童子問 / 卷上
問。先生既以孟子爲論語之義疏。然則學者專讀論語。而至於孟子。則雖不必讀無害歟。曰不然。註者所以求通夫經也。學者不熟讀孟子。必不能達於論語之義。葢論語之津筏也。論語專說修仁義禮智之方。而未嘗發明其義。孟子時。聖遠道湮。大義既乖。故孟子爲學者。諄諄然剖別其義。闡明其理。丁寧詳悉。無復餘蘊。故通七篇之義。而後論語之理。始可明矣。孟子曰。惻隱之心。仁之端也。羞惡之心。義之端也。恭敬之心。禮之端也。是非之心。智之端也。又曰。人皆有所不忍。達之於其所忍。仁也。人皆有所不爲。達之於其所爲。義也。是仁義禮智四字之解也。學者當據此體認熟讀。而後推之於論語。則其義始較然矣。設欲去孟子。而特據論語字面解之。則不惟不得其義。必至於大錯道。從前註解。不愜仁義禮智之義者。正以此也。所以孟子之書。非徒有功于論語。實有功于萬世學者也。其得與論語並稱者。良有以夫。
新字:問。先生既以孟子為論語之義疏。然則学者専読論語。而至於孟子。則雖不必読無害歟。曰不然。註者所以求通夫経也。学者不熟読孟子。必不能達於論語之義。葢論語之津筏也。論語専説修仁義礼智之方。而未嘗発明其義。孟子時。聖遠道湮。大義既乖。故孟子為学者。諄諄然剖別其義。闡明其理。丁寧詳悉。無復余蘊。故通七篇之義。而後論語之理。始可明矣。孟子曰。惻隠之心。仁之端也。羞悪之心。義之端也。恭敬之心。礼之端也。是非之心。智之端也。又曰。人皆有所不忍。達之於其所忍。仁也。人皆有所不為。達之於其所為。義也。是仁義礼智四字之解也。学者当拠此体認熟読。而後推之於論語。則其義始較然矣。設欲去孟子。而特拠論語字面解之。則不惟不得其義。必至於大錯道。従前註解。不愜仁義礼智之義者。正以此也。所以孟子之書。非徒有功于論語。実有功于万世学者也。其得与論語並称者。良有以夫。
書き下し
問ふ、先生既に孟子を以て論語の義疏と為す。然らば則ち学者専ら論語を読みて、孟子に至りては、則ち必ずしも読まずと雖も害無きかと。曰く、然らず。註は夫の経に通ずることを求むる所以なり。学者孟子を熟読せざれば、必ず論語の義に達すること能はず。蓋し論語の津筏なり。論語は専ら仁義礼智を修むるの方を説きて、未だ嘗て其の義を発明せず。孟子の時、聖遠く道湮み、大義既に乖く。故に孟子学者の為に、諄諄然として其の義を剖別し、其の理を闡明し、丁寧詳悉にして、復た余蘊無し。故に七篇の義に通じて、而る後に論語の理始めて明らかにすべし。孟子曰く、惻隠の心は仁の端なり、羞悪の心は義の端なり、恭敬の心は礼の端なり、是非の心は智の端なりと。又曰く、人皆忍びざる所有り、之を其の忍ぶ所に達するは仁なり。人皆為さざる所有り、之を其の為す所に達するは義なりと。是れ仁義礼智四字の解なり。学者当に此に據りて体認熟読して、而る後に之を論語に推すべし。則ち其の義始めて較然たり。設し孟子を去りて、特だ論語の字面に據りて之を解せんと欲せば、則ち惟だに其の義を得ざるのみならず、必ず大いに道を錯るに至らん。従前の註解の、仁義礼智の義に愜はざる者は、正に此を以てなり。所以に孟子の書は、徒だに功を論語に有るのみに非ず、実に功を万世の学者に有り。其の論語と並び称せらるることを得る者は、良に以有るかな。
現代語訳
問う。「先生は孟子を論語の注解とされました。それならば、学ぶ者はもっぱら論語を読み、孟子は必ずしも読まなくても差し支えないのでしょうか。」答えて言う。「そうではない。注解とは経に通じることを求めるためのものだ。孟子を熟読しなければ、必ず論語の意味に到達することはできない。思うに孟子は論語を渡るための渡し舟、いかだである。論語はもっぱら仁義礼智を修める方法を説き、その意味を明らかにしたことはなかった。孟子の時代には聖人が遠く去って道は埋もれ、大義はすでに乱れていた。そこで孟子は学ぶ者のために、懇切にその意味を分析し、その道理を明らかにし、丁寧に詳しく説いて、もう言い残すところがない。だから孟子七篇の意味に通じて、はじめて論語の道理が明らかになるのだ。孟子は『惻隠の心は仁の端(いとぐち)であり、羞悪の心は義の端であり、恭敬の心は礼の端であり、是非の心は智の端である』と言い、また『人には皆、忍びないと思うことがある。それを平気でいられることにまで及ぼしていくのが仁である。人には皆、しないことがある。それをしてしまうことにまで及ぼしていくのが義である』と言った。これが仁義礼智の四字の解釈である。学ぶ者はこれに基づいて身をもって会得し熟読し、そのうえで論語に推し及ぼすべきだ。そうすれば意味ははじめてはっきりする。もし孟子を除いて、ただ論語の字面だけで解釈しようとすれば、その意味を得られないばかりか、必ず大いに道を誤ることになる。これまでの注釈が仁義礼智の意味にかなわないのは、まさにこのためである。だから孟子の書は、論語に功があるだけでなく、実に万世の学者に功がある。論語と並び称されるのは、まことに理由のあることだ。」
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『童子問』卷下問ふ、老氏の虚無と、釈氏の寂滅と、亦異なる所有りや。曰く、浅深有るがごとしと雖も、然れども其の帰は則ち一なり。老氏は天地万物を以て皆虚無と為し、釈氏は天地万物を以て総べて寂滅と為す。後漢書に云ふ、其の道虚無を以て宗と為すと。是れのみ。其の他種種奇特神通を説くは、皆方便の説のみ。老氏に至つては反つて之無し。仏は慈悲済度を以て主と為す。禅に至つては、則ち一向に棄て去る。理を説くこと至つて高ければ、必ず此に到らざることを得ず。其の慈悲済度を主とするは、仁に似たり。然れども義を知らざるは、則ち一なり。殊に知らず、義は天下の大路にして、一日も離るべからざることを。老氏も亦然り。
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『五常訓』巻之四・義一尚書に、礼を以て心を制し、義を以て事を制すといへり。礼は敬のみ。敬して心の私曲を制するなり。義を以て事を制すとは、万事を行ふに、其事に宜しく制するなり。制すとは、たとへば長きを断ちてよき程にし、多きをへらしてよき程にするが如し。物を裁判してよきやうにするを云ふ。是仁をたすくるなり。一年の功も、春夏生長するは仁なり。秋冬収蔵するは義なり。収蔵とは、草木零落し、生気をさまりて、根にかへるを云ふ。仁ありて、義なければ、たとへば春夏の生長するばかりにて、秋冬の収蔵なければ、万物成就せざるが如し。子を育つる一事を以ていはば、子を愛するは仁なり。子の悪を戒むるは義なり。愛せざれば、恩なくして他人の如し。愛のみにて戒めざれば、其子不義にながれ、悪におち入りて、わざはひとなる故、姑息して愛するが、かへりてあたとなりて、真の愛にあらず。
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司馬法・嚴位故に心は仁に中(あた)り、行いは義に中る、物に堪うるは智なり、大に堪うるは勇なり、久しきに堪うるは信なり。
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『武士道』第五章 仁・愛不忍の心・義に過ぐれば固くなる而して又たここに予の、更に此問題に就きて一引証を加ふることを許せ。されば近時独逸皇帝の、コブレンツに於てせる演説の一句を挙げんか。曰く、『神恩によつて王たるものは、之に伴ふ重大なる責任あり。而してひとり、造物主に対して甚大なる責務を有し、人も大臣も国会も、君王をして能く此れより免れしむること能はず』と。仁は温和なる徳なり、母の心なり。端正なる節義、厳厲なる公正を以て男性的なりとせば、仁愛の柔和にして人を服するは、即ち女性的なりと云ふを得べきか。されど仁愛に加ふるに正義を以てせずして、漫に之に流るるは、人の深く戒むべき所にして、伊達政宗の言にも是れあり、『義に過ぐれば固くなる。仁に過ぐれば弱くなる』と。仁は美はしくて又た遍し。
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