呻吟語 / 内篇・談道・義は外內を合するの道
義,合外內之道也。外無感,則義只是渾然在中之理,見物而裁制之則為義。義不生於物,亦緣物而後見。告子只說義外,故孟子只說義內,各說一邊以相駁,故窮年相辨而不服。孟子若說義雖緣外而形,實根吾心而生,物不是義,而處物乃為義也,告子再怎開口?性,合理氣之道也。理不雜氣,則純粹以精,有善無惡,所謂義理之性也。理一雜氣,則五行紛糅,有善有惡,所謂氣質之性也。諸家所盲皆落氣質之後之性,孟子所言皆未著氣質之先之性,各指一邊以相駁,故窮年相辨而不服。孟子若說有善有惡者雜於氣質之性,有善無惡者,上帝降衷之性,學問之道正要變化那氣質之性,完復吾降衷之性,諸家再怎開口?
新字:義,合外内之道也。外無感,則義只是渾然在中之理,見物而裁制之則為義。義不生於物,亦縁物而後見。告子只説義外,故孟子只説義内,各説一辺以相駁,故窮年相弁而不服。孟子若説義雖縁外而形,実根吾心而生,物不是義,而処物乃為義也,告子再怎開口?性,合理気之道也。理不雑気,則純粋以精,有善無悪,所謂義理之性也。理一雑気,則五行紛糅,有善有悪,所謂気質之性也。諸家所盲皆落気質之後之性,孟子所言皆未著気質之先之性,各指一辺以相駁,故窮年相弁而不服。孟子若説有善有悪者雑於気質之性,有善無悪者,上帝降衷之性,学問之道正要変化那気質之性,完復吾降衷之性,諸家再怎開口?
書き下し
義は、外內を合するの道なり。外に感ずる無ければ、則ち義は只だ是れ渾然として中に在るの理なり。物を見て之を裁制すれば則ち義と為る。義は物に生ぜず、亦た物に緣りて後に見る。告子は只だ義は外なりと說く、故に孟子は只だ義は內なりと說く。各おの一邊を說きて以て相駁す、故に窮年相辨じて服せず。孟子若し、義は外に緣りて形はると雖も、實は吾が心に根ざして生ず、物は是れ義ならず、而して物に處るは乃ち義と為る、と說かば、告子再び怎ぞ口を開かん。
現代語訳
義は、外と内を合わせる道です。外から感じるものが無ければ、義はただ渾然として内にある理にすぎません。物に出会ってそれを裁いて処するとき、それが義になります。義は物から生まれるのではありませんが、物によって初めて現れます。告子は義は外にあるとだけ言い、孟子は義は内にあるとだけ言いました。互いに一方だけを言って反駁したので、何年論じても互いに納得しませんでした。もし孟子が、義は外によって形になるけれども実は自分の心に根ざして生まれるのであり、物そのものが義なのではなく物に処するのが義なのだ、と言っていたら、告子はもう口を開けなかったでしょう。
解説

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『童子問』卷上問ふ、学問は果たして性の内に在りや、性の外に在りやと。曰く、内外一致す。内は以て外を資け、外は以て内を養ふ。相無かるべからず。譬へば猶ほ人の一体のごとし。心思知慮は内なり、視聴動作は外なり。専ら心思知慮を貴びて、尽く視聴動作を廃するは、可ならんや。且つ生養の具の若きは、飲食薬餌より、以て宮室衣服、平生の合用、凡百の器具に至るまで、皆之を外に資らざること靡し。豈に独り学問に至りて、之を疑はんや。樹は土に非ざれば則ち生ぜず、魚は水に非ざれば則ち活きず。然れども樹と魚とに由りて之を見れば、則ち土と水とは皆外なり。然れども須臾も離るることを得ざるなり。人の学問、生養の具、何物か之を外に資らざらん。設若し其の外なるを以て之を棄てば、猶ほ樹の土を離れ、魚の水を去るがごとく、一日も生くることを得ず。其の不可なること必せり。人の五倫に於ける、父子の親、兄弟の睦と雖も、既に其の体を異にす。況んや君臣夫婦朋友は皆義を以て合ふ。豈に之を外と謂ひて可ならんや。凡そ内外の二字、古人の称する所と、後世の謂ふ所と、其の義適に別なり。所謂内とは之を親しむの辞、外とは之を疎んずるの辞なり。大学に外本内末と曰ひ、荘周に内聖外王と曰ふが若き、是れなり。性を以て内と為して、性に非ざる者を以て外と為して、之を棄つるに非ざるなり。告子の外義も、亦た義を以て外と為して之を行ふを謂ふ。棄てて用ひざるの謂に非ず。聖賢初めより内外の弁無し。其の内外の分を立つるは、後儒の陋説なり。
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『呻吟語』内篇・談道・義命の兩字を真と認む人只だ「義命」の兩字を認め得て真ならば、事に隨ひ時に隨ひ這邊に在りて體認し、果たして趣味を得ば、一生受用し了はらず。
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『墨子』魯問魯の南鄙の人に吳慮なる者有り。冬は陶し夏は耕して、自ら舜に比す。子墨子、聞きて之に見ゆ。吳慮、子墨子に謂う、「義のみ、義のみ。焉んぞ之を言うを用いんや」と。子墨子曰く、「子の所謂る義なる者は、亦た力有りて以て人を勞し、財有りて以て人に分かつか」と。吳慮曰く、「有り」と。子墨子曰く、「翟、嘗て之を計れり。翟、耕して天下の人に食わしめんことを慮る。盛んにして、然る後に一農の耕に當たる。諸を天下に分かたば、人ごとに一升の粟をも得る能わず。藉りて以て一升の粟を得と為すも、其の天下の饑を飽かしむる能わざるは、既に睹る可し。
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『正法眼蔵随聞記』巻一答て云く、外相を飾らずとて、即ち放逸ならば亦是れ道理に差ふ、実徳を蔵すと云ふて、在家等の前にて悪行を現せば亦た是れ破戒の甚だしきなり、只希有の道心者、道者の由を人に知られんと思ひ、身にある失を人に知られじと思へども、諸天善神及び三宝の冥に知見する処なり、夫をば愧ずして、世人に貴とびられんと思ふ意ろを誠むるなり、只時にのぞみ事に触て、興法の為め利生の為に、諸事を斟酌すべきなり、擬して後に云ひ、思て後に行して、卒暴なること莫れとなり、