は皆外のものである。しかし片時も離れることはできない。人の学問も、生活を養う道具も、何一つ外に頼らないものはない。もし外のものだからといって棄てれば、木が土を離れ、魚が水を去るようなもので、一日も生きられない。それがいけないことは明らかである。人の五倫についても、父子の親しみ、兄弟の睦まじさでさえ、すでに体は別である。まして君臣・夫婦・朋友は皆、義によって結ばれている。それを外のものだと言ってよいだろうか。そもそも内外の二字は、古人が言ったものと後世が言うものとでは、意味がまるで違う。古人のいう内とは親しむ言葉であり、外とは疎んじる言葉である。大学に『本を外にし末を内にする』とあり、荘子に『内は聖、外は王』とあるのがそれである。性を内とし、性でないものを外として棄てるという意味ではない。告子の『義は外である』というのも、義を外のものとして行うということであって、棄てて用いないという意味ではない。聖賢にはもともと内外の区別はない。内外の区分を立てたのは、後世の儒者の浅はかな説である。」
解説
この章句が説くこと
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『呻吟語』内篇・談道・義は外內を合するの道義は、外內を合するの道なり。外に感ずる無ければ、則ち義は只だ是れ渾然として中に在るの理なり。物を見て之を裁制すれば則ち義と為る。義は物に生ぜず、亦た物に緣りて後に見る。告子は只だ義は外なりと說く、故に孟子は只だ義は內なりと說く。各おの一邊を說きて以て相駁す、故に窮年相辨じて服せず。孟子若し、義は外に緣りて形はると雖も、實は吾が心に根ざして生ず、物は是れ義ならず、而して物に處るは乃ち義と為る、と說かば、告子再び怎ぞ口を開かん。
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『慎思録』巻之四程子曰く、既に学びて、先づ功業を以て意と為す者有るは、学に於て便ち相害す、と。篤信謂ふ、程子の後、陳同父の事功の学も、亦た朱子の之を誹議する所以の如し。程子の時、既に此の学を為す者有り。学術の差、世を異にして暗に相同じきこと此の如き者有り。孔子曰く、用ひらるれば則ち行ひ、舎てらるれば則ち蔵る、と。孟子曰く、古の人、窮すれば則ち独り其の身を善くし、達すれば則ち兼ねて天下を善くす、と。夫れ行蔵は須らく其の遇ふ所に安んずべし。今窮して下に在る者、功業を立つるを以て志と為す。此れ窮達行蔵を処するの道を知らずして、義無く命無しと謂ふべきなり。
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『呻吟語』内篇・談道・吾が心を内と為せば、則ち吾が身も亦た外物なり吾が身を以て内と為せば、則ち吾が身の外は皆外物なり。故に富貴利達は、生く可く榮ゆ可きも、苟くも道に非ざれば、君子居らず。吾が心を以て内と為せば、則ち吾が身も亦た外物なり。故に貧賤憂慼は、辱む可く殺す可きも、苟くも道ならば、君子辭せず。
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『正法眼蔵随聞記』巻一答て云く、外相を飾らずとて、即ち放逸ならば亦是れ道理に差ふ、実徳を蔵すと云ふて、在家等の前にて悪行を現せば亦た是れ破戒の甚だしきなり、只希有の道心者、道者の由を人に知られんと思ひ、身にある失を人に知られじと思へども、諸天善神及び三宝の冥に知見する処なり、夫をば愧ずして、世人に貴とびられんと思ふ意ろを誠むるなり、只時にのぞみ事に触て、興法の為め利生の為に、諸事を斟酌すべきなり、擬して後に云ひ、思て後に行して、卒暴なること莫れとなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻二亦云く、世俗の礼にも人の見ざる処、あるひは暗室の中なれども、衣服等をきかゆる時も、亦坐臥する時にも、放逸に隠処なんどをも蔵くさす無礼なるをば、天に慚ぢず鬼に慚ぢずとてそしるなり、只た人の見る時と同じく、かくすべき処をもかくし、はづべきことをもはづるなり、仏法の中も亦戒律かくのごとし、然あれば道者は内外を論ぜす、明暗を択はず、仏制を心に存して、人の見ず知らざればとて、悪事を行すべからざるなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻一夜話に云く、今ま世出世間の人、多分は善事をなしては、かまへて人に知られんと思ひ、悪事を作して人に知られじと思ふ、是に依て内外不相応のこと出で来たる、あひかまへて内外相応じ、錯まりを悔ゐ、実徳をかくして、外相をかざらず好事をば他人にゆづり、悪事をば己れにむかふる志気あるべきなり、問て云く実徳を蔵し外相を飾らざらんこと、寔とに然るべし、但し仏菩薩は大悲利生を以て本とす、無智の道俗等外相の不善を見て是を謗り難せば、謗僧の罪を感ぜん、実徳を知らずとも、外相を見て貴とび供養せば、一分の福分たるべし、是らの斟酌いかなるべきぞ、
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