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中朝事実 / 化功章・外夷来帰し化功の極みを論ず

崇神帝六十五年秋七月。任那國遣蘇那葛叱知。令朝貢也。任那者。去筑紫國。二千餘里。北阻海。以在雞林之西南。 一書曰。崇神朝。額有角人乘一船。泊于越國笥飯浦。故號其處曰角鹿也。問之曰。何國人也。對曰。意富加羅國王之子。名都怒我阿羅斯等。亦名曰于斯岐阿利叱智于岐。傳聞日本國有聖皇。以歸化之到于穴門。時其國有人。名伊都都比古。謂臣曰。吾則是國王也。除吾復無二王。故勿往他處。然臣究見其爲人。必知非王也。即更還之。不知道路。留連島浦。自北海廻之。經出雲國。至於此間也。是時遇天皇崩。便留之仕活目天皇。逮于三年。天皇問都怒我阿羅斯等曰。欲歸汝國耶。對諮。甚望也。天皇詔阿羅斯等曰。汝不迷道必速詣之。遇先皇而仕歟。是以改汝本國名。追負御間城天皇御名。便爲汝國名。仍以赤織絹給阿羅斯等。返于本土。故號其國謂彌摩那國。其是之緣也。 謹按。是外夷投化之始也。帝小心明德。國內漸謐。五穀既熟。敎化大行。天下稱謂御肇國天皇。故外夷亦投化。聖德之隆。可以見之也。 垂仁帝三年春三月。新羅王子天日槍來歸焉。將來物。羽太玉一箇。足高玉一箇。鵜鹿鹿赤石玉一箇。出石小刀一口。出石桙一枝。日鏡一面。熊神籬一具。幷七物。則藏于但馬國。常爲神物也。 一書曰。初天日槍乘艇泊于播磨國。在於宍粟邑。時天皇遣三輪君祖大友主與倭直祖長尾市於播磨。而問天日槍曰。汝也誰人。且何國人也。天日槍對曰。僕新羅國主之子也。然聞日本國有聖皇。則以己國授弟知古。而化歸之。仍貢獻八物。 謹按。崇神・垂仁二帝之德化及外夷。遠人重譯來朝貢獻。聖德治敎之餘。仁風遠揚之至。其柔懷懿哉。 應神帝十四年。弓月君自百濟來歸。因以奏之曰。臣領己國之人夫百二十縣而歸化。然因新羅人之拒。皆留加羅國。爰遣葛城襲津彥而召之。十六年乃率弓月之人夫來 二十年秋九月。倭漢直祖阿知使主・其子都加使主・並率己之黨類十七縣而來歸。 一書曰。至於輕島豐明朝。秦公祖弓月。率百二十縣民而歸化矣。漢直祖阿知使主率十七縣民而來朝焉。秦・漢・百濟・內附之民各以萬計。 謹按。遠人之來化。於此最盛也。秦漢二氏者。外朝之封疆也。皆來歸之。況三韓之來服乎。故國國置其人。立其郡。以安之柔之。其後吳王朝貢。渤海武藝奉表獻土宜。皆中朝治敎休明之化也。〔吳王朝貢在仁德五十八年。渤海王武藝上表者在神龜。渤海者。本粟末靺鞨附高麗者。姓大氏。高麗滅。率衆保挹婁之東牟山。築城以居。高麗遺殘稍歸之。地方五千里。戶十萬戶。唐睿宗先天中。遣使爲渤海郡王。自是始去靺鞨號。武藝者祚榮之子。稱武王。武藝立朝貢。武藝死。子欽茂立。稱文王。又上表朝貢。〕 以上論功化之極。 謹按。地有內外。勢有遠近。人有華夷。故治敎之道。自內而及外。先近而後遠。親華而柔夷。夫朝廷之上。國都之內。何預四夷之遠疎乎。然內之和。近之治。華之溢。知之明也。德之充也。無不通。無不感者。道之精妙也。四夷不遠千里之險。萬頃之渺。歸仰投化。畢獻方物。不期其然而然者。中華之文明。聖王之治敎。天以授之。人以與之。實過化之極功也。

新字:崇神帝六十五年秋七月。任那国遣蘇那葛叱知。令朝貢也。任那者。去筑紫国。二千余里。北阻海。以在鶏林之西南。 一書曰。崇神朝。額有角人乗一船。泊于越国笥飯浦。故号其処曰角鹿也。問之曰。何国人也。対曰。意富加羅国王之子。名都怒我阿羅斯等。亦名曰于斯岐阿利叱智于岐。伝聞日本国有聖皇。以帰化之到于穴門。時其国有人。名伊都都比古。謂臣曰。吾則是国王也。除吾復無二王。故勿往他処。然臣究見其為人。必知非王也。即更還之。不知道路。留連島浦。自北海廻之。経出雲国。至於此間也。是時遇天皇崩。便留之仕活目天皇。逮于三年。天皇問都怒我阿羅斯等曰。欲帰汝国耶。対諮。甚望也。天皇詔阿羅斯等曰。汝不迷道必速詣之。遇先皇而仕歟。是以改汝本国名。追負御間城天皇御名。便為汝国名。仍以赤織絹給阿羅斯等。返于本土。故号其国謂弥摩那国。其是之縁也。 謹按。是外夷投化之始也。帝小心明徳。国内漸謐。五穀既熟。教化大行。天下称謂御肇国天皇。故外夷亦投化。聖徳之隆。可以見之也。 垂仁帝三年春三月。新羅王子天日槍来帰焉。将来物。羽太玉一箇。足高玉一箇。鵜鹿鹿赤石玉一箇。出石小刀一口。出石桙一枝。日鏡一面。熊神籬一具。幷七物。則蔵于但馬国。常為神物也。 一書曰。初天日槍乗艇泊于播磨国。在於宍粟邑。時天皇遣三輪君祖大友主与倭直祖長尾市於播磨。而問天日槍曰。汝也誰人。且何国人也。天日槍対曰。僕新羅国主之子也。然聞日本国有聖皇。則以己国授弟知古。而化帰之。仍貢献八物。 謹按。崇神・垂仁二帝之徳化及外夷。遠人重訳来朝貢献。聖徳治教之余。仁風遠揚之至。其柔懐懿哉。 応神帝十四年。弓月君自百済来帰。因以奏之曰。臣領己国之人夫百二十県而帰化。然因新羅人之拒。皆留加羅国。爰遣葛城襲津彦而召之。十六年乃率弓月之人夫来 二十年秋九月。倭漢直祖阿知使主・其子都加使主・並率己之党類十七県而来帰。 一書曰。至於軽島豊明朝。秦公祖弓月。率百二十県民而帰化矣。漢直祖阿知使主率十七県民而来朝焉。秦・漢・百済・内附之民各以万計。 謹按。遠人之来化。於此最盛也。秦漢二氏者。外朝之封疆也。皆来帰之。況三韓之来服乎。故国国置其人。立其郡。以安之柔之。其後呉王朝貢。渤海武芸奉表献土宜。皆中朝治教休明之化也。〔呉王朝貢在仁徳五十八年。渤海王武芸上表者在神亀。渤海者。本粟末靺鞨附高麗者。姓大氏。高麗滅。率衆保挹婁之東牟山。築城以居。高麗遺残稍帰之。地方五千里。戸十万戸。唐睿宗先天中。遣使為渤海郡王。自是始去靺鞨号。武芸者祚栄之子。称武王。武芸立朝貢。武芸死。子欽茂立。称文王。又上表朝貢。〕 以上論功化之極。 謹按。地有内外。勢有遠近。人有華夷。故治教之道。自内而及外。先近而後遠。親華而柔夷。夫朝廷之上。国都之内。何預四夷之遠疎乎。然内之和。近之治。華之溢。知之明也。徳之充也。無不通。無不感者。道之精妙也。四夷不遠千里之険。万頃之渺。帰仰投化。畢献方物。不期其然而然者。中華之文明。聖王之治教。天以授之。人以与之。実過化之極功也。

書き下し

崇神帝六十五年秋七月、任那国、蘇那曷叱知を遣はして、朝貢せしむ。任那とは、筑紫国を去ること二千余里。北は海に阻てられ、鶏林の西南に在り。 一書に曰はく、崇神の朝に、額に角有る人、一つの船に乗りて、越国の笥飯浦に泊れり。故に其の処を号けて角鹿と曰ふ。問ひて曰はく、「何れの国の人ぞ」と。対へて曰はく、「意富加羅国の王の子、名は都怒我阿羅斯等、亦の名は于斯岐阿利叱智于岐なり。伝へ聞く、日本国に聖皇有りと。以て帰化せむとして穴門に到る。時に其の国に人有り、名は伊都都比古、臣に謂ひて曰はく、吾は則ち是の国の王なり。吾を除きて復た二王無し。故に他処に往くこと勿かれと。然れども臣、其の為人を究め見て、必ず王に非ざるを知れり。即ち更に還る。道路を知らず、島浦に留連し、北海より廻りて、出雲国を経て、此の間に至れり」と。是の時、天皇の崩に遇ひ、便ち留まりて活目天皇に仕へ、三年に逮ぶ。天皇、都怒我阿羅斯等に問ひて曰はく、「汝の国に帰らむと欲ふか」と。対へ諮さく、「甚だ望むなり」と。天皇、阿羅斯等に詔して曰はく、「汝、道に迷はずして必ず速やかに詣れり。先皇に遇ひて仕へまつらましか。是を以て、汝の本の国の名を改めて、追ひて御間城天皇の御名を負ひて、便ち汝の国の名と為せ」と。仍りて赤織の絹を以て阿羅斯等に給ひて、本土に返す。故に其の国を号けて弥摩那国と謂ふ。其れ是の縁なり。 謹按。是れ外夷投化の始めなり。帝は小心にして徳を明らかにし、国内漸く謐かなり。五穀既に熟し、教化大いに行はる。天下称して御肇国天皇と謂ふ。故に外夷も亦投化す。聖徳の隆んなること、以て見るべきなり。 垂仁帝三年春三月、新羅の王子天日槍来帰す。将来せる物は、羽太玉一箇、足高玉一箇、鵜鹿鹿の赤石玉一箇、出石の小刀一口、出石の桙一枝、日鏡一面、熊の神籬一具、并せて七物なり。則ち但馬国に蔵め、常に神物と為す。 一書に曰はく、初め天日槍、艇に乗りて播磨国に泊れり。宍粟邑に在り。時に天皇、三輪君の祖大友主と倭直の祖長尾市とを播磨に遣はして、天日槍に問はしめて曰はく、「汝は誰人ぞ。且つ何れの国の人ぞ」と。天日槍対へて曰はく、「僕は新羅国主の子なり。然れども日本国に聖皇有りと聞き、則ち己が国を以て弟知古に授けて、化して帰る」と。仍りて八物を貢献す。 謹按。崇神・垂仁二帝の徳化、外夷に及び、遠人重訳して来朝貢献す。聖徳治教の余り、仁風遠く揚がるの至りなり。其の柔懐、懿なるかな。 応神帝十四年、弓月君、百済より来帰す。因りて奏して曰はく、「臣、己が国の人夫百二十県を領ゐて帰化す。然れども新羅人の拒むに因りて、皆加羅国に留まる」と。爰に葛城襲津彦を遣はして召す。十六年、乃ち弓月の人夫を率ゐて来る。 二十年秋九月、倭漢直の祖阿知使主・其の子都加使主、並びに己の党類十七県を率ゐて来帰す。 一書に曰はく、軽島豊明の朝に至りて、秦公の祖弓月、百二十県の民を率ゐて帰化す。漢直の祖阿知使主、十七県の民を率ゐて来朝す。秦・漢・百済、内附の民、各々万を以て計ふ。 謹按。遠人の来化、此に於いて最も盛んなり。秦・漢の二氏は、外朝の封疆なり。皆来帰す。況んや三韓の来服をや。故に国国に其の人を置き、其の郡を立て、以て之を安んじ之を柔らぐ。其の後、呉王朝貢し、渤海の武芸、表を奉り土宜を献ず。皆中朝の治教休明の化なり。〔呉王の朝貢は仁徳五十八年に在り。渤海王武芸の上表は神亀に在り。渤海とは、本は粟末靺鞨にして高麗に附く者。姓は大氏。高麗滅びて、衆を率ゐて挹婁の東牟山を保ち、城を築きて以て居る。高麗の遺残稍く之に帰す。地は方五千里、戸は十万戸。唐の睿宗の先天中、使を遣はして渤海郡王と為す。是より始めて靺鞨の号を去る。武芸とは祚栄の子、武王と称す。武芸立ちて朝貢す。武芸死して、子欽茂立ち、文王と称す。又上表朝貢す。〕 以上、功化の極を論ず。 謹按。地に内外有り、勢に遠近有り、人に華夷有り。故に治教の道は、内より外に及び、近きを先にして遠きを後にし、華に親しみて夷を柔らぐ。夫れ朝廷の上、国都の内、何ぞ四夷の遠疎に預からむや。然れども内の和、近きの治、華の溢れは、知の明らかなるなり。徳の充てるなり。通ぜざる無く、感ぜざる無き者は、道の精妙なり。四夷、千里の険、万頃の渺を遠しとせず、帰仰投化し、畢く方物を献ずるは、期せずして然るなり。中華の文明、聖王の治教、天以て之に授け、人以て之に与ふ。実に過化の極功なり。

現代語訳

崇神帝の六十五年秋七月、任那国が蘇那曷叱知を遣わして朝貢させた。任那とは、筑紫国から二千余里離れている。北は海に隔てられ、鶏林(新羅)の西南にある。 一書にいう。崇神の朝に、額に角のある人が一艘の船に乗って越国の笥飯浦に停泊した。そこでその地を角鹿と名づけた。問うて言った。「どこの国の人か。」答えた。「意富加羅国の王の子で、名は都怒我阿羅斯等、またの名を于斯岐阿利叱智于岐といいます。日本国に聖皇がいると伝え聞き、帰化しようとして穴門に着きました。そのとき、その国に人がいて、名は伊都都比古といい、私に、自分はこの国の王である、自分のほかに二人の王はいない、だから他の所へ行くなと言いました。しかし私はその人柄をよく見て、王ではないと知りました。そこで引き返しましたが、道がわからず、島や浦に留まり、北海を回って、出雲国を経て、ここに至りました。」このとき天皇が崩じたので、そのまま留まって活目天皇に仕え、三年に及んだ。天皇は都怒我阿羅斯等に問うた。「お前は国へ帰りたいか。」答えて申し上げた。「たいへん望みます。」天皇は阿羅斯等に詔した。「お前が道に迷わずに早く来ていたら、先皇にお会いして仕えられただろう。そこで、お前の本の国の名を改め、先皇の御間城天皇の御名を負って、お前の国の名とせよ。」そして赤い織物の絹を阿羅斯等に与えて、本土に帰した。それでその国を弥摩那国と名づけた。これがその由来である。 素行はこう考える。これは外夷が帰化した始めである。帝は慎み深く徳を明らかにし、国内はしだいに静まった。五穀は実り、教化は大いに行われた。天下は称して御肇国天皇といった。それで外夷も帰化した。聖徳の盛んなことを、ここから見ることができる。 垂仁帝の三年春三月、新羅の王子の天日槍が来て帰属した。持参した物は、羽太玉一つ、足高玉一つ、鵜鹿鹿の赤石玉一つ、出石の小刀一口、出石の桙一本、日鏡一面、熊の神籬一具、合わせて七つの物である。これを但馬国に納め、常に神宝とした。 一書にいう。初め天日槍は小船に乗って播磨国に停泊した。宍粟邑にいた。そのとき天皇は、三輪君の祖の大友主と倭直の祖の長尾市を播磨に遣わし、天日槍に問わせた。「お前は誰か。またどこの国の人か。」天日槍は答えた。「私は新羅国主の子です。しかし日本国に聖皇がいると聞き、自分の国を弟の知古に授けて、帰化して来ました。」そして八つの物を献上した。 素行はこう考える。崇神帝と垂仁帝の二帝の徳化は外夷に及び、遠い国の人が通訳を重ねて来朝し貢ぎ物を献じた。聖徳による治教の余りが、仁風となって遠くまで揚がった至りである。その懐柔はうるわしいことよ。 応神帝の十四年、弓月君が百済から来て帰属した。そこで奏上した。「私は自分の国の人夫百二十県を率いて帰化しようとしました。しかし新羅人が拒んだため、みな加羅国に留まっています。」そこで葛城襲津彦を遣わして召した。十六年、弓月の人夫を率いて来た。 二十年秋九月、倭漢直の祖の阿知使主と、その子の都加使主が、仲間の十七県の人を率いて来て帰属した。 一書にいう。軽島豊明の朝に至って、秦公の祖の弓月が百二十県の民を率いて帰化した。漢直の祖の阿知使主が十七県の民を率いて来朝した。秦・漢・百済の帰属した民は、それぞれ万の単位で数えられる。 素行はこう考える。遠い人々の来化は、ここで最も盛んになった。秦と漢の二氏は、外朝(中国)の境の人々である。それらがみな来て帰属した。まして三韓が来て服したのはなおさらである。それで国々にその人々を置き、郡を立てて、安んじ、懐柔した。その後、呉王が朝貢し、渤海の武芸が表を奉って土産を献じた。みな中朝の治教が行き届いたことによる感化である。(呉王の朝貢は仁徳五十八年にある。渤海王武芸の上表は神亀にある。渤海とは、もとは粟末靺鞨で高麗に属した者。姓は大氏。高麗が滅びて、衆を率いて挹婁の東牟山に拠り、城を築いて居た。高麗の残党がしだいにこれに帰した。領地は方五千里、戸は十万戸。唐の睿宗の先天年間に、使いを遣わして渤海郡王とした。これより靺鞨の号を去った。武芸は祚栄の子で、武王と称した。武芸が立って朝貢した。武芸が死んで、子の欽茂が立ち、文王と称した。また上表して朝貢した。) 以上、教化の極みを論じた。 素行はこう考える。地には内と外があり、勢いには遠近があり、人には華と夷がある。だから治教の道は、内から外に及び、近いものを先にして遠いものを後にし、華に親しんで夷を懐柔する。朝廷の上、国都の内では、遠い四夷にかかずらうことはない。しかし内の和、近くの治、華の溢れ出るものは、知が明らかで徳が満ちているからである。通じないところなく、感じないものもないのは、道の精妙である。四夷が千里の険しさや万頃の広さを遠しとせず、慕って帰属し、特産品をすべて献じるのは、期せずして然るのである。中華(日本)の文明と聖王の治教を、天がこれに授け、人がこれに与えた。まことに感化の極みである。

解説

崇神朝から応神朝にかけての渡来人の記事を並べ、素行が日本の徳による感化と結びつけた段です。『日本書紀』には、任那の使い、角のある人、新羅の王子、秦氏や漢氏の来帰が記されます。素行はこれを日本の聖徳の及ぶ範囲とし、治教は内から外へ、近くから遠くへと説きます。華夷の秩序で見る点は素行の主張で、日本が文明の中心だという前提に立ちます。一方、外から人が集まり、郡を置いて安んじたという記述は、良い人材が集まる組織は内側の風通しが良いという、現代の人材観にも読み替えられます。
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この章句が説くこと

帰化渡来人秦氏漢氏天日槍三韓

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