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童子問 / 卷上

問。中庸以性道敎爲序。今以道爲上。敎次之。而以性爲盡道受敎之地。其措詞次第。若有不同者。何哉。曰。本與中庸之理無異。但註家錯說耳。中庸言。聖人之道本循人性之自然。而不相離。非若諸子百家之自私用智。而遠人倫日用以爲道也。故曰。率性之謂道。又曰。可離非道也。夫性者。天之賦予於我。而人人所固有。若不論循性與否。則無以見道之邪正。故中庸先擧性而爲言耳。非以性爲貴於道也。

新字:問。中庸以性道教為序。今以道為上。教次之。而以性為尽道受教之地。其措詞次第。若有不同者。何哉。曰。本与中庸之理無異。但註家錯説耳。中庸言。聖人之道本循人性之自然。而不相離。非若諸子百家之自私用智。而遠人倫日用以為道也。故曰。率性之謂道。又曰。可離非道也。夫性者。天之賦予於我。而人人所固有。若不論循性与否。則無以見道之邪正。故中庸先挙性而為言耳。非以性為貴於道也。

書き下し

問ふ、中庸は性・道・教を以て序と為す。今道を以て上と為し、教之に次ぎ、而して性を以て道を尽くし教を受くるの地と為す。其の措詞の次第、同じからざる者有るが若し。何ぞやと。曰く、本中庸の理と異なること無し。但だ註家錯説するのみ。中庸の言は、聖人の道は本人性の自然に循ひて、相離れず、諸子百家の自ら私し智を用ひて、人倫日用を遠ざけて以て道と為すが若きに非ざるを言ふなり。故に曰く、性に率ふ之を道と謂ふと。又曰く、離るべきは道に非ざるなりと。夫れ性とは、天の我に賦予して、人人の固より有する所なり。若し性に循ふと否とを論ぜずんば、則ち以て道の邪正を見ること無し。故に中庸先づ性を挙げて言を為すのみ。性を以て道より貴しと為すに非ざるなり。

現代語訳

問う。「中庸は性・道・教の順序で説いています。いま先生は道を上とし、教をそれに次ぐものとし、性を、道を尽くし教えを受ける土台とされました。言葉の並べ方の順序が中庸と違うように思われます。なぜでしょうか。」答えて言う。「もともと中庸の道理と違うところはない。ただ注釈家が取り違えて説いているだけである。中庸が言っているのは、聖人の道はもともと人の性の自然に従っていて互いに離れず、諸子百家が自分勝手に知恵を用い、人倫日用から遠ざかったものを道とするのとは違う、ということなのだ。だから『性に従うことを道という』と言い、また『離れることのできるものは道ではない』と言った。そもそも性とは天が自分に与えたもので、人それぞれがもとから持っているものである。性に従っているかどうかを論じなければ、道が正しいか邪かを見分けることができない。だから中庸はまず性を挙げて言ったまでであって、性を道より貴いとしたのではない。」

解説

中庸冒頭の「天命之謂性、率性之謂道、修道之謂教」の順序と、仁斎の「道が上、教が次」の整理は矛盾しないか、という問いである。仁斎は、中庸が性を先に挙げたのは、聖人の道が人の性の自然に従うものであることを示すためだと答える。諸子百家のように人倫日用から離れた私智の道とは違うということであり、性を道より貴いとしたのではない。性に従っているかどうかが、道の正邪を見分ける物差しになるのである。仕事のルールや仕組みも、人の自然な心情に沿っているかで、その良し悪しを判断できるのではないだろうか。

この章句が説くこと

中庸性道率性人倫日用

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