中朝事実 / 化功章・外夷来帰し化功の極みを論ず
崇神帝六十五年秋七月。任那國遣蘇那葛叱知。令朝貢也。任那者。去筑紫國。二千餘里。北阻海。以在雞林之西南。 一書曰。崇神朝。額有角人乘一船。泊于越國笥飯浦。故號其處曰角鹿也。問之曰。何國人也。對曰。意富加羅國王之子。名都怒我阿羅斯等。亦名曰于斯岐阿利叱智于岐。傳聞日本國有聖皇。以歸化之到于穴門。時其國有人。名伊都都比古。謂臣曰。吾則是國王也。除吾復無二王。故勿往他處。然臣究見其爲人。必知非王也。即更還之。不知道路。留連島浦。自北海廻之。經出雲國。至於此間也。是時遇天皇崩。便留之仕活目天皇。逮于三年。天皇問都怒我阿羅斯等曰。欲歸汝國耶。對諮。甚望也。天皇詔阿羅斯等曰。汝不迷道必速詣之。遇先皇而仕歟。是以改汝本國名。追負御間城天皇御名。便爲汝國名。仍以赤織絹給阿羅斯等。返于本土。故號其國謂彌摩那國。其是之緣也。 謹按。是外夷投化之始也。帝小心明德。國內漸謐。五穀既熟。敎化大行。天下稱謂御肇國天皇。故外夷亦投化。聖德之隆。可以見之也。 垂仁帝三年春三月。新羅王子天日槍來歸焉。將來物。羽太玉一箇。足高玉一箇。鵜鹿鹿赤石玉一箇。出石小刀一口。出石桙一枝。日鏡一面。熊神籬一具。幷七物。則藏于但馬國。常爲神物也。 一書曰。初天日槍乘艇泊于播磨國。在於宍粟邑。時天皇遣三輪君祖大友主與倭直祖長尾市於播磨。而問天日槍曰。汝也誰人。且何國人也。天日槍對曰。僕新羅國主之子也。然聞日本國有聖皇。則以己國授弟知古。而化歸之。仍貢獻八物。 謹按。崇神・垂仁二帝之德化及外夷。遠人重譯來朝貢獻。聖德治敎之餘。仁風遠揚之至。其柔懷懿哉。 應神帝十四年。弓月君自百濟來歸。因以奏之曰。臣領己國之人夫百二十縣而歸化。然因新羅人之拒。皆留加羅國。爰遣葛城襲津彥而召之。十六年乃率弓月之人夫來 二十年秋九月。倭漢直祖阿知使主・其子都加使主・並率己之黨類十七縣而來歸。 一書曰。至於輕島豐明朝。秦公祖弓月。率百二十縣民而歸化矣。漢直祖阿知使主率十七縣民而來朝焉。秦・漢・百濟・內附之民各以萬計。 謹按。遠人之來化。於此最盛也。秦漢二氏者。外朝之封疆也。皆來歸之。況三韓之來服乎。故國國置其人。立其郡。以安之柔之。其後吳王朝貢。渤海武藝奉表獻土宜。皆中朝治敎休明之化也。〔吳王朝貢在仁德五十八年。渤海王武藝上表者在神龜。渤海者。本粟末靺鞨附高麗者。姓大氏。高麗滅。率衆保挹婁之東牟山。築城以居。高麗遺殘稍歸之。地方五千里。戶十萬戶。唐睿宗先天中。遣使爲渤海郡王。自是始去靺鞨號。武藝者祚榮之子。稱武王。武藝立朝貢。武藝死。子欽茂立。稱文王。又上表朝貢。〕 以上論功化之極。 謹按。地有內外。勢有遠近。人有華夷。故治敎之道。自內而及外。先近而後遠。親華而柔夷。夫朝廷之上。國都之內。何預四夷之遠疎乎。然內之和。近之治。華之溢。知之明也。德之充也。無不通。無不感者。道之精妙也。四夷不遠千里之險。萬頃之渺。歸仰投化。畢獻方物。不期其然而然者。中華之文明。聖王之治敎。天以授之。人以與之。實過化之極功也。
新字:崇神帝六十五年秋七月。任那国遣蘇那葛叱知。令朝貢也。任那者。去筑紫国。二千余里。北阻海。以在鶏林之西南。 一書曰。崇神朝。額有角人乗一船。泊于越国笥飯浦。故号其処曰角鹿也。問之曰。何国人也。対曰。意富加羅国王之子。名都怒我阿羅斯等。亦名曰于斯岐阿利叱智于岐。伝聞日本国有聖皇。以帰化之到于穴門。時其国有人。名伊都都比古。謂臣曰。吾則是国王也。除吾復無二王。故勿往他処。然臣究見其為人。必知非王也。即更還之。不知道路。留連島浦。自北海廻之。経出雲国。至於此間也。是時遇天皇崩。便留之仕活目天皇。逮于三年。天皇問都怒我阿羅斯等曰。欲帰汝国耶。対諮。甚望也。天皇詔阿羅斯等曰。汝不迷道必速詣之。遇先皇而仕歟。是以改汝本国名。追負御間城天皇御名。便為汝国名。仍以赤織絹給阿羅斯等。返于本土。故号其国謂弥摩那国。其是之縁也。 謹按。是外夷投化之始也。帝小心明徳。国内漸謐。五穀既熟。教化大行。天下称謂御肇国天皇。故外夷亦投化。聖徳之隆。可以見之也。 垂仁帝三年春三月。新羅王子天日槍来帰焉。将来物。羽太玉一箇。足高玉一箇。鵜鹿鹿赤石玉一箇。出石小刀一口。出石桙一枝。日鏡一面。熊神籬一具。幷七物。則蔵于但馬国。常為神物也。 一書曰。初天日槍乗艇泊于播磨国。在於宍粟邑。時天皇遣三輪君祖大友主与倭直祖長尾市於播磨。而問天日槍曰。汝也誰人。且何国人也。天日槍対曰。僕新羅国主之子也。然聞日本国有聖皇。則以己国授弟知古。而化帰之。仍貢献八物。 謹按。崇神・垂仁二帝之徳化及外夷。遠人重訳来朝貢献。聖徳治教之余。仁風遠揚之至。其柔懐懿哉。 応神帝十四年。弓月君自百済来帰。因以奏之曰。臣領己国之人夫百二十県而帰化。然因新羅人之拒。皆留加羅国。爰遣葛城襲津彦而召之。十六年乃率弓月之人夫来 二十年秋九月。倭漢直祖阿知使主・其子都加使主・並率己之党類十七県而来帰。 一書曰。至於軽島豊明朝。秦公祖弓月。率百二十県民而帰化矣。漢直祖阿知使主率十七県民而来朝焉。秦・漢・百済・内附之民各以万計。 謹按。遠人之来化。於此最盛也。秦漢二氏者。外朝之封疆也。皆来帰之。況三韓之来服乎。故国国置其人。立其郡。以安之柔之。其後呉王朝貢。渤海武芸奉表献土宜。皆中朝治教休明之化也。〔呉王朝貢在仁徳五十八年。渤海王武芸上表者在神亀。渤海者。本粟末靺鞨附高麗者。姓大氏。高麗滅。率衆保挹婁之東牟山。築城以居。高麗遺残稍帰之。地方五千里。戸十万戸。唐睿宗先天中。遣使為渤海郡王。自是始去靺鞨号。武芸者祚栄之子。称武王。武芸立朝貢。武芸死。子欽茂立。称文王。又上表朝貢。〕 以上論功化之極。 謹按。地有内外。勢有遠近。人有華夷。故治教之道。自内而及外。先近而後遠。親華而柔夷。夫朝廷之上。国都之内。何預四夷之遠疎乎。然内之和。近之治。華之溢。知之明也。徳之充也。無不通。無不感者。道之精妙也。四夷不遠千里之険。万頃之渺。帰仰投化。畢献方物。不期其然而然者。中華之文明。聖王之治教。天以授之。人以与之。実過化之極功也。
書き下し
崇神帝六十五年秋七月、任那国、蘇那曷叱知を遣はして、朝貢せしむ。任那とは、筑紫国を去ること二千余里。北は海に阻てられ、鶏林の西南に在り。 一書に曰はく、崇神の朝に、額に角有る人、一つの船に乗りて、越国の笥飯浦に泊れり。故に其の処を号けて角鹿と曰ふ。問ひて曰はく、「何れの国の人ぞ」と。対へて曰はく、「意富加羅国の王の子、名は都怒我阿羅斯等、亦の名は于斯岐阿利叱智于岐なり。伝へ聞く、日本国に聖皇有りと。以て帰化せむとして穴門に到る。時に其の国に人有り、名は伊都都比古、臣に謂ひて曰はく、吾は則ち是の国の王なり。吾を除きて復た二王無し。故に他処に往くこと勿かれと。然れども臣、其の為人を究め見て、必ず王に非ざるを知れり。即ち更に還る。道路を知らず、島浦に留連し、北海より廻りて、出雲国を経て、此の間に至れり」と。是の時、天皇の崩に遇ひ、便ち留まりて活目天皇に仕へ、三年に逮ぶ。天皇、都怒我阿羅斯等に問ひて曰はく、「汝の国に帰らむと欲ふか」と。対へ諮さく、「甚だ望むなり」と。天皇、阿羅斯等に詔して曰はく、「汝、道に迷はずして必ず速やかに詣れり。先皇に遇ひて仕へまつらましか。是を以て、汝の本の国の名を改めて、追ひて御間城天皇の御名を負ひて、便ち汝の国の名と為せ」と。仍りて赤織の絹を以て阿羅斯等に給ひて、本土に返す。故に其の国を号けて弥摩那国と謂ふ。其れ是の縁なり。 謹按。是れ外夷投化の始めなり。帝は小心にして徳を明らかにし、国内漸く謐かなり。五穀既に熟し、教化大いに行はる。天下称して御肇国天皇と謂ふ。故に外夷も亦投化す。聖徳の隆んなること、以て見るべきなり。 垂仁帝三年春三月、新羅の王子天日槍来帰す。将来せる物は、羽太玉一箇、足高玉一箇、鵜鹿鹿の赤石玉一箇、出石の小刀一口、出石の桙一枝、日鏡一面、熊の神籬一具、并せて七物なり。則ち但馬国に蔵め、常に神物と為す。 一書に曰はく、初め天日槍、艇に乗りて播磨国に泊れり。宍粟邑に在り。時に天皇、三輪君の祖大友主と倭直の祖長尾市とを播磨に遣はして、天日槍に問はしめて曰はく、「汝は誰人ぞ。且つ何れの国の人ぞ」と。天日槍対へて曰はく、「僕は新羅国主の子なり。然れども日本国に聖皇有りと聞き、則ち己が国を以て弟知古に授けて、化して帰る」と。仍りて八物を貢献す。 謹按。崇神・垂仁二帝の徳化、外夷に及び、遠人重訳して来朝貢献す。聖徳治教の余り、仁風遠く揚がるの至りなり。其の柔懐、懿なるかな。 応神帝十四年、弓月君、百済より来帰す。因りて奏して曰はく、「臣、己が国の人夫百二十県を領ゐて帰化す。然れども新羅人の拒むに因りて、皆加羅国に留まる」と。爰に葛城襲津彦を遣はして召す。十六年、乃ち弓月の人夫を率ゐて来る。 二十年秋九月、倭漢直の祖阿知使主・其の子都加使主、並びに己の党類十七県を率ゐて来帰す。 一書に曰はく、軽島豊明の朝に至りて、秦公の祖弓月、百二十県の民を率ゐて帰化す。漢直の祖阿知使主、十七県の民を率ゐて来朝す。秦・漢・百済、内附の民、各々万を以て計ふ。 謹按。遠人の来化、此に於いて最も盛んなり。秦・漢の二氏は、外朝の封疆なり。皆来帰す。況んや三韓の来服をや。故に国国に其の人を置き、其の郡を立て、以て之を安んじ之を柔らぐ。其の後、呉王朝貢し、渤海の武芸、表を奉り土宜を献ず。皆中朝の治教休明の化なり。〔呉王の朝貢は仁徳五十八年に在り。渤海王武芸の上表は神亀に在り。渤海とは、本は粟末靺鞨にして高麗に附く者。姓は大氏。高麗滅びて、衆を率ゐて挹婁の東牟山を保ち、城を築きて以て居る。高麗の遺残稍く之に帰す。地は方五千里、戸は十万戸。唐の睿宗の先天中、使を遣はして渤海郡王と為す。是より始めて靺鞨の号を去る。武芸とは祚栄の子、武王と称す。武芸立ちて朝貢す。武芸死して、子欽茂立ち、文王と称す。又上表朝貢す。〕 以上、功化の極を論ず。 謹按。地に内外有り、勢に遠近有り、人に華夷有り。故に治教の道は、内より外に及び、近きを先にして遠きを後にし、華に親しみて夷を柔らぐ。夫れ朝廷の上、国都の内、何ぞ四夷の遠疎に預からむや。然れども内の和、近きの治、華の溢れは、知の明らかなるなり。徳の充てるなり。通ぜざる無く、感ぜざる無き者は、道の精妙なり。四夷、千里の険、万頃の渺を遠しとせず、帰仰投化し、畢く方物を献ずるは、期せずして然るなり。中華の文明、聖王の治教、天以て之に授け、人以て之に与ふ。実に過化の極功なり。
現代語訳
崇神帝の六十五年秋七月、任那国が蘇那曷叱知を遣わして朝貢させた。任那とは、筑紫国から二千余里離れている。北は海に隔てられ、鶏林(新羅)の西南にある。 一書にいう。崇神の朝に、額に角のある人が一艘の船に乗って越国の笥飯浦に停泊した。そこでその地を角鹿と名づけた。問うて言った。「どこの国の人か。」答えた。「意富加羅国の王の子で、名は都怒我阿羅斯等、またの名を于斯岐阿利叱智于岐といいます。日本国に聖皇がいると伝え聞き、帰化しようとして穴門に着きました。そのとき、その国に人がいて、名は伊都都比古といい、私に、自分はこの国の王である、自分のほかに二人の王はいない、だから他の所へ行くなと言いました。しかし私はその人柄をよく見て、王ではないと知りました。そこで引き返しましたが、道がわからず、島や浦に留まり、北海を回って、出雲国を経て、ここに至りました。」このとき天皇が崩じたので、そのまま留まって活目天皇に仕え、三年に及んだ。天皇は都怒我阿羅斯等に問うた。「お前は国へ帰りたいか。」答えて申し上げた。「たいへん望みます。」天皇は阿羅斯等に詔した。「お前が道に迷わずに早く来ていたら、先皇にお会いして仕えられただろう。そこで、お前の本の国の名を改め、先皇の御間城天皇の御名を負って、お前の国の名とせよ。」そして赤い織物の絹を阿羅斯等に与えて、本土に帰した。それでその国を弥摩那国と名づけた。これがその由来である。 素行はこう考える。これは外夷が帰化した始めである。帝は慎み深く徳を明らかにし、国内はしだいに静まった。五穀は実り、教化は大いに行われた。天下は称して御肇国天皇といった。それで外夷も帰化した。聖徳の盛んなことを、ここから見ることができる。 垂仁帝の三年春三月、新羅の王子の天日槍が来て帰属した。持参した物は、羽太玉一つ、足高玉一つ、鵜鹿鹿の赤石玉一つ、出石の小刀一口、出石の桙一本、日鏡一面、熊の神籬一具、合わせて七つの物である。これを但馬国に納め、常に神宝とした。 一書にいう。初め天日槍は小船に乗って播磨国に停泊した。宍粟邑にいた。そのとき天皇は、三輪君の祖の大友主と倭直の祖の長尾市を播磨に遣わし、天日槍に問わせた。「お前は誰か。またどこの国の人か。」天日槍は答えた。「私は新羅国主の子です。しかし日本国に聖皇がいると聞き、自分の国を弟の知古に授けて、帰化して来ました。」そして八つの物を献上した。 素行はこう考える。崇神帝と垂仁帝の二帝の徳化は外夷に及び、遠い国の人が通訳を重ねて来朝し貢ぎ物を献じた。聖徳による治教の余りが、仁風となって遠くまで揚がった至りである。その懐柔はうるわしいことよ。 応神帝の十四年、弓月君が百済から来て帰属した。そこで奏上した。「私は自分の国の人夫百二十県を率いて帰化しようとしました。しかし新羅人が拒んだため、みな加羅国に留まっています。」そこで葛城襲津彦を遣わして召した。十六年、弓月の人夫を率いて来た。 二十年秋九月、倭漢直の祖の阿知使主と、その子の都加使主が、仲間の十七県の人を率いて来て帰属した。 一書にいう。軽島豊明の朝に至って、秦公の祖の弓月が百二十県の民を率いて帰化した。漢直の祖の阿知使主が十七県の民を率いて来朝した。秦・漢・百済の帰属した民は、それぞれ万の単位で数えられる。 素行はこう考える。遠い人々の来化は、ここで最も盛んになった。秦と漢の二氏は、外朝(中国)の境の人々である。それらがみな来て帰属した。まして三韓が来て服したのはなおさらである。それで国々にその人々を置き、郡を立てて、安んじ、懐柔した。その後、呉王が朝貢し、渤海の武芸が表を奉って土産を献じた。みな中朝の治教が行き届いたことによる感化である。(呉王の朝貢は仁徳五十八年にある。渤海王武芸の上表は神亀にある。渤海とは、もとは粟末靺鞨で高麗に属した者。姓は大氏。高麗が滅びて、衆を率いて挹婁の東牟山に拠り、城を築いて居た。高麗の残党がしだいにこれに帰した。領地は方五千里、戸は十万戸。唐の睿宗の先天年間に、使いを遣わして渤海郡王とした。これより靺鞨の号を去った。武芸は祚栄の子で、武王と称した。武芸が立って朝貢した。武芸が死んで、子の欽茂が立ち、文王と称した。また上表して朝貢した。) 以上、教化の極みを論じた。 素行はこう考える。地には内と外があり、勢いには遠近があり、人には華と夷がある。だから治教の道は、内から外に及び、近いものを先にして遠いものを後にし、華に親しんで夷を懐柔する。朝廷の上、国都の内では、遠い四夷にかかずらうことはない。しかし内の和、近くの治、華の溢れ出るものは、知が明らかで徳が満ちているからである。通じないところなく、感じないものもないのは、道の精妙である。四夷が千里の険しさや万頃の広さを遠しとせず、慕って帰属し、特産品をすべて献じるのは、期せずして然るのである。中華(日本)の文明と聖王の治教を、天がこれに授け、人がこれに与えた。まことに感化の極みである。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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『弘道館記述義』・蠻夷戎狄以之率服・海外への威徳と遠征をめぐる論蛮夷戎狄、之を以て率服す。臣彪謹んで案ずるに、素戔嗚尊の罪を天祖に獲るや、其の子五十猛命と海外に降臨す。(書紀に云ふ、新羅国に到る、と。又た一に云ふ、韓地、と。蓋し追称の辞なり。)少名彦命も亦た常世国に適く。(案ずるに古に常世と称するは、其の義一ならず。而して常世国と云ふは、多く海外絶遠の地を指す。)則ち鴻荒の時、明神の威霊、蓋し既に異邦に被る。然れども載籍簡古にして、其の詳らかなること言ふを得ず。(近時古学者の流、之が説を為して曰く、外国諸蕃は蓋し皆少名彦神の経営する所なり、と。又た其の説を広むる者有り、曰く、西土草昧の世に大乙・少昊有り。大乙は即ち大巳貴神にして、少昊は即ち少名彦神なり、と。其の意蓋し皆皇朝を尊大にせんと欲して、自ら其の言の怪誕に渉るを知らざるなり。好古の士、鑒みざるべけんや。)崇神帝、神祇を崇重し天業を経綸す。是に於て任那国、蘇那喝叱知を遣はして朝貢す。外夷の化に向かふこと史に見ゆる者、蓋し是れを始めと為す。垂仁・景行二帝相踵ぎて不服を撻伐し、其の威武を奮ふ。仲哀帝は親ら熊襲を征し、中道にして崩ず。神功皇后は神祇の教へに因り帝の遺意を奉じ、(案ずるに書紀の仲哀帝西征の条に、神、皇后に憑りて曰く、新羅を征すれば則ち熊襲も亦た自ら服せん、と有り。帝疑ひて、便ち嶽に登り遙かに望みて曰く、海有りて国無し、神何ぞ我を誘ふ、と。此に拠れば則ち帝は曾て遠征を欲せざるのみならず、併せて海外に国有ることを信ぜざるなり。然れども是より先、外夷の朝貢及び投化する者、一にして足らず。帝豈に海外に国有るを知らざるの理有らんや。況んや眼界を以て有無を論ずるは真に児童の見なり。帝の明を以てして、豈に斯の語有るべけんや。且つ丁卯歳、百済使を遣はし新羅の使と朝貢す。皇太后、太子に曰く、先帝の欲せし所の国人、今来朝す。痛ましきかな、見るに及ばざりしこと、と。群臣皆為に涕を掩ふ。此に拠れば則ち征韓の役は帝の遺志に出づること明らかなり。蓋し書紀の載する所、前後矛盾す。前説は頗る荒誕に渉り、後説は著実にして情に近し。而して後世皆前説に拠りて、徴を後説に求むるを知らず。可ならんや。此れ実に大義の関係する所なり。故に敢へて弁ず。)決意して遠征す。
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『中朝事実』禮儀章・国史・憲法・詔書と文字の起こり其の後、中朝、遣唐使を置き、外朝に通信す。然れども外朝の書簡は、多く諸侯王を以てす。世衰へ人訛り、此を以て足れりと爲す。其の失は何にか在る。唯だ記誦文字の俗儒に造端し、以て我が國の我が國たるを知らざるに至る。噫、家雞を輕んじ野雉を愛す、何ぞ德の衰へたるや。〔以上、善隣の禮を論ず。〕 應神帝二十八年秋九月、高麗王、使を遣はして朝貢す。因りて以て表を上る。其の表に曰く、高麗王、日本國に敎ふ、と。時に太子菟道稚郞子、其の表を讀みて之を怒り、高麗の使を責む。表狀無禮なるを以て、則ち其の表を破る。 謹んで按ずるに、是れ表狀の禮を正すなり。凡そ太子、外朝の典籍を讀むこと此に十五年。然れども乃ち外朝の文字の相通ずること未だ遠からずして、太子の聰明、通達せざる莫しと雖も、中州は同氣相應ずるに非ず、如何ぞ速やかに弘文の盛を得んや。高麗は我が屬國にして、表狀無禮なれば、太子、表を破り使を責む。其の嚴なること此くの如し。志氣德量、并せ按ずべきなり。 履中帝四年秋八月辛卯朔戊戌、始めて諸國に國史を置く。言事を記し、四方の志を達す。 謹んで按ずるに、是れ國史を置くの禮なり。 推古帝十二年夏四月丙寅朔戊辰、皇太子親ら肇めて憲法十七條を作る。 謹んで按ずるに、是れ憲章の書を作るの初めなり。 十六年、唐帝に聘す。其の辭に曰く、東の天皇、敬みて西の皇帝に白す、と。 謹んで按ずるに、是れ詔書の禮なり。此の後、公式の禮大いに行はる。〔詳しくは善隣の禮を論ずる條の上に見ゆ。〕新羅王・渤海王に璽書を賜ふに、天皇敬みて某國の王に問ふを以てす。是れ乃ち天子の諸侯王に賜ふ書の禮なり。凡そ文辭命令は、國家の大禮なり。文字言辭の褒貶に因りて、以て尊卑親疎の禮を存し、後世國史の例と爲す。草創・討論・潤色の義、更に忽にすべからざるなり。 二十八年、皇太子・島大臣共に議し、天皇記及び國記、臣・連・伴造・國造・百八十部并せて公民等の本記を錄す。〔蘇我稻目宿禰の子馬子、家を飛鳥河の傍に置き、乃ち庭中に小池を開き、仍りて小島を池の中に興す。故に時人曰く、島大臣、と。〕 謹んで按ずるに、是れ皇記・國記・本記の始めと爲す。孝德帝四年、鞍作の事有り。〔蘇我臣入鹿、更の名は鞍作。〕父の蘇我臣蝦夷、誅に臨みて、悉く天皇記・國記を燒く。船史惠尺、卽ち疾く燒かるる所の國記を取りて、中大兄に奉る。〔天智帝なり。〕此の時、往古の典籍悉く燒失す。其の後、天武帝詔して群臣に帝紀及び上古の諸事を記定せしめ、境部連石積等に命じて、更に肇めて新字一部四十四卷を造らしむ。是れより連綿として典籍日に造られ、文書大いに世に行はる。然れども中國往古の實記は火に入り、舊紀明らかならず。唯だ灰殘の燼竹を摘みて、以て間ま此の往事を存す。亦た萬世の戒と爲すに足る。吁、惜しいかな。或ひと言語文字を疑ふ。愚謂へらく、人旣に口舌有れば、則ち音聲有り。故に情の發する所、自ら言語有り。言語有れば、則ち終に文字の象有り。其の直ちに出づるを聲と曰ひ、曲節有るを音と曰ふ。其の形象の以て通ずべきを字と曰ひ、其の條理の節有るを文と曰ふ。共に是れ天地人物自然の勢ひなり。豈に唯だ中國外朝のみならんや。四夷の侏離、禽獸の嘷吼も亦た然り。直だ其の正を得ざるのみ。往古の神
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『中朝事実』禮儀章・対等の隣交と属国の別一書に曰く、群臣議して曰く、妹子懈怠して、蕃國の表を失ふ。罪、流刑に合ふ。具さに狀して聞奏す。天王、聖惠太子に問ふ。太子奏して曰く、妹子の罪は寔に寬すべからず。然れども好を修め隣を善くするは、妹子の功なり。加ふるに隋國の使共に來たる。思ふに復た如何、と。天皇大いに悅びて罪を免す。又曰く、隋帝の書に曰く、皇帝、倭王に問ふ、云云。天皇、太子に問ひて曰く、此の書如何、と。太子奏して曰く、天子の諸侯王に賜ふ書式なり。然れども皇帝の字は天下に一のみ。而るに皇の字を用ふるは、彼に其の禮有るなり、と。天皇、太子以下を召して答書の辭を議す。太子、筆を握りて之を書して曰く、東の天皇、敬みて西の皇帝に問ふ、云云。帝、謹んで白す、不具、と。〔通鑑綱目集覽に曰く、隋の煬帝大業四季戊辰三月、倭國入貢す。倭王書を遣はして曰く、日出づる處の天子、書を日沒する處の天子に致す、恙無きや、と。〕 謹んで按ずるに、是れ隣好を修むるの始めなり。隣とは何ぞ。以て相對すべきなり。好を修むとは何ぞ。氣候・水土・人物・事義、以て之を好みすべく、以て之を通ずべきなり。氣を同じくすれば相求め、類を同じくすれば相應ず。金は終に山に止まり、玉は終に水に入る。各々其の類に從ふは、天の道なり。天地の博く、宇宙の渺たる、泛泛乎として此の州島あり。唯だ外國の事義を中華に一にす。故に好を修め隣を善くすること、猶ほ石水の相投じ、膠漆の相入るがごとし。千載の神聖、一日にして之に遇ふ。萬里の遠波、一葦にして之を航る。是れより隣交の道大いに啓け、互ひに聘禮す。外朝の經典、廣く世に行はれ、人人、聖賢の事迹を知り、文字言語の用乏しからず。大いに中國の治平を補ふ。是れ風は虎に從ひ、雲は龍に從ひ、雲行き雨施して、品物大いに成る所以なり。善隣の時、其の資、懿からずや。蓋し國の大小を以てすれば則ち彼は大なり。人治の遠近を以てすれば則ち彼は遼かなり。土地廣し、故に人物衆庶なり。治平遼かなり、故に事義疆り無し。當時初めて書を制するに、東の天皇、敬みて西の皇帝に問ふを以てす。唯だ太子の大手筆に非ざれば、其の志氣洪量、能く本朝を中華と爲す所以を知らんや。夫れ外朝は其の地博くして約ならず。治敎盛んなれば則ち畫する所惟れ泛く、守文明らかならざれば則ち戎狄之に據る。吳・越・荊・楚の僭して諸侯に列し、平王の東のかた洛に遷り、或いは十六州を割きて以て契丹に賂ひ、或いは臨安に退きて臣を醜虜に稱す。皆是れ戎狄に逼らるる所なり。是れ一大土中に地を畫り城を築き、以て封域を立て、境を四夷に接するなり。故に天下の勢ひ、或いは南北に袤くして東西蹙まり、或いは東西長くして南北縮む。或いは九州・十二州有り、或いは十道・二十三路を以てして、經畫一ならず。王統數々姓を易ふ。是れ博くして約ならざるの失なり。人主治世の來ること久しければ、治亂盈虛、大いに變じ、人心悉く澆訛す。春秋の時、古を去ること未だ遠からずして、亂臣賊子、君父を弑すること、猶ほ草を薙ぐがごとし。大臣・世臣、妖事を行ふこと禽獸の如し。是れ治道の變化し、微言の日に隱るるの失に非ずや。唯だ中國は之に反す。卓として巨海に立ち、封域自ら天險有り。神聖、天を繼ぎ極を立てしより爾來、四夷竟に藩籬をも窺ふを得ず。皇統連綿として天壤と窮まり無し。況んや神代の治悠久にして、人皇の祥、永算なるをや。今日の澆季も、亦た尙ほ周の末よりも優れり。〔凡そ帝堯より今に至るまで四千有餘年、神武帝より今に至るまで二千三百餘年、堯より周の末に至るまで殆ど二千餘年。〕言ふと雖も、若し果たして澆訛ならば當に鬼魅と爲るべし。上古は人少なくして氣淳し。治久しくして人多ければ、則ち氣漓して人澆なるは、天地の數なり。後世は誠に古に及ばざること遠し。然れども乃ち人物も亦た厚からざらんや。且つ往古の神化、人皇の聖治、神勅の明敎、歷世の法令、知仁の行ひ、威武の嚴、何事か外朝に乏しからん。故に彼と相對して自ら皇帝と稱し、好を修め隣を善くするを、更に恥ぢざる所以なり。或ひと疑ふ、高麗・百濟・新羅の來朝も、亦た好を修め隣を善くするに非ざるか、と。愚謂へらく、新羅の王子來朝し、任那來貢すること、旣に崇神・垂仁帝の朝に在り。其の後、住吉の大神、高麗・百濟・新羅・任那等を譽田天王、及び若櫻宮に賜ふ。壹たび戎衣して各々面縛し、櫬を輿にし圖籍を封じて降る。阿利那禮河を指して以て誓ひ、神祇に請ひて以て盟ふ。伏して飼部と爲り、船の拖を乾さず、每歲朝貢を絕えず。初め國每に官家を置き、海表の蕃屏と爲す。是より歷代子弟を以て質と爲し、常に朝貢す。否れば乃ち征伐して以て不逞を懲らす。然れば是れ海外の諸蕃は、皆中國の屬と爲る。唯だ外朝のみ以て通信すべきのみ。諸蕃は隣と稱するに足らず。中華は終に聘禮を彼の地に行はず、往くこと厚く來ること薄くして、以て遠人を柔らげ外國を懷くるのみ。或ひと疑ふ、外朝も亦た來聘するか、と。愚按ずるに、推古朝に隋の煬帝、文林郞裴世清を遣はして來聘せしむ。天智朝に唐の客郭務悰等來聘す。其の書に曰く、大唐帝、敬みて日本國天皇に問ふ、と。天武朝に郭務悰又來聘す。
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『中朝事実』武德章・神功皇后の三韓征伐と武徳神功帝、住吉大神の教へに因りて、便ち髪を分けて結ひて髻と為す。因りて以て群臣に謂ひて曰はく、「夫れ師を興し衆を動かすは、国の大事なり。安危成敗、必ず斯に在り。今征伐する所有り。事を以て群臣に付す。若し事成らずは、罪は群臣に在り。是れ甚だ傷ましきかな。吾は婦女にして之に加へて不肖なり。然れども暫く男の貌を仮り、強ひて雄略を起こし、上は神祇の霊を蒙り、下は群臣の助けを藉り、兵甲を振ひて嶮浪を度り、艫船を整へて財土を求めむ。若し事就らば、群臣共に功有り。事就らずは、独り罪有り。既に此の意有り。其れ共に議れ」と。群臣皆曰はく、「皇后天下の為に計る。宗廟社稷を安んずる所以なり。且つ罪は臣下に及ばず」と。頓首して詔を奉る。秋九月庚午朔己卯、諸国に令して、船舶を集め、兵甲を練らしむ。時に軍卒自ら集まる。爰に吉日を卜して、発つに臨みて日有り。時に皇后親ら斧鉞を執り、三軍に令して曰はく、「金鼓節無く、旌旗錯乱すれば、則ち士卒整はず。財を貪り欲多く、私を懐き内に顧みれば、必ず敵の虜とならむ。其れ敵少なくとも軽んずること勿かれ。敵強くとも屈すること無かれ。則ち奸暴は聴すこと勿かれ。自ら服するは殺すこと勿かれ。遂に戦ひ勝たば必ず賞有り。背き走げば自ら罪有らむ」と。冬十月己亥朔辛丑、和珥津より発つ。時に飛廉風を起こし、陽侯浪を挙ぐ。海中の大魚悉く浮かびて船を挟む。則ち大風順に吹き、帆舶波に随ひ、櫓楫を労せず。便ち新羅に到る。時に船に随ふ潮浪遠く国中に逮ぶ。即ち知る、天神地祇悉く助けたまふかと。新羅王是に戦戦栗栗として、身を厝くに所無し。則ち諸人を集めて曰はく、「新羅の国を建てしより以来、未だ嘗て海水の国に凌ぶを聞かず。若し天運尽きて国海と為らむか」と。是の言未だ訖らざる間に、船師海に満ち、旌旗日に耀き、鼓吹声を起こし、山川悉く振ふ。新羅王遥かに望みて、非常の兵の、将に己が国を滅ぼさむとするかと以為ひ、讋れて志を失ふ。乃ち今醒めて曰はく、「吾聞く、東に神国有り、日本と謂ふ。亦聖王有り、天皇と謂ふと。必ず其の国の神兵ならむ。豈兵を挙げて以て距ぐべけむや」と。即ち素旆して自ら服し、素組して面縛し、図籍を封じて、王船の前に降る。因りて叩頭して曰はく、「今より以後、長く乾坤と与にし、伏して飼部と為らむ。其れ船柂を乾さず、春秋に馬梳及び馬鞭を献らむ。復た海遠きを煩はさず、毎年に男女の調を貢らむ」と。則ち重ねて誓ひて曰はく、「東より日更に西に出づるに非ず、且除、阿利那礼河返りて逆に流れ、河の石昇りて星辰と為るに非ずは、殊に春秋の朝を闕き、忍びて梳鞭の貢を廃めば、天神地祇共に討ちたまへ」と。時に或るひと曰はく、「新羅王を誅せむと欲す」と。是に皇后曰はく、「初め神教を承けて、金銀の国を授けむとす。又三軍に号令して、自ら服するを殺すこと勿かれと曰へり。今既に財の国を獲たり。亦人自ら降服す。之を殺すは不祥なり」と。乃ち其の縛を解きて飼部と為す。遂に其の国中に入り、重宝の府庫を封じ、図籍文書を収む。即ち皇后の杖きたまへる矛を以て、新羅王の門に樹てて、後葉の印と為す。故に其の矛は今も猶ほ新羅王の門に樹てり。爰に新羅王波沙寝錦、即ち微叱己知波珍于岐を以て質と為す。仍りて金銀彩色及び綾羅縑絹を齎して、八十艘の船に載せ、官軍に従はしむ。是を以て、新羅王常に八十艘の調を以て、日本国に貢ぐ。其れ是の縁なり。是に、高麗・百済の二国の王、新羅の図籍を収めて日本国に降れりと聞き、密かに其の軍勢を伺はしむるに、則ち勝つべからざるを知り、自ら営の外に来て、叩頭して歎きて曰はく、「今より以後、永く西蕃と称し、朝貢を絶たじ」と。故に因りて内官家を定む。皇后、新羅より還りたまふ。 謹按。是れ西戎征伐の始めなり。仲哀帝の朝、住吉大神、西戎の外夷を以て之を賜ふ。帝信ぜずして早く崩ず。皇后志を継ぎ事を述べ、刃に血ぬらずして、高麗・新羅・百済皆従服す。三韓は官家の藩屏と為る。応神帝、生まれながらにして聖武の形を備ふ。〔産まるるとき宍、腕の上に生ず。其の形鞆の如し。故に其の名を称して、誉田天皇と謂ふ。上古の俗、鞆を号して褒武多と曰ふ。〕謚を八幡と奉り、天下の武神と為り、其の祭祀を以て之に事ふること、猶ほ伊勢の御神のごとし。武家殊に之を崇敬す。噫、霊徳盛んなるかな。是より三韓毎年来朝して貢を奉り、正暦を朝廷に受け、政事を我が国に問ふ。四国来りて池を作る。〔応神七年秋九月、高麗・百済・新羅・任那来朝す。時に武内に命じて諸の韓人等を領ゐて池を作らしむ。因りて以て池に名づけて韓人池と号す。〕其の柔懐を示し、子弟を質とし、博士を貢して、以て款誠を叩く。間に不逞の罪有れば、将帥を発して之を討つ。百済は王を殺して以て其の無礼を謝し、鉄鎖して酒君を以て其の虜を献ず。〔応神四年、百済の辰斯王無礼なり。国中に殺して謝す。酒君の事は、仁徳四十一年に在り。〕狭手彦、高麗を討ち、王宮に入りて、珍宝を獲、以て其の捷を奏す。〔欽明二十一年に在り〕或いは高麗、鉄盾及び的を献る。〔楯を射貫く人の技なり。仁徳十二年に在り。〕或いは表を慢り、羽の表を奉り、礼に抗ひ、索めて知り、而して以て責めを受けて察せらる。〔高麗の表無礼なるは応神二十八年に在り。鳥の羽の表を奉るは敏達元年に在り。〕故に西戎は其の武徳を懼れ、其の雄才に服し、悉く我が属国と為る。蓋し垂仁帝、既に田道間守に命じて、常世国に遣はして香菓を求めしむ。然れば乃ち此の時、西戎を并呑するの機有りて、其の功を若桜朝に成せるなり。皇后又軍師を発し、以て比自炑・南加羅・喙国・安羅・多羅・卓淳・加羅の七国を平定し、南蛮を屠りて以て百済に賜ひ、処処に日本府を置きて、以て政令を布く。中国の武徳、此に至りて大いに盛んなり。吁、中朝の文物は、更に外朝に愧ぢず。其の威武の如きは、外朝も亦比倫すべからず。故に外朝の海防は、唯だ倭寇を要とす。倭寇とは何ぞ。西州の辺民、彼に虜掠するなり。官兵の寇に非ずして、其の落胆戦股すること然り。明朝の太祖、三たび使を我が国に遣はし、寇疆の禁を請ひ、好みを修めむと欲すること眷眷たり。終に祖訓を垂れて、絶倭を以て其の一と為す。是れ其の威武の余風を恐るるなり。〔以上、西戎を征す〕 以上、武義の徳を論ず。 謹按。五行に金有り、七情に怒有り、陰陽相対し、好悪相並ぶ。是れ乃ち武の用、亦大ならずや。然れども之を用ゐるに其の道を以てせざれば、則ち害人物に及び、終に自ら焼く。聖人以て興り、乱人以て廃する所以なり。豈に是れ兵の罪ならむや。蓋し神代の兵武や、惟れ神、惟れ聖にして、天討なり、天兵なり。其の将帥軍伍は、皆霊神なり。然れども猶ほ其の道を存し、其の礼を備へ、其の大事を示して、以て鑑とすべきなり。
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『中朝事実』神敎章・王仁の渡来と外朝の学を採る度量誉田天皇十五年秋八月壬戌朔丁卯、百済王、阿直岐を遣はして良馬二匹を貢ぐ。即ち軽の坂上の厩に養はしむ。因りて阿直岐をして飼を掌らしむ。故に其の馬を養ふ処を号けて厩坂と曰ふ。阿直岐は亦能く経典を読む。即ち太子菟道稚郎子、師とす。是に天皇、阿直岐に問ひて曰く、如し汝に勝れる博士、亦有りや、と。対へて曰く、王仁といふ者有り、是れ秀れたり、と。時に上毛野君の祖荒田別・巫別を百済に遣はし、仍りて王仁を徴す。其の阿直岐は阿直岐史の始祖なり。十六年春二月、王仁来る。則ち太子菟道稚郎子、之を師とし、諸の典籍を王仁に習ひ、通達せざること莫し。故に所謂王仁は、是れ書首等の始祖なり。 百済王眞道〔後に菅野の姓を賜ふ。〕表を上りて〔延暦の朝。〕曰く、眞道等、本系は百済国の貴須王より出づ。貴須王は、百済始興第十六世の王なり。夫れ百済の太祖都慕大王は、日神霊を降し、扶余を奄ひて国を開く。天帝籙を授け、諸韓を総べて王と称す。降りて近肖古王に及び、遥かに聖化を慕ひ、始めて貴国に聘ふ。是れ則ち神功摂政の年なり。其の年、応神天皇、上毛野氏の遠祖荒田別に命じて百済に使ひせしめ、有識者を捜し聘ふ。国主貴須王、恭みて使者を奉じ、宗族を採択して、其の孫辰孫王〔一名は智宗王。〕を遣はし、使に随ひて入朝せしむ。天皇、焉を嘉し、特に寵命を加へ、以て皇太子の師と為す。是に始めて書籍を伝へ、大いに儒風を闢く。文教の興、誠に是に在り。仁徳天皇、辰孫王の長子阿郎王を以て近侍と為す。桓武の朝、武生連眞象等言す、漢の高祖の後を鸞と曰ふ。鸞の後は王狗、転じて百済に至る。久素王の時、聖朝、使を遣はして文人を徴召す。久素王即ち狗の孫王仁を以て貢ぐ。是れ又武生等の祖なり、と。 謹んで按ずるに、是れ中国、外国の経典を学ぶの始めなり。学者は修己治人を以て本と為す。修己治人の道、人情事物に通ぜざれば、即ち其の誠を得ず。夫れ天神の生知は通ぜざる無く、天祖の明教は尽くさざる無し。故に神武帝は洪基を建て、綏靖帝は至孝、崇神帝は日々に慎むこと一日より慎み、垂仁帝は矯飾する所無く、景行帝は雄謀、成務帝は兢惕す。皆是れ乾霊の正徳に従ひ、大神の明教を繹ね、以て人物の情を詳らかにし、当世の急務に施す。天秩以て叙び、人物処を得たり。是れ乃ち中州神聖の学の原にして、往古に著明にして、万世以て法るに足るなり。仲哀帝に及び、住吉大神、有宝国を賜ふ。神功帝親ら三韓を征し、三韓面縛して服従し、武徳を外国に耀かす。是より三韓毎年朝聘し、貢を献ずること船楫乾かず。故に外国の諸器及び経典、具はらざる無し。百済王の懇款の余り、博士・女工等を貢ず。是に於て中州始めて漢字を知る。応神帝は聖武にして聡達、博く外国の事に通ぜんと欲し、王仁を徴し、典籍を読ましめ、太子之を師とし、以て能く漢籍に通達す。凡そ外朝の三皇・五帝・禹・湯・文・武・周公・孔子の大聖も、亦中州往古の神聖と其の揆を一にす。故に其の書を読めば、則ち其の義通じ、間隔する所無し。其の趣向、猶ほ符節を合はすがごとし。採挹斟酌すれば、則ち又以て王化を補助するに足る。竊かに按ずるに、誉田帝、己を虚しくして百済の博士を徴し、後、中国広く外朝の典籍に通じ、聖賢の言行を知る。是れ乃ち住吉大神の賚なり。或ひと疑ふ、外朝は我に通ぜずして文物明らかなり。我は外朝に因りて其の用を広む。則ち外朝は我より優れるか、と。愚按ずるに、否。開闢の神聖の徳行、明教より、兼備せざる無し。漢籍を知らずと雖も、更に一介の闕くること無し。幸ひに外朝の事に通じ、其の長ずる所を取りて以て王化を輔くるは、亦寛容ならずや。何ぞ唯だ外朝のみならんや。凡そ天下の間、詳らかに知り並び畜へ、短を校べ長を考へ、用を待ちて遺す無く、事に従ひて是れ適するは、量の大なるなり。内外相持して、人物以て成る。若し短を護り外を拒むは、君子の為す所に非ず。況んや外朝は我と其の致を一にして、其の歴世尤も久しきをや。其の封域太だ広きをや。其の人物衆多にして、政事損益あるをや。足れる共に以て之を覩んや。是れ中州の八紘に冠たる所以なり。後世、勘合絶えて鄰交の好を脩めざるも、亦我に足らざる無し。並び考ふべし。或ひと疑ふ、王仁は徳高く、且つ毛詩に善し。故に難波津の詠を為し、遂に以て仁徳帝の聖を成す、と。愚按ずるに、否。王仁は漢籍に通ずる博士なり。此の時、人未だ漢字に通ぜず。故に端を彼に造るのみ。後に阿知使主と王仁とをして官物の出納を記さしむ。〔古語拾遺に見ゆ。〕則ち其の職掌知るべきなり。難波帝は、謙徳寛仁の明主にして、時に遺賢無く、朝に謬挙無し。古今以て聖帝と為す。王仁の才徳、国史に著れず、食禄は唯だ文首たるのみ。則ち恥づべきの至りなり。俗学末儒の中国を蔑して以て外邦を信ずるは、是れ耳を貴び目を賤しむの徒、附益助長の弊なり。〔以上、外朝の文を学ぶ。〕 以上、教学の淵源を致す。謹んで按ずるに、学とは効なり。其の知らず能はざるを効ふなり。近き者は見て之を知り、遠き者は聞きて之を知る。人の生まるるや、幼孩より壮老に至るまで、未だ嘗て教学に由らずんばあらず。蓋し人の万物に長たるは、知有るなり。知の霊なり。思ひて通ぜざる無く、致して尽くさざる無し。故に其の小人たるも、其の君子たるも、皆学の習ふ所に因る。夫れ火に然ゆべきの質有るも、薪柴を用ひて加ふるに風を以てせざれば、則ち其の威を長ずる能はず。水に流るべきの素有るも、卑下に因りて以て疏導せざれば、則ち其の源を深くするを得ず。或いは之を暴にし、或いは之を鑿てば、則ち其の害、人物に及ぶ。豈に水火のみならんや。学の人に於ける、慎まざるべけんや。故に天神の生知は、動きて感じ言ひて通ずるが如くなるも、猶ほ思兼の議謀の詳らかなる有り。天孫の臨降に及び、神勅の嚴なる有り、神器の常に守るべき有り、二神以て輔養する有り。其の身を修め人を治むるの道、至れり尽くせり。是れ後世聖教の淵源に非ずや。或ひと疑ふ、中朝は書史に乏しく、久しく学校進士の設を絶つ。故に人才未だ成るを得ざるか、と。愚謂ふ、神聖は見て之を知り、後世は聞きて之を知る。其の差謬を恐れ、記録相続く。其の筆削聖人に非ざれば、臆説を免れず。編簡日々に盛んにして、人は書を以て学と為し、聖教漸く隠れ、日用大いに晦し。其の端を異にし、其の白を堅くして、空虚を彫り、氷水に刻む。況んや学校進士の設、其の実を得ざれば、則ち詐偽を競ひ、利勢に趨くのみ。夫れ博識を以てすれば、則ち華夷の書を尽くすも、未だ多しと為すべからず。能く其の道に通ずれば、則ち一言も以て少しと為すべからず。況んや史編の闕けざるをや。
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『中朝事実』中國章・秋津洲の国土と外朝との比較論神武帝三十有一年夏四月乙酉朔、皇輿巡幸す。因りて腋上の嗛間丘に登りて、国の状を廻望して曰く、妍しきかな、国を獲つること。〔妍しきかな、此れを婀奈珥夜と云う。〕内木綿の真迮き国と雖も、猶お蜻蛉の臀呫の如し、と。是れに由りて始めて秋津洲の号有り。昔、伊弉諾尊、此の国を目して曰く、日本は浦安の国、細戈の千足る国、磯輪上の秀真国、と。〔秀真国、此れを袍図莽勾爾と云う。〕復た大巳貴大神目して曰く、玉牆の内つ国、と。饒速日命、天磐船に乗りて、太虚を翔行り、是の郷を睨て降りたまうに及びて、故に因りて目して曰く、虚空見つ日本の国、と。 謹んで按ずるに、本朝の地、形は長く広く〔東西を広と曰う〕短く袤〔南北を袤と曰う〕、西上東下、皆な豊大なり。艮の位を背にして離の明に向かう。蜻蛉の臀呫に象る。洋海四方を廻り、唯だ西方少しく外域の舶を寄すべきも、襲来の畏れ無し。故に浦安国・玉牆内国と称す。是れ内木綿の真迮き国なり。其の形戈の如くにして、品物備わらざる無し。尤も秀精の地なり。故に細戈の千足る国・磯輪上の秀真国と曰う。帝曰く、妍しきかな、国を獲つること、と。噫、大なるかな。蓋し国の地に在る、枚挙すべからず。而して其の文物は古今称する所、外朝を以て宗と為し、日本・朝鮮之に次ぐ。愚竊かに考うるに、惟れ四海の間、唯だ本朝と外朝とのみ、共に天地の精秀を得て、神聖其の機を一にす。而して外朝も亦た未だ本朝の秀真なるに如かず。凡そ外朝は其の封疆太だ広く、四夷に連続し、封域の要無し。故に藩屏屯戍甚だ多く、其の約を守るを得ず。失の一なり。近く四夷に迫る。故に長城要塞の固め、世世人民を労す。失の二なり。守戍の徒、或いは狄に通じて難を構え、或いは狄に奔りて其の情を泄らす。失の三なり。匈奴・契丹・北虜、其の釁を窺い易く、数しば以て劫奪す。其の失の四なり。終に其の国を削り、其の姓を易え、而して天下左衽す。大いなる失の五なり。況んや河海遠くして、魚蝦の美・運転の利給せず。故に人物も亦た其の俗を異にす。牛羊を啖らい、毳裘を衣、榻床に坐するが如き、以て之を見るべし。況んや朝鮮は蕞爾たるをや。独り本朝のみ、天の正道に中し、地の中国を得、南面の位を正し、北陰の険を背にし、西を上とし東を下とし、前は数洲を擁して河海を利し、後ろは絶峭に拠りて大洋を望む。州ごとに悉く運漕の用有り。故に四海の広きも猶お一家の約の如く、万国の化育は天地の正位に同じ。竟に長城の労無く、戎狄の膺つこと無し。況んや鳥獣の美、林木の材、布縷の巧、金木の工、備わらざる無し。聖神の称美の嘆、豈に虚ならんや。昔、胡元の世祖、外朝を奪い、其の勢いに乗じて本朝を撃つ。大兵悉く敗れ、彼の地に帰る者僅かに三人。其の後、元主しばしば窺えども我が藩籬を侵すを得ず。況んや高麗・新羅・百済は皆な本朝の藩臣なるをや。聖神の太虚を翔行り、是の郷を睨て降りたまうこと、最も宜なるかな。〔後漢書に曰く、太倭王は耶麻台に居る、と。唐東夷伝に曰く、日本は古の倭奴なり、と。〕〔是れ皆な商賈販人の言に因りて、其の事を記す。故に以て証とするに足らず。〕〔以上、本朝の水土を論ず。〕