大学或問 / 『大学或問』神道再興と三種の神器
十七神道再興の事、 (問)神道の再興すべき事いかゞ、 (答)今世間に神道といへるは昔の社家の法なり、神道にはあらで神職の人の心用ひの作法なり、それを潤色して神書とし神道とす、日本紀を第一とすれども漸く陰陽大極の皮膚をいへるのみ、其外の祓などは神代上下にも及ばず、本邦の神書とすべき書は見えず、唯三種の神器のみ、此國の神書なり、上古は文字もなく書もなし、心の智仁勇を三種の象によりて示し給へり、玉の温潤にして光明なるを仁德にかたどれり、鏡の靈明にしてよく善惡をわかつを智の靈明に象り給ふ、劔の剛にしてよく斷制するを以て勇の神武に象り給へり、易の八卦六十四卦の象の如し、智仁勇は天下の達德なり、此三種の象を注解して經傳とせばこれに過たる神書あらじ、三種の注解は中庸に若くはなし、唐土の聖人日本の神人その德一なり其道不二なり、故に其象其書符節を合せたるが如し、天下を知る人は神の主なり、何れの時にても其下の主たる人、智仁勇の德を明かにして時所位に叶ひ、人情事變に應じて天下を始め給ふ德行は神道となり、其跡をしるしたる書は神書となるべし、天照皇の御代は德治なり、今其德治を述て文明の國となし給はゞ、神道の再興なるべし、世間に神道といへるは一事の神道にて全き事にあらざる事を知るべし、道は天地の神道なり、唐土の聖人の道本邦の神人の道皆天地の神道なり、本邦にて神といへるはかゞみの中のかを略してかみといへり、鏡のごとく智明かなる人といふ意なり、唐土にても聖人を神聖といへり、聖人には神明の德あればなり、神は形なくして用あり、人は形ありて所作あり、神は有形の所作に及ばず、人は無形の妙用に及ばず、神と人とを兼たるものは聖人なり、
新字:十七神道再興の事、 (問)神道の再興すべき事いかゞ、 (答)今世間に神道といへるは昔の社家の法なり、神道にはあらで神職の人の心用ひの作法なり、それを潤色して神書とし神道とす、日本紀を第一とすれども漸く陰陽大極の皮膚をいへるのみ、其外の祓などは神代上下にも及ばず、本邦の神書とすべき書は見えず、唯三種の神器のみ、此国の神書なり、上古は文字もなく書もなし、心の智仁勇を三種の象によりて示し給へり、玉の温潤にして光明なるを仁徳にかたどれり、鏡の霊明にしてよく善悪をわかつを智の霊明に象り給ふ、剣の剛にしてよく断制するを以て勇の神武に象り給へり、易の八卦六十四卦の象の如し、智仁勇は天下の達徳なり、此三種の象を注解して経伝とせばこれに過たる神書あらじ、三種の注解は中庸に若くはなし、唐土の聖人日本の神人その徳一なり其道不二なり、故に其象其書符節を合せたるが如し、天下を知る人は神の主なり、何れの時にても其下の主たる人、智仁勇の徳を明かにして時所位に叶ひ、人情事変に応じて天下を始め給ふ徳行は神道となり、其跡をしるしたる書は神書となるべし、天照皇の御代は徳治なり、今其徳治を述て文明の国となし給はゞ、神道の再興なるべし、世間に神道といへるは一事の神道にて全き事にあらざる事を知るべし、道は天地の神道なり、唐土の聖人の道本邦の神人の道皆天地の神道なり、本邦にて神といへるはかゞみの中のかを略してかみといへり、鏡のごとく智明かなる人といふ意なり、唐土にても聖人を神聖といへり、聖人には神明の徳あればなり、神は形なくして用あり、人は形ありて所作あり、神は有形の所作に及ばず、人は無形の妙用に及ばず、神と人とを兼たるものは聖人なり、
書き下し
十七神道再興の事、 (問)神道の再興すべき事いかゞ、 (答)今世間に神道といへるは昔の社家の法なり、神道にはあらで神職の人の心用ひの作法なり、それを潤色して神書とし神道とす、日本紀を第一とすれども漸く陰陽大極の皮膚をいへるのみ、其外の祓などは神代上下にも及ばず、本邦の神書とすべき書は見えず、唯三種の神器のみ、此國の神書なり、上古は文字もなく書もなし、心の智仁勇を三種の象によりて示し給へり、玉の温潤にして光明なるを仁德にかたどれり、鏡の靈明にしてよく善惡をわかつを智の靈明に象り給ふ、劔の剛にしてよく斷制するを以て勇の神武に象り給へり、易の八卦六十四卦の象の如し、智仁勇は天下の達德なり、此三種の象を注解して經傳とせばこれに過たる神書あらじ、三種の注解は中庸に若くはなし、唐土の聖人日本の神人その德一なり其道不二なり、故に其象其書符節を合せたるが如し、天下を知る人は神の主なり、何れの時にても其下の主たる人、智仁勇の德を明かにして時所位に叶ひ、人情事變に應じて天下を始め給ふ德行は神道となり、其跡をしるしたる書は神書となるべし、天照皇の御代は德治なり、今其德治を述て文明の國となし給はゞ、神道の再興なるべし、世間に神道といへるは一事の神道にて全き事にあらざる事を知るべし、道は天地の神道なり、唐土の聖人の道本邦の神人の道皆天地の神道なり、本邦にて神といへるはかゞみの中のかを略してかみといへり、鏡のごとく智明かなる人といふ意なり、唐土にても聖人を神聖といへり、聖人には神明の德あればなり、神は形なくして用あり、人は形ありて所作あり、神は有形の所作に及ばず、人は無形の妙用に及ばず、神と人とを兼たるものは聖人なり、
現代語訳
十七 神道再興のこと 問う。神道を再興することはどうか。 答える。いま世間で神道というのは、昔の社家の法である。神道ではなく、神職の人の心遣いの作法である。それを潤色して神書とし神道としている。日本紀を第一とするが、ようやく陰陽太極の表面を述べているに過ぎない。そのほかの祓などは、神代の上下巻にも及ばず、本邦の神書とすべき書は見当たらない。ただ三種の神器だけが、この国の神書である。上古は文字もなく書もなかった。心の智・仁・勇を三種の象によって示された。玉の温潤で光り輝くのを仁徳になぞらえた。鏡の霊妙で善悪をよく分けるのを、智の霊明になぞらえられた。剣の剛くてよく断ち制するのを、勇の神武になぞらえられた。易の八卦・六十四卦の象のようなものである。智・仁・勇は天下の達徳である。この三種の象を注解して経伝とすれば、これに勝る神書はあるまい。三種の注解は『中庸』に及ぶものはない。中国の聖人と日本の神人は、その徳は一つ、その道は二つとない。ゆえにその象も書も、符節を合わせたようである。天下を知る人は神の主である。いつの時代でも、その下の主たる人が、智・仁・勇の徳を明らかにして時・所・位にかない、人情・事変に応じて天下を始められた徳行は神道となり、その跡を記した書は神書となるだろう。天照皇の御代は徳治であった。いまその徳治を述べて文明の国となされるなら、神道の再興であろう。世間で神道というのは一事の神道であって、全きものではないと知るべきである。道は天地の神道である。中国の聖人の道も本邦の神人の道も、みな天地の神道である。本邦で神というのは、鏡の中の「か」を略して「かみ」といったのである。鏡のように智の明らかな人という意味である。中国でも聖人を神聖という。聖人には神明の徳があるからである。神は形がなくて用がある。人は形があって所作がある。神は有形の所作には及ばず、人は無形の妙用には及ばない。神と人を兼ねる者が聖人である。
解説

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