童子問 / 卷上
道者何。在父子謂之親。君臣謂之義。夫婦謂之別。昆弟謂之序。朋友謂之信。天下古今之所同然也。諸子百家各以其道爲道而不論循性與否。所以爲異端也。苟循人之性。而不可得而離。則爲道。否則非道。故聖人之道。非離性而獨立。亦非謂自性出也。晦菴謂。人物各循其性之自然。則日用之間。莫不各有當行之路。是倒說也。葢性者。以有於己而言。道者。以達於天下而言。易曰。立人之道。曰仁與義是也。故有人則有性。無人則無性。道者。不待有人與無人。本來自有之物。滿于天地。徹于人倫。無時不然。無處不在。豈容謂待人物各循其性之自然。而後有之耶。若晦菴所謂則是性本而道末。性先而道後。豈非倒說乎。
新字:道者何。在父子謂之親。君臣謂之義。夫婦謂之別。昆弟謂之序。朋友謂之信。天下古今之所同然也。諸子百家各以其道為道而不論循性与否。所以為異端也。苟循人之性。而不可得而離。則為道。否則非道。故聖人之道。非離性而独立。亦非謂自性出也。晦菴謂。人物各循其性之自然。則日用之間。莫不各有当行之路。是倒説也。葢性者。以有於己而言。道者。以達於天下而言。易曰。立人之道。曰仁与義是也。故有人則有性。無人則無性。道者。不待有人与無人。本来自有之物。満于天地。徹于人倫。無時不然。無処不在。豈容謂待人物各循其性之自然。而後有之耶。若晦菴所謂則是性本而道末。性先而道後。豈非倒説乎。
書き下し
道とは何ぞ。父子に在りては之を親と謂ひ、君臣には之を義と謂ひ、夫婦には之を別と謂ひ、昆弟には之を序と謂ひ、朋友には之を信と謂ふ。天下古今の同じく然る所なり。諸子百家各其の道を以て道と為して、性に循ふと否とを論ぜず。異端為る所以なり。苟も人の性に循ひて、得て離るべからざれば、則ち道と為し、否ざれば則ち道に非ず。故に聖人の道は、性を離れて独立するに非ず、亦た性より出づと謂ふに非ざるなり。晦菴謂ふ、人物各其の性の自然に循へば、則ち日用の間、各当に行ふべきの路有らざること莫しと。是れ倒説なり。蓋し性とは、己に有るを以て言ひ、道とは、天下に達するを以て言ふ。易に曰く、人の道を立つ、曰く仁と義と、是れなり。故に人有れば則ち性有り、人無ければ則ち性無し。道とは、人有ると人無きとを待たず、本来自ら有るの物にして、天地に満ち、人倫に徹し、時として然らざること無く、処として在らざること無し。豈に人物各其の性の自然に循ふことを待ちて、而る後に之有りと謂ふを容れんや。晦菴の所謂の若きは、則ち是れ性本にして道末、性先にして道後なり。豈に倒説に非ずや。
現代語訳
道とは何か。父子にあってはこれを親といい、君臣にあっては義といい、夫婦にあっては別といい、兄弟にあっては序といい、朋友にあっては信という。天下古今を通じて同じである。諸子百家はそれぞれ自分の道を道として、性に従っているかどうかを論じない。それが異端となる理由である。もし人の性に従っていて離れることができないものであれば、それを道とし、そうでなければ道ではない。だから聖人の道は性を離れて独立しているのでもなく、また性から出てくると言うのでもない。朱子(晦菴)は『人と物がそれぞれ性の自然に従えば、日用の間にそれぞれ行うべき道筋がないことはない』と言った。これは逆さまの説である。思うに、性とは自分に具わっていることについて言い、道とは天下に行き渡っていることについて言う。易に『人の道を立てて、仁と義という』とあるのがこれである。だから人がいれば性があり、人がいなければ性はない。道は、人がいるかいないかにかかわらず、もともと自ずからあるもので、天地に満ち、人倫に行き渡り、いつでもそうであり、どこにでもある。どうして、人と物がそれぞれ性の自然に従うのを待って、その後にはじめて道があるなどと言えようか。朱子の言うとおりなら、性が本で道が末、性が先で道が後ということになる。逆さまの説ではないか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『童子問』卷中問ふ。喩を承く。論語は宇宙第一の書たり、而して仁は孔門第一の字たり、と。然るに大学のごときは、敬を以て要と為し、中庸は誠を以て主と為す。及び詩の思ひ邪無き、書の中、易の時、一書各一書の綱領有り。如何。曰く、人道の仁義有るは、猶ほ天道の陰陽有るがごときなり。仁義を外にして、豈に復た道有らんや。而して仁の義を包むは、猶ほ陽の陰を統ぶるがごとし。故に孔門は仁を以て宗と為し、而して義を以て輔と為す。敬とは此を敬するなり。誠とは此を誠にするなり。詩の思ひ邪無き、書の中、易の時、皆然り。道は本多端無し。故に曰く、吾が道は一以て之を貫く、と。
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『童子問』卷上問ふ、何をか人の外に道無しと謂ふと。曰く、人とは何ぞ。君臣なり、父子なり、夫婦なり、昆弟なり、朋友なり。夫れ道は一のみ。君臣に在りては之を義と謂ひ、父子には之を親と謂ひ、夫婦には之を別と謂ひ、昆弟には之を叙と謂ひ、朋友には之を信と謂ふ。皆人に由りて顕はる。人無ければ則ち以て道を見ること無し。故に曰く、人の外に道無しと。何をか道の外に人無しと謂ふ。曰く、道とは何ぞ。仁なり、義なり、礼なり、智なり。人其の中に囿まれて、須臾も離るることを得ず。離るれば則ち人に非ざるなり。故に曰く、道の外に人無しと。凡そ天地の外・古今の遠きを説きて、人倫に資すること無く、天下国家の治に益すること無き者は、皆邪説の魁なり。設令宇宙の外に復た宇宙有りとも、苟も人其の間に生まるること有らば、必ず当に君臣父子夫婦の倫有りて、仁義礼智の道に循ふべし。故に曰く、人に由りて顕はる、人無ければ則ち以て道を見ること無しと。謹んで此の説を聴き、異説の惑はす所と為ること勿かれ。
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『文武訓』文訓下之末一仁義は道の体なり。文武は仁義の発用なり。文武其事同じからず、其道理は一なり。文は仁の発なり、武は義の発なり。文は人を愛し、衆を和ぐるの道なり。文にあらざれば、民をなつけ衆を安んずる事なし。武は人を戒め衆を厳にするの道なり。
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『童子問』卷上問ふ、伊川先生云ふ、「聖人は未だ嘗て易きを言ひて以て人を驕らしめず、亦未だ嘗て難きを言ひて以て人の進むを阻まず」と。此の語如何。曰く、聖人の言語は、皆其の自然に循ひて、未だ嘗て粃点せず、亦未だ嘗て作弄せず。若し未だ嘗て易きを言はず、亦未だ嘗て難きを言はずと曰はば、則ち是れ聖人言語を以て道を簸弄するなり。語に曰く、「誰か能く出づるに戸に由らざらん。何ぞ斯の道に由ること莫き」と。又曰く、「仁遠からんや。我仁を欲すれば、斯に仁至る」と。又曰く、「未だ之を思はざるなり。夫れ何の遠きことか之有らん」と。孟子曰く、「道は邇きに在り、而るに諸を遠きに求む。事は易きに在り、而るに諸を難きに求む」と。皆其の近くして易きを言ふなり。学者の其の入り難きに苦しむ者は、皆道の実処を知らざるに由るなり。
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『慎思録』巻之三程子曰く、天地生物の気象は、見るべくして言ふべからず。善く此を観る者は、必ず道を知るなり、と。篤信窃かに謂ふ、易に曰く、天地の大徳を生と曰ふ、と。蓋し天地は別に心無く、別に事無し。独り物を生ずるを以て心と為し、且つ以て事と為すのみ。故に能く天地生物の理の四時に行はれ、万物に著はるるを見て、之を黙識する者有らば、即ち此れ道を知るなり。程子の言信ずべし。天地生物の理、人之を受けて以て心と為す。所謂仁なり。温和慈愛、便ち是れ天地生物の気象なり。
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『童子問』卷下儒釈の分かるる所以を問ふ。曰く、聖人は天下と共に斯の善を同じくせんと欲して、天下を離れて独り其の身を善くするを欲せず。故に曰く、吾斯の人の徒と与にするに非ずして誰と与にせん、と。釈氏は則ち然らず。其の言に曰く、天上天下、唯我独尊、と。此れ其の先づ聖人と異なる所以なり。蓋し釈氏は天下を離れて独り其の身を善くせんと欲す。故に其の始初功夫を用ふる処、天下に通じ、万世に達し、須臾も離るべからざる上に在らず。専ら其の一身に就きて意見を生じ、生死の念重く、愛根絶ち難く、心猿意馬、羈束を受けず、乍ち出で乍ち入り、或いは真或いは妄、変現起滅して、奈何ともすべき無しと為す。乃ち山林に屏居し、世故を謝絶し、坐禅面壁して、硬く斯の心を澄清するを以て事と為す。其の修行既に久しく、功夫既に成るに及んでは、忽ち天地万物悉く皆幻妄にして、山川城郭総て空相を現じ、独り此の心のみ孤明歴歴として、万劫尽くること無きを見る。自ら三界を超脱すと謂ひ、遂に人事を廃して修めず、天下を蔑して顧みず、顔を抗げ首を揚げ、肆然として道を談ず。
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