童子問 / 卷上
問。性道敎之分。其詳可得而聞乎。曰。道至矣大矣。固不待論。然不能使人爲聖爲賢。所謂非道弘人。是也。其所以使人爲聖爲賢。開來學而致太平者。皆敎之功也。所謂人能弘道。是也。故道爲上。敎次之。然而。使人之性頑然無智如雞犬然。則雖有百聖賢。不能使其敎而之善。惟其善。故其曉道受敎。不啻若地道之敏樹。故性亦不可不貴。此性道敎之別也。漢宋儒先。多於此顚倒錯說。甚害於道。子其審諸。
新字:問。性道教之分。其詳可得而聞乎。曰。道至矣大矣。固不待論。然不能使人為聖為賢。所謂非道弘人。是也。其所以使人為聖為賢。開来学而致太平者。皆教之功也。所謂人能弘道。是也。故道為上。教次之。然而。使人之性頑然無智如鶏犬然。則雖有百聖賢。不能使其教而之善。惟其善。故其暁道受教。不啻若地道之敏樹。故性亦不可不貴。此性道教之別也。漢宋儒先。多於此顛倒錯説。甚害於道。子其審諸。
書き下し
問ふ、性・道・教の分、其の詳得て聞くべきかと。曰く、道は至れり大なり。固より論を待たず。然れども人をして聖と為り賢と為らしむること能はず。所謂道人を弘むるに非ずとは、是れなり。其の人をして聖と為り賢と為らしめ、来学を開きて太平を致す所以の者は、皆教の功なり。所謂人能く道を弘むとは、是れなり。故に道を上と為し、教之に次ぐ。然り而して、人の性をして頑然として智無きこと鶏犬の如くならしめば、則ち百の聖賢有りと雖も、其れをして教へて善に之かしむること能はず。惟だ其れ善なり。故に其の道を暁り教を受くること、啻に地道の樹に敏きが若きのみならず。故に性も亦た貴ばざるべからず。此れ性・道・教の別なり。漢宋の儒先、多く此に於て顛倒錯説して、甚だ道を害す。子其れ審らかにせよ。
現代語訳
問う。「性・道・教の区別について、詳しくお聞かせいただけますか。」答えて言う。「道は至上であり偉大である。それはもとより論じるまでもない。しかし道が人を聖人や賢人にするわけではない。『道が人を広めるのではない』というのはこのことである。人を聖人や賢人にし、後に学ぶ者の道を開き、太平をもたらすのは、すべて教の働きである。『人がよく道を広める』というのはこのことである。だから道を上とし、教をそれに次ぐものとする。とはいえ、もし人の性が鶏や犬のように頑なで知恵がなければ、百人の聖賢がいても、教えて善に向かわせることはできない。ただ人の性が善であるからこそ、道を理解し教えを受け入れることが、大地が木を速やかに育てるのにも劣らないのである。だから性もまた貴ばなければならない。これが性・道・教の区別である。漢・宋の儒者たちは、多くがこの点を逆さまに取り違えて説き、ひどく道を害した。あなたはよく考えなさい。」
解説
この章句が説くこと
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