童子問 / 卷上
問。論語專言敎。而道在其中。既獲聞命矣。孟子專言道。而敎在其中。不審。如何。曰。道者何。仁義是也。孟子之書。以仁義爲其首腦。七篇之中。無一字不自此二字紬繹出來者。其倡性善之說者。亦非徒發明其理。欲使人知其性之善。而擴充之也。故曰。盡其心者。知其性也。又曰。苟不充之。不足以事父母。又曰。苟得其養。無物不長。苟失其養。無物不消。此皆言性之善不可恃焉。而擴充之功不可懈也。故曰。孟子專言道。而敎在其中矣。人雖號稱好學。然其持志力學。勇往直前。不自暴自棄者。千百之一二焉耳。故性善之說。雖明仁義爲己之固有。而其實爲自暴自棄者發之也。
新字:問。論語専言教。而道在其中。既獲聞命矣。孟子専言道。而教在其中。不審。如何。曰。道者何。仁義是也。孟子之書。以仁義為其首脳。七篇之中。無一字不自此二字紬繹出来者。其倡性善之説者。亦非徒発明其理。欲使人知其性之善。而擴充之也。故曰。尽其心者。知其性也。又曰。苟不充之。不足以事父母。又曰。苟得其養。無物不長。苟失其養。無物不消。此皆言性之善不可恃焉。而擴充之功不可懈也。故曰。孟子専言道。而教在其中矣。人雖号称好学。然其持志力学。勇往直前。不自暴自棄者。千百之一二焉耳。故性善之説。雖明仁義為己之固有。而其実為自暴自棄者発之也。
書き下し
問ふ、論語は専ら教を言ひて、道其の中に在ることは、既に命を聞くことを獲たり。孟子は専ら道を言ひて、教其の中に在りとは、審らかならず、如何と。曰く、道とは何ぞ。仁義是れなり。孟子の書は、仁義を以て其の首脳と為す。七篇の中、一字として此の二字より紬繹し出で来たらざる者無し。其の性善の説を倡ふる者も、亦た徒らに其の理を発明するに非ず。人をして其の性の善なるを知りて、之を擴充せしめんと欲するなり。故に曰く、其の心を尽くす者は、其の性を知るなりと。又曰く、苟も之を充たさざれば、以て父母に事ふるに足らずと。又曰く、苟も其の養ひを得れば、物として長ぜざる無く、苟も其の養ひを失へば、物として消せざる無しと。此れ皆性の善恃むべからずして、擴充の功懈るべからざるを言ふなり。故に曰く、孟子は専ら道を言ひて、教其の中に在りと。人好学と号称すと雖も、然れども其の志を持し学に力め、勇往直前して、自暴自棄せざる者は、千百の一二のみ。故に性善の説は、仁義の己の固有為るを明らかにすと雖も、而も其の実は自暴自棄する者の為に之を発するなり。
現代語訳
問う。「論語がもっぱら教を言い、道がその中にあることは、すでにお教えいただきました。孟子がもっぱら道を言い、教がその中にあるというのはよく分かりません。どうでしょうか。」答えて言う。「道とは何か。仁義がそれである。孟子の書は仁義を中心とし、七篇の中に、この二字から紡ぎ出されていない字は一つもない。性善の説を唱えたのも、ただその理屈を明らかにするためではない。人に自分の性が善であることを知らせて、それを擴充(押し広げ満たすこと)させようとしたのである。だから『自分の心を尽くす者は、自分の性を知る』と言い、また『もしこれを満たさなければ、父母に仕えることさえできない』と言い、また『もし養いを得れば育たないものはなく、もし養いを失えば消えないものはない』と言った。これらは皆、性の善は頼みにできず、擴充の努力を怠ってはならないことを言っている。だから孟子はもっぱら道を言い、教はその中にあると言うのだ。人は好学と称していても、志を保って学問に励み、勇んでまっすぐ進んで自暴自棄しない者は、千人百人に一人二人にすぎない。だから性善の説は、仁義が自分にもとから具わっていることを明らかにはするが、その実は自暴自棄する者のために説かれたものなのである。」
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『童子問』卷上童子曰く、教誨を蒙ることを獲て、始めて論語一書の実に宇宙第一の書為ることを識る。至幸至恵なり。然れども孟子は性善を道ひて、論語は偏へに学問を以て主と為し、性善の説に於ては、則ち未だ嘗て発明する所有らず。豈に一大欠事に非ずやと。曰く、従前の諸儒、多く此に於て按款を欠く。弁ぜざるを容れず。夫れ性・道・教の三者は、実に学問の綱領なり。凡そ聖人の千言万語、其の多きに堪へずと雖も、然れども此に総括せざるは莫し。請ふ、極めて之を言はん。論語は専ら教を言ひて、道其の中に在り。孟子は専ら道を言ひて、教其の中に在り。其の所謂性善と云ふ者は、本自暴自棄する者の為に之を発す。亦た教なり。論語は専ら教を以て主と為す。故に性の美悪は論ぜざる所に在り。故に曰く、性相近きなり、習相遠きなりと。又曰く、教有りて類無しと。言ふこころは、堯舜より途人に至るまで、其の間相去ること奚ぞ啻に千万のみならんや。然れども其の性を論ずれば、則ち亦た甚だ相遠からず。但だ其の相懸絶すること此の如き所以の者は、皆習に由りて然り。苟も学びて以て之を明らかにし、養ひて以て之を充たさば、則ち皆以て悪を変じて善と為すべし。故に性の善悪は置きて論ぜず。此れ論語の専ら教を言ひて、性を道はざる所以なり。孟子は性善を道ふと雖も、徒らに其の理を論ぜず、必ず擴充と曰ひ、必ず存養と曰ふ。所謂擴充存養と云ふ者は、即ち教に非ずして何ぞや。此れ孟子の性善を道ふと雖も、実は教に非ざること莫き所以なり。吾故に曰く、論孟二書は、猶ほ一幅の布に表裏有りて、精粗無きがごとしと。
-
『童子問』卷中問ふ。仁義を孔孟学問の宗旨と為すは、何ぞや。曰く、孟子の書は、論語の旨を述ぶる者なり。而して仁義の二字は、是れ開巻第一義なり。七篇の書、言言句句、仁義の功を説くに非ざるは莫し。其の性善を言ふは、仁義の実に己に有るを明らかにするなり。浩然の気を言ふは、仁義の功用を論ずるなり。千言万語至つて多端なりと雖も、仁義の二字に総括せざるは莫し。親を親しむより之を充てて、朋友・郷党・識る所の疎薄の人に至り、慈愛の心、周遍浹洽して、底らざる所無く、而して一毫残忍忮害の念無き者、之を仁と謂ふ。一取舎の間より之を充てて、辨別分明、苟も其の義に非ざれば、則ち之に禄するに天下を以てすとも顧みざる者、之を義と謂ふ。他の卓行偉績、取るべき有りと雖も、然れども少しく仁に於て闕くること有れば、則ち皆徳と為すに足らず。義に於て欠くこと有れば、亦之を称するに足らず。智とは、斯の二者を知りて去らざる、是れなり。礼とは、斯の二者を節文する、是れなり。皆仁義の推なり。仁義の孔孟学問の宗旨たる所以は、此を以てなり。
-
『童子問』卷中夫れ道は尊くして対無し。至れり。然れども人をして聖と為り賢と為りて、天下の泰平を開かしむること能はず。其の人をして聖と為り賢と為りて、天下の泰平を開かしむる所以の者は、教への功なり。故に道に次いで貴き者は教へなり。而して道を尽くし教へを受くる者は、性の徳なり。故に性も亦貴し。然れども教へは功有りて、性は為すこと無し。故に性学盛んなれば、則ち教法衰ふ。教法衰ふれば、則ち天下の達道廃る。聖人の深く之を嫉む所なり。所以に論語一書は、専ら教へを言ひて、性を言はず。孟子一書も、亦一として仁義の二字より紬繹し出で来たるに非ざる無し。其の性善を説く者も、亦自暴自棄する者の為にして之を発す。徒に性を以て主と為して説くに非ざるなり。既に理を以て主と為すの弊を看破すること甚だ難し。而して性を以て主と為すの非を知るに至りては、則ち実に古今の難事、学者の牢関なり。実知実徳を具足する者に非ずんば、則ち能はず。夫れ道なる者は、夏は葛にして冬は裘、晨に興きて夜に寐ぬるがごとし。吾が説無しと雖も、後来固より当に之を知る者有るべし。此れ予の自ら恃みて自ら安んずる所以なり。性学の非に至りては、則ち予死するの後、千歳の遠き、知らず復た実に之を見得る者有りや否や。予が呶呶然として已むを得ざる所以は、正に此を以てなり。吁嗟誰か後来の者為らん。当に此の心と期すべし。
-
『童子問』卷下問ふ、向に教誨を蒙る。孟子性善の説は、気質の中に就いて言ふ、気質を離れて之を言ふに非ずと。然るに諸儒の説、紛紛籍籍として、適従すべからず。冀はくは明弁極論して、以て其の帰趣を発せよ。曰く、孟子の性を説く、古今性を言ふの準則なり。諸儒の紛紛の説有る所以の者は、皆孟子を善く読まざるの過ちなり。荀子は専ら教を主とすることを知りて、以為へらく人教へざれば則ち善ならずと。故に性悪を説く。善く教を受くる者は性の善なるを以てなることを知らず。楊子は両端を疑信して、一に帰すること能はず。故に善悪混ずと把る。韓子は以為へらく孟子は其の上を得、荀・揚は各其の中・下を得と。衆説を調停せんと欲して、目して品題を下す。故に性に三品有りと曰ふ。此れ等は皆俗見のみ。程・張二先生に至つて、又本然・気質の論を立て、以為へらく孔子は気質の性を説き、孟子は本然の性を説くと。而して蘇氏・胡氏は又以為へらく性は本善悪の言ふべき無し、孟子之を善と謂ふは讃歎の辞なりと。此れも亦禅説より来る。凡そ此れ等の説は、皆徒に孟子の本旨を知らざるのみに非ず、実に孟子の文義を理会すること能はざる者なり。怪しむべし怪しむべし。
-
『童子問』卷上問ふ、性と教と果たして優劣無きかと。曰く、性は善にして為すこと無く、教は為すこと有りて入り難し。能く入り難きの教を受くる者は、性の善なり。性の善を充たす者は、教の功なり。両者は猶ほ車の両輪有るがごとく、相須ちて相無かるべからず。然れども性は本相近くして、教の功大なりと為す。南山の竹、揉めずして自ら植つは、性の善なり。括して之に羽し、鏃して之を礪げば、則ち其の入ることの深き者は、教の功なり。若し羽せず鏃せずんば、則ち一片の竹条のみ。何の用を成す所ぞ。其の百発百中して、善く隼を高墉の上に射る者は、皆羽して之を鏃するの功なり。此れ論語の専ら教を以て主と為して、孟子の擴充の説を発する所以なり。
-
『童子問』卷上問ふ、孔孟の所謂仁なる者は、其の旨果たして如何。曰く、仁は人道の大本、衆善の総要なり。人道の仁義有るは、猶ほ天道の陰陽有るがごとし。故に曰く、「仁は人の安宅なり。義は人の正路なり」と。両者相離れずして、仁を以て要と為す。故に孔門の諸子は、仁を以て家常茶飯と為して、敢へて其の義を疑ふ者無し。故に論語一書は、皆仁を修むるの方を言ひて、仁の義を言ふ者無し。諸子の問ふ所、夫子の答ふる所、皆是れなり。若し其の義を明らかにせんと欲する者は、当に孟子より入るべし。孟子曰く、「惻隠の心は仁の端なり。人の是の四端有るや、猶ほ其の四体有るがごとし。皆拡めて之を充たすことを知らば、火の始めて然え、泉の始めて達するが若し。苟も能く之を充たせば、以て四海を保つに足る」と。又曰く、「人皆忍びざる所有り。之を其の忍ぶ所に達するは仁なり」と。子能く此の二章を熟読せば、当に自ら其の理を理会し、孔孟の所謂仁なる者に於て、明白分暁にして、復た疑ふべき無かるべし。吾故に曰く、孟子の書は論語の義疏なりと。按ずるに古注疏に曰く、「端は本なり、始めなり」と。四端の心は、生来具足すること、猶ほ其の四体有るがごとし。拡充と云ふ者は、即ち之を達するの謂なり。便ち惻隠の心を拡充して、至らざる所無き、正に是れ仁なり。所謂四海を保つに足るとは、即ち四端の心を拡充して、以て仁義礼智の徳を成すを言ふ。蓋し仁義礼智の徳に非ざれば、則ち以て四海を保つに足らざるを以てなり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る