中朝事実 / 禮儀章・対等の隣交と属国の別
一書曰。群臣議曰。妹子懈怠。失蕃國表。罪合流刑。具狀聞奏。天王問聖惠太子。太子奏曰。妹子之罪寔不可寬。然修好善隣。妹子之功也。加以隋國使共來。思復如何。天皇大悅免罪。又曰。隋帝書曰。皇帝問倭王云云。天皇問太子曰。此書如何。太子奏曰。天子賜諸侯王書式也。然皇帝之字天下一耳。而用皇字彼有其禮。天皇召太子以下而議答書之辭。太子握筆書之曰。東天皇敬問西皇帝云云。帝謹白不具。〔通鑑綱目集覽曰。隋煬帝大業四季戊辰三月。倭國入貢。倭王遣書曰。日出處天子致書日沒處天子無恙。〕 謹按。是修隣好之始也。隣者何。可以相對也。修好者何。氣候水土人物事義可以好之。可以通之也。同氣相求。同類相應。金終止于山。玉終入于水。各從其類。天之道也。天地之博。宇宙之渺。泛泛乎此州島。唯外國一事義於中華。故修好善隣。猶石水相投。膠漆相入。千載之神聖。一日遇之。萬里之遠波。一葦航之。自是隣交之道大啓。互相聘禮。外朝之經典廣行于世。人人知聖賢之事迹。文字言語之用不乏。大補中國之治平。是風從虎。雲從龍。所以雲行雨施。品物大成也。善隣之時。其資不懿乎。蓋以國之大小則彼大也。以人治之遠近則彼遼也。土地廣。故人物衆庶也。治平遼。故事義無疆。當時初制書。以東天皇敬問西皇帝。唯非太子大手筆。其志氣洪量。能知所以本朝爲中華也。夫外朝其地博而不約。治敎盛則所畫惟泛。守文不明則戎狄據之。吳越荊楚之僭列諸侯。平王之東遷於洛。或割十六州以賂契丹。或退臨安。稱臣於醜虜。皆是所逼於戎狄也。是一大土中畫地築城。以立封域。接境於四夷也。故天下之勢。或袤南北而東西蹙。或東西長而縮南北。或有九州十二州。或以十道二十三路。而經畫不一。王統數易姓。是博而不約之失也。人主治世之來久。治亂盈虛大變。人心悉澆訛。春秋之時去古未遠。而亂臣賊子弑君父。猶薙草。大臣世臣行妖事猶禽獸。是非治道變化微言日隱之失乎。唯中國反之。卓立于巨海。封域自有天險。自神聖繼天立極爾來。四夷竟藩籬亦不得窺。皇統連綿與天壤無窮。況神代之治悠久。人皇之祥永算。今日之澆季。亦尙優於周之末也。〔凡自帝堯至今四千有餘年。自神武帝至今二千三百餘年。自堯至周末殆二千餘年。〕雖言若果澆訛當爲鬼魅。上古者人少而氣淳。治久人多。則氣漓而人澆者。天地之數也。後世誠不及古遠矣。然乃人物亦不厚乎。且往古之神化。人皇之聖治。神勅之明敎。歷世之法令。知仁之行。威武之嚴。何事乏乎外朝。故與彼相對自稱皇帝。修好善隣。更所以不恥之也。或疑。高麗・百濟・新羅之來朝。亦不修好善隣乎。愚謂。新羅王子來朝。任那來貢。旣在崇神・垂仁帝之朝。其後住吉大神賜高麗・百濟・新羅・任那等。譽田天王。及若櫻宮。壹戎衣而各面縛。輿櫬封圖籍降。從指阿利那禮河以誓。請神祇以盟。伏爲飼部。不乾船拖。每歲不絕朝貢。初每國置官家。爲海表之蕃屏。自是歷代以子弟爲質。常朝貢。否乃征伐以懲不逞。然是海外之諸蕃。皆爲中國之屬。唯外朝可以通信而已。諸蕃不足稱隣。中華終不行聘禮於彼地。厚往薄來以柔遠人懷外國耳。或疑外朝亦來聘乎。愚按。推古朝隋煬帝遣文林郞裴世清來聘。天智朝唐客郭務悰等來聘。其書曰。大唐帝敬問日本國天皇。天武朝郭務悰又來聘。
新字:一書曰。群臣議曰。妹子懈怠。失蕃国表。罪合流刑。具状聞奏。天王問聖恵太子。太子奏曰。妹子之罪寔不可寛。然修好善隣。妹子之功也。加以隋国使共来。思復如何。天皇大悦免罪。又曰。隋帝書曰。皇帝問倭王云云。天皇問太子曰。此書如何。太子奏曰。天子賜諸侯王書式也。然皇帝之字天下一耳。而用皇字彼有其礼。天皇召太子以下而議答書之辞。太子握筆書之曰。東天皇敬問西皇帝云云。帝謹白不具。〔通鑑綱目集覧曰。隋煬帝大業四季戊辰三月。倭国入貢。倭王遣書曰。日出処天子致書日没処天子無恙。〕 謹按。是修隣好之始也。隣者何。可以相対也。修好者何。気候水土人物事義可以好之。可以通之也。同気相求。同類相応。金終止于山。玉終入于水。各従其類。天之道也。天地之博。宇宙之渺。泛泛乎此州島。唯外国一事義於中華。故修好善隣。猶石水相投。膠漆相入。千載之神聖。一日遇之。万里之遠波。一葦航之。自是隣交之道大啓。互相聘礼。外朝之経典広行于世。人人知聖賢之事迹。文字言語之用不乏。大補中国之治平。是風従虎。雲従竜。所以雲行雨施。品物大成也。善隣之時。其資不懿乎。蓋以国之大小則彼大也。以人治之遠近則彼遼也。土地広。故人物衆庶也。治平遼。故事義無疆。当時初制書。以東天皇敬問西皇帝。唯非太子大手筆。其志気洪量。能知所以本朝為中華也。夫外朝其地博而不約。治教盛則所画惟泛。守文不明則戎狄拠之。呉越荊楚之僭列諸侯。平王之東遷於洛。或割十六州以賂契丹。或退臨安。称臣於醜虜。皆是所逼於戎狄也。是一大土中画地築城。以立封域。接境於四夷也。故天下之勢。或袤南北而東西蹙。或東西長而縮南北。或有九州十二州。或以十道二十三路。而経画不一。王統数易姓。是博而不約之失也。人主治世之来久。治乱盈虚大変。人心悉澆訛。春秋之時去古未遠。而乱臣賊子弑君父。猶薙草。大臣世臣行妖事猶禽獣。是非治道変化微言日隠之失乎。唯中国反之。卓立于巨海。封域自有天険。自神聖継天立極爾来。四夷竟藩籬亦不得窺。皇統連綿与天壤無窮。況神代之治悠久。人皇之祥永算。今日之澆季。亦尚優於周之末也。〔凡自帝堯至今四千有余年。自神武帝至今二千三百余年。自堯至周末殆二千余年。〕雖言若果澆訛当為鬼魅。上古者人少而気淳。治久人多。則気漓而人澆者。天地之数也。後世誠不及古遠矣。然乃人物亦不厚乎。且往古之神化。人皇之聖治。神勅之明教。歴世之法令。知仁之行。威武之厳。何事乏乎外朝。故与彼相対自称皇帝。修好善隣。更所以不恥之也。或疑。高麗・百済・新羅之来朝。亦不修好善隣乎。愚謂。新羅王子来朝。任那来貢。既在崇神・垂仁帝之朝。其後住吉大神賜高麗・百済・新羅・任那等。誉田天王。及若桜宮。壱戎衣而各面縛。輿櫬封図籍降。従指阿利那礼河以誓。請神祇以盟。伏為飼部。不乾船拖。毎歳不絶朝貢。初毎国置官家。為海表之蕃屏。自是歴代以子弟為質。常朝貢。否乃征伐以懲不逞。然是海外之諸蕃。皆為中国之属。唯外朝可以通信而已。諸蕃不足称隣。中華終不行聘礼於彼地。厚往薄来以柔遠人懐外国耳。或疑外朝亦来聘乎。愚按。推古朝隋煬帝遣文林郎裴世清来聘。天智朝唐客郭務悰等来聘。其書曰。大唐帝敬問日本国天皇。天武朝郭務悰又来聘。
書き下し
一書に曰く、群臣議して曰く、妹子懈怠して、蕃國の表を失ふ。罪、流刑に合ふ。具さに狀して聞奏す。天王、聖惠太子に問ふ。太子奏して曰く、妹子の罪は寔に寬すべからず。然れども好を修め隣を善くするは、妹子の功なり。加ふるに隋國の使共に來たる。思ふに復た如何、と。天皇大いに悅びて罪を免す。又曰く、隋帝の書に曰く、皇帝、倭王に問ふ、云云。天皇、太子に問ひて曰く、此の書如何、と。太子奏して曰く、天子の諸侯王に賜ふ書式なり。然れども皇帝の字は天下に一のみ。而るに皇の字を用ふるは、彼に其の禮有るなり、と。天皇、太子以下を召して答書の辭を議す。太子、筆を握りて之を書して曰く、東の天皇、敬みて西の皇帝に問ふ、云云。帝、謹んで白す、不具、と。〔通鑑綱目集覽に曰く、隋の煬帝大業四季戊辰三月、倭國入貢す。倭王書を遣はして曰く、日出づる處の天子、書を日沒する處の天子に致す、恙無きや、と。〕 謹んで按ずるに、是れ隣好を修むるの始めなり。隣とは何ぞ。以て相對すべきなり。好を修むとは何ぞ。氣候・水土・人物・事義、以て之を好みすべく、以て之を通ずべきなり。氣を同じくすれば相求め、類を同じくすれば相應ず。金は終に山に止まり、玉は終に水に入る。各々其の類に從ふは、天の道なり。天地の博く、宇宙の渺たる、泛泛乎として此の州島あり。唯だ外國の事義を中華に一にす。故に好を修め隣を善くすること、猶ほ石水の相投じ、膠漆の相入るがごとし。千載の神聖、一日にして之に遇ふ。萬里の遠波、一葦にして之を航る。是れより隣交の道大いに啓け、互ひに聘禮す。外朝の經典、廣く世に行はれ、人人、聖賢の事迹を知り、文字言語の用乏しからず。大いに中國の治平を補ふ。是れ風は虎に從ひ、雲は龍に從ひ、雲行き雨施して、品物大いに成る所以なり。善隣の時、其の資、懿からずや。蓋し國の大小を以てすれば則ち彼は大なり。人治の遠近を以てすれば則ち彼は遼かなり。土地廣し、故に人物衆庶なり。治平遼かなり、故に事義疆り無し。當時初めて書を制するに、東の天皇、敬みて西の皇帝に問ふを以てす。唯だ太子の大手筆に非ざれば、其の志氣洪量、能く本朝を中華と爲す所以を知らんや。夫れ外朝は其の地博くして約ならず。治敎盛んなれば則ち畫する所惟れ泛く、守文明らかならざれば則ち戎狄之に據る。吳・越・荊・楚の僭して諸侯に列し、平王の東のかた洛に遷り、或いは十六州を割きて以て契丹に賂ひ、或いは臨安に退きて臣を醜虜に稱す。皆是れ戎狄に逼らるる所なり。是れ一大土中に地を畫り城を築き、以て封域を立て、境を四夷に接するなり。故に天下の勢ひ、或いは南北に袤くして東西蹙まり、或いは東西長くして南北縮む。或いは九州・十二州有り、或いは十道・二十三路を以てして、經畫一ならず。王統數々姓を易ふ。是れ博くして約ならざるの失なり。人主治世の來ること久しければ、治亂盈虛、大いに變じ、人心悉く澆訛す。春秋の時、古を去ること未だ遠からずして、亂臣賊子、君父を弑すること、猶ほ草を薙ぐがごとし。大臣・世臣、妖事を行ふこと禽獸の如し。是れ治道の變化し、微言の日に隱るるの失に非ずや。唯だ中國は之に反す。卓として巨海に立ち、封域自ら天險有り。神聖、天を繼ぎ極を立てしより爾來、四夷竟に藩籬をも窺ふを得ず。皇統連綿として天壤と窮まり無し。況んや神代の治悠久にして、人皇の祥、永算なるをや。今日の澆季も、亦た尙ほ周の末よりも優れり。〔凡そ帝堯より今に至るまで四千有餘年、神武帝より今に至るまで二千三百餘年、堯より周の末に至るまで殆ど二千餘年。〕言ふと雖も、若し果たして澆訛ならば當に鬼魅と爲るべし。上古は人少なくして氣淳し。治久しくして人多ければ、則ち氣漓して人澆なるは、天地の數なり。後世は誠に古に及ばざること遠し。然れども乃ち人物も亦た厚からざらんや。且つ往古の神化、人皇の聖治、神勅の明敎、歷世の法令、知仁の行ひ、威武の嚴、何事か外朝に乏しからん。故に彼と相對して自ら皇帝と稱し、好を修め隣を善くするを、更に恥ぢざる所以なり。或ひと疑ふ、高麗・百濟・新羅の來朝も、亦た好を修め隣を善くするに非ざるか、と。愚謂へらく、新羅の王子來朝し、任那來貢すること、旣に崇神・垂仁帝の朝に在り。其の後、住吉の大神、高麗・百濟・新羅・任那等を譽田天王、及び若櫻宮に賜ふ。壹たび戎衣して各々面縛し、櫬を輿にし圖籍を封じて降る。阿利那禮河を指して以て誓ひ、神祇に請ひて以て盟ふ。伏して飼部と爲り、船の拖を乾さず、每歲朝貢を絕えず。初め國每に官家を置き、海表の蕃屏と爲す。是より歷代子弟を以て質と爲し、常に朝貢す。否れば乃ち征伐して以て不逞を懲らす。然れば是れ海外の諸蕃は、皆中國の屬と爲る。唯だ外朝のみ以て通信すべきのみ。諸蕃は隣と稱するに足らず。中華は終に聘禮を彼の地に行はず、往くこと厚く來ること薄くして、以て遠人を柔らげ外國を懷くるのみ。或ひと疑ふ、外朝も亦た來聘するか、と。愚按ずるに、推古朝に隋の煬帝、文林郞裴世清を遣はして來聘せしむ。天智朝に唐の客郭務悰等來聘す。其の書に曰く、大唐帝、敬みて日本國天皇に問ふ、と。天武朝に郭務悰又來聘す。
現代語訳
ある書にはこうある。群臣が議して言った。妹子は怠慢で、蕃国の表(国書)を失った。罪は流刑に当たる。詳しく書状にして奏上した。天皇が聖徳太子に尋ねた。太子は奏上した。妹子の罪はまことに許してはなりません。しかし好を通じ隣国と親しむことは妹子の功です。そのうえ隋の使いが共に来ています。考えるに、どうでしょうか、と。天皇は大いに喜んで罪を免じた。またこうもある。隋の皇帝の書に、皇帝が倭王に問う、とあった。天皇が太子に、この書はどうか、と尋ねた。太子は奏上した。天子が諸侯王に賜る書式です。しかし皇帝の字は天下に一人だけのものです。それなのに皇の字を用いているのは、彼らに相応の礼があるからです、と。天皇は太子以下を召して答書の文言を議した。太子は筆を握って書いた。東の天皇が謹んで西の皇帝に問う、云々。帝が謹んで申し上げる、意を尽くさない、と。(『通鑑綱目集覧』にはこうある。隋の煬帝の大業四年戊辰三月、倭国が入貢した。倭王が書を送って言った。日の出る処の天子が、書を日の沈む処の天子に送る。お変わりないか、と。) 素行はこう考える。これは隣国と好を修めることの始まりである。隣とは何か。向かい合える相手である。好を修めるとは何か。気候・風土・人物・事柄や道理において、互いに好み、通じ合えるということである。気を同じくすれば求め合い、類を同じくすれば呼応する。金はけっきょく山に止まり、玉はけっきょく水に入る。それぞれ同類に従うのが天の道である。天地は広く、宇宙ははるかで、その中にただよう島としてこの国がある。ただ外国の事柄や道理を中華(日本)と一つにしたのだ。だから好を修め隣と親しむさまは、石と水が投じ合い、膠と漆が混じり合うようなものである。千年の聖人に、一日で出会うようなものである。万里の遠い波を、一枚の葦の舟で渡るようなものである。これから隣交の道が大いに開け、互いに使者を交わす礼が行われた。外朝(中国)の経典は広く世に行われ、人々は聖賢の事績を知り、文字や言葉の用も乏しくなくなった。大いに中国(日本)の治平を補った。これは風が虎に従い、雲が龍に従って、雲が行き雨が降り、万物が大いに成長するのと同じである。善隣のときの助けは、見事ではないか。国の大きさでは彼が大きく、人による統治の長さでは彼が遠く久しい。土地が広いので人も多く、治平が長いので事柄や道理に際限がない。当時、初めて書を作って、東の天皇が謹んで西の皇帝に問う、としたのは、太子の大手筆でなければ、またその志気と度量の大きさがなければ、どうして本朝が中華である理由をよく知ることができただろう。外朝は土地が広くて締まりがない。教化が盛んなときは区画も広がり、守り伝える文が明らかでなくなれば戎狄がこれに拠る。呉・越・荊・楚が僭称して諸侯に列し、周の平王が東の洛に遷り、あるいは十六州を割いて契丹に贈り、あるいは臨安に退いて卑しい敵に臣を称した。これらはみな戎狄に迫られたのである。これは広大な土地の中に地を区切り城を築いて境界を立て、四方の異民族と境を接しているからである。それゆえ天下の形勢は、南北に長くて東西が縮まったり、東西に長くて南北が縮まったりする。九州・十二州があったり、十道・二十三路があったりして、区画が一定しない。王統は何度も姓を易えた。これが広くて締まりがないことの欠点である。君主が世を治めて久しくなると、治乱・盈虚が大きく変じ、人心はすべて軽薄に偽りへと流れる。春秋の時代は古を去ってまだ遠くないのに、乱臣賊子が君や父を殺すことは草を刈るようであった。大臣や世臣が禽獣のように怪しいことを行った。これは治道が変化し、微妙な言葉が日々隠れていく欠点ではないか。ただ中国(日本)はこれと反対である。大海の中に卓然と立ち、国境はおのずと天然の険がある。聖なる神が天を継ぎ極を立てて以来、四方の異民族はついに垣根をさえうかがうことができなかった。皇統は連綿として天地とともに窮まりがない。まして神代の治は悠久で、人皇のめでたさは長い年数に及ぶ。今日の末世も、なお周の末よりは優れている。(堯帝から今まで四千年余り、神武帝から今まで二千三百年余り、堯から周の末までおよそ二千年余りである。)そう言っても、もし本当に軽薄で偽りに満ちていたなら、人は鬼魅になっているはずだ。上古は人が少なく気が淳かった。治が長く続いて人が多くなれば、気が薄れて人が軽薄になるのは、天地の数(定め)である。後世は確かに古にはるかに及ばない。しかしそれでも人物は厚くないことがあろうか。そのうえ、往古の神の教化、人皇の聖なる治、神勅の明らかな教え、歴代の法令、知と仁の行い、威武の厳しさにおいて、外朝に乏しいものが何かあるだろうか。だから彼と相対して自ら皇帝と称し、好を修め隣と親しむことを、少しも恥じないのである。ある人は疑う。高麗・百済・新羅の来朝も、好を修め隣と親しむことではないのか、と。私は考える。新羅の王子が来朝し、任那が貢ぎ物を持って来たのは、すでに崇神・垂仁天皇の朝にある。その後、住吉の大神が高麗・百済・新羅・任那などを誉田天王(応神天皇)および若桜宮(履中天皇)に賜った。一度軍装して、それぞれ面縛し、棺を車に載せ、地図と戸籍を封じて降った。阿利那礼河を指して誓い、神祇に請うて盟った。伏して飼部となり、船の艫綱を乾かすいとまなく、毎年朝貢を絶やさなかった。初め国ごとに官家を置いて、海外の守りの垣とした。これ以後、歴代、子弟を人質として常に朝貢した。そうでなければ征伐して不届き者を懲らしめた。そうである以上、海外の諸蕃はみな中国(日本)に属する。ただ外朝だけが対等に通信できる相手である。諸蕃は隣と称するに足りない。中華(日本)はついに聘礼を彼の地で行わず、行きは厚く来るのは薄くして、遠方の人を和らげ外国を手なずけるだけであった。ある人は疑う。外朝も来聘したのか、と。私は考える。推古朝に隋の煬帝が文林郎の裴世清を遣わして来聘させた。天智朝に唐の客の郭務悰らが来聘した。その書にはこうあった。大唐の皇帝が謹んで日本国の天皇に問う、と。天武朝にも郭務悰がまた来聘した。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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『中朝事実』禮儀章・国史・憲法・詔書と文字の起こり其の後、中朝、遣唐使を置き、外朝に通信す。然れども外朝の書簡は、多く諸侯王を以てす。世衰へ人訛り、此を以て足れりと爲す。其の失は何にか在る。唯だ記誦文字の俗儒に造端し、以て我が國の我が國たるを知らざるに至る。噫、家雞を輕んじ野雉を愛す、何ぞ德の衰へたるや。〔以上、善隣の禮を論ず。〕 應神帝二十八年秋九月、高麗王、使を遣はして朝貢す。因りて以て表を上る。其の表に曰く、高麗王、日本國に敎ふ、と。時に太子菟道稚郞子、其の表を讀みて之を怒り、高麗の使を責む。表狀無禮なるを以て、則ち其の表を破る。 謹んで按ずるに、是れ表狀の禮を正すなり。凡そ太子、外朝の典籍を讀むこと此に十五年。然れども乃ち外朝の文字の相通ずること未だ遠からずして、太子の聰明、通達せざる莫しと雖も、中州は同氣相應ずるに非ず、如何ぞ速やかに弘文の盛を得んや。高麗は我が屬國にして、表狀無禮なれば、太子、表を破り使を責む。其の嚴なること此くの如し。志氣德量、并せ按ずべきなり。 履中帝四年秋八月辛卯朔戊戌、始めて諸國に國史を置く。言事を記し、四方の志を達す。 謹んで按ずるに、是れ國史を置くの禮なり。 推古帝十二年夏四月丙寅朔戊辰、皇太子親ら肇めて憲法十七條を作る。 謹んで按ずるに、是れ憲章の書を作るの初めなり。 十六年、唐帝に聘す。其の辭に曰く、東の天皇、敬みて西の皇帝に白す、と。 謹んで按ずるに、是れ詔書の禮なり。此の後、公式の禮大いに行はる。〔詳しくは善隣の禮を論ずる條の上に見ゆ。〕新羅王・渤海王に璽書を賜ふに、天皇敬みて某國の王に問ふを以てす。是れ乃ち天子の諸侯王に賜ふ書の禮なり。凡そ文辭命令は、國家の大禮なり。文字言辭の褒貶に因りて、以て尊卑親疎の禮を存し、後世國史の例と爲す。草創・討論・潤色の義、更に忽にすべからざるなり。 二十八年、皇太子・島大臣共に議し、天皇記及び國記、臣・連・伴造・國造・百八十部并せて公民等の本記を錄す。〔蘇我稻目宿禰の子馬子、家を飛鳥河の傍に置き、乃ち庭中に小池を開き、仍りて小島を池の中に興す。故に時人曰く、島大臣、と。〕 謹んで按ずるに、是れ皇記・國記・本記の始めと爲す。孝德帝四年、鞍作の事有り。〔蘇我臣入鹿、更の名は鞍作。〕父の蘇我臣蝦夷、誅に臨みて、悉く天皇記・國記を燒く。船史惠尺、卽ち疾く燒かるる所の國記を取りて、中大兄に奉る。〔天智帝なり。〕此の時、往古の典籍悉く燒失す。其の後、天武帝詔して群臣に帝紀及び上古の諸事を記定せしめ、境部連石積等に命じて、更に肇めて新字一部四十四卷を造らしむ。是れより連綿として典籍日に造られ、文書大いに世に行はる。然れども中國往古の實記は火に入り、舊紀明らかならず。唯だ灰殘の燼竹を摘みて、以て間ま此の往事を存す。亦た萬世の戒と爲すに足る。吁、惜しいかな。或ひと言語文字を疑ふ。愚謂へらく、人旣に口舌有れば、則ち音聲有り。故に情の發する所、自ら言語有り。言語有れば、則ち終に文字の象有り。其の直ちに出づるを聲と曰ひ、曲節有るを音と曰ふ。其の形象の以て通ずべきを字と曰ひ、其の條理の節有るを文と曰ふ。共に是れ天地人物自然の勢ひなり。豈に唯だ中國外朝のみならんや。四夷の侏離、禽獸の嘷吼も亦た然り。直だ其の正を得ざるのみ。往古の神
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『中朝事実』禮儀章・文字と和訓・書画の礼聖旣に唱和・嘖讓・誓約の義有り。太玉命の稱讚、天兒屋命の太諄辭。況んや天神の聖勅をや。素戔鳴尊の稻田姫に於けるや、彥火火尊の豐玉姫に於けるや、神武帝の御謠、道臣命の諷歌に至りては、乃ち章有り句有り文有り藻有らんや。夫れ文字の作るや、其の言語音聲に因りて、其の事物の形氣を象り、端を其の始めに造り、修飾楷模、其の後に備完す。蓋し往古に假名字有り。〔俗に伊呂波と曰ふ。〕是れ乃ち文字の父母にして、言語の音象なり。以て其の事を通じ、以て其の情を表す。後世因循增益して、千變萬化の文字と爲り、天下の用と爲る。音聲の委曲婉轉なること、人情の精微幽玄なること、繕寫して之を盡くさざる莫し。應神帝に及びて、外朝の文字相通じ、字畫の規楷、殆ど中華の文字に類す。五音の平上去入も亦た此に異ならず。和漢の字相通用し、外國を譯するに漢字を以てし、言語を詳らかにするに倭訓を以てす。然れば乃ち中華の文字は、其の實倭字に在り。倭漢の字を以て互ひに相用ゐ、以て天下の利と爲すなり。或ひと疑ふ、今用ゐる所の文字は、皆外國の文字なり。上古の文字は何ぞ形象有りしかを知らず、と。愚謂へらく、凡そ文字の制は必ず時と與に變化す。往古の文書は、鞍作の亂に悉く灰と爲り、其の時、旣に之を知るべからず。況んや後世をや。且つ外朝の文字相通じてより爾來、文學の史生、留學の博士、專ら外書を好み、其の記する所、其の言ふ所、悉く漢語を用ふ。是れ倭漢の事義、筆畫互ひに相因るなり。鯛・鯔・年魚・堅魚・鰶魚を魚と爲し、槇・椿・梶・櫻・楓を木と爲す。或いは外朝の字義に同じからず、或いは外書に其の字無きの類甚だ多し。皆國俗の制なり。或ひと疑ふ、然れば乃ち何ぞ中國の字編無きや、と。愚謂へらく、外國と中國とは、天地の氣候を一にし、神聖の揆を同じくして、人物事義、殆ど異ならず。漢語の相襲ふこと、猶ほ水は濕に流れ火は燥に就くがごとし。少頃にして天下の人人、皆倭字漢字を相用ゐ、外朝の治平遼遠、人物の其の事に敏き、文書史編の字畫、悉く之を致すに異ならず。故に中州乃ち之に因りて以て補益す。假借の來たること、是れ其の短を措き其の長に就くの道なり。竊かに按ずるに、往古の言語名字は、其の說其の義、今審らかにすべからず。强ひて之を解けば附會に似たり。或いは上古の辭有り、或いは後世の訛言有り、或いは漢字通用の語有り、或いは方言有り、或いは時俗の辭の相製するもの有り。大抵、中朝の言語は悉く訓故を用ゐ、言辭の間、事物尤も通じ易し。文章辭令を盡くすに足らず。外朝は之に反し、言語盡く音を用ゐる。故に一事と雖も文字に贍らざれば、明辨し難し。此に於て文章辭令、日に繁く年に累なる。夫れ外朝の古は、鳥迹以て結繩に代へ、科斗以て鳥形に代へ、篆籕以て科斗に代へ、隷書以て篆籕に代へ、而して後、草書・飛白の類相續いで起こる。漢の時、周を去ること未だ遠からずして、科斗の文字、人解くを得ず。然れば乃ち上古近代の字畫の同じからざること、外朝すら尙ほ爾り。況んや武后の圀字を作る、〔國字。昌黎の作れる犯字、音は敦の上聲。收錢了訖。〕庵を隋唐に奄と作る、十を唐音に平聲と爲す、〔唐詩に平聲と爲す。音は當に諶と爲すべし。之を長安の語音と謂ふ。否れば則ち詩叶はず。〕□字は梵音、詩人之を用ゐる、〔□は伊字、佛書に之を用ゐる。唐の王維の詩に三點伊を成すと、猶ほ想有り。〕綱字は之無し、升庵之を用ゐる、〔綱字は書に之無し。楊升庵に綱巾の義有り。〕廉編は字有りて音無く義無し。此の如きの類尤も多し。故に經史に出でざるの字有り、音義に知るべからざるの字有り。或いは奇字近作有り、或いは釋梵の俗字有り、或いは叶韻假借有り。然れども外朝文字の祖は、易を以て本と爲し、奇偶を以て畫と爲し、形・事・意・聲を以て體と爲す。只だ日に便簡に趨き、字楷古意を失ふ。豈に字畫のみ爾らんや。事物の修飾、其の道を以てせざれば、則ち其の實泯沒して其の古を失ふ。并せ案ずべきなり。或ひと疑ふ、此に因れば則ち文學は必ず外朝を以て長ずと爲すか、と。愚謂へらく、漢語の文學は、外朝に倚らざれば之を知るべからず。故に推古帝、好を修め隣を善くせしより後、外國通信已まず。留學生を置き、以て漢語を講肆せしむ。外朝の典籍、來たらざる無し。吉備眞備・阿倍仲滿の如き、盛唐の文人詩仙と相並びて愧ぢざるに至る。其の風を慕ひ塵を繼ぎて相興る者、世世人に乏しからず。詩賦文章の集、以て册と爲す。亦た何ぞ彼に異ならんや。抑も文學は我が文學にして、必ずしも彼ならず。大底、朝廷の紀錄・史書・勅集は、皆漢字を假借し倭語を訓ず。其の間、專ら漢語を以てするもの有り、倭漢相襍ふるもの有り、倭字を以てするもの有り。日本書紀・萬葉集・古今集、及び六條宮の眞字を以て伊勢物語を模謄し、菅爲長の倭語を訓じて貞觀政要を諺說するが如き是れなり。中朝の文學を知らずして漢文を學ぶは、猶ほ未だ人に事ふること能はずして鬼神に事ふるを問ふがごとし。或ひと問ふ、書畫にも亦た中朝の法有りや、と。愚謂へらく、旣に文字有れば、則ち未だ嘗て模楷無くんばあらず。上古の事迹は、今之を知るべからず。中古以來、眞・行・艸の精秀、或いは神に入り、或いは聖に入り、鬼神も亦た之に感じ、木石も亦た動く。其の勢ひ龍鳳より飛び、其の機未然に通ずるの輩、相續き連綿として、各々一家の風を興し、又た外朝に相並ぶ。藤道長・藤佐理及び野人若愚の善書の稱、彼の國の書を見て、況んや畫手の妙、更に彼に愧ぢざるをや。凡そ文字の形象日に變じ、其の觀に壯なる者は、殆ど古意を失ふ。筆資の意を縱にし、點楷の手に任するに、凌雲・垂露の逞しきは、是なるは是なれども、字畫の繇つて參差する所、俗字の由りて興起する所なり。外朝の善書者も亦た然り。字、變じて楷と爲り、大いに古體に背く。而して鍾繇・王羲之、楷を善くするを以て名家たり。吁、修飾の禮は、君子に非ざれば其の實を得べからざるなり。〔以上、文書の禮を論ず。〕
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『中朝事実』附錄・中国の名と聖徳太子論或ひと疑ふ、本朝を中国と称するは、直に称美するなるか。又其の所以の名有るかと。 愚謂へらく、二神、磤馭盧島を以て国中の柱と為す。是れ乃ち本朝の天地の中たるなり。天照大神、天上に在りて曰はく、「聞く、葦原中国に保食神有りと」。又高皇産霊尊、天津彦火瓊瓊杵尊を立てて、以て葦原中国の主と為さむと欲す。是れ天神皆此の地を以て中国と為す。是より歴代、中国と称す。蓋し地は天の中に在りて、中国又其の中を得たり。是れ乃ち中の又中なり。土の天地の中を得れば、則ち人物必ず精秀にして、事義も又過不及の差無し。本朝の太祖天御中主尊、国常立尊、其の尊号の名義に、既に常中の言有り。以て国中の柱を建つ。故に其の中国たる所以は、乃ち天然の勢なり。竊かに按ずるに、外朝の聖礼は、諸を此に論ずれば、殆ど過厚に幾し。所謂衣に裘毳有り、食に牛羊有り、居に楊牀有り、廟に釁るに牲を以てし、盟を誓ふに牛を殺し、喪に含斂有り、婚に媵娣姪の類是れなり。西蕃の釈教は、諸を此に論ずれば、太甚だ漓薄にして及ばざるなり。其の髡髪食菜、運水搬柴を以て道と為し、祭に蔬麺を用ゐ、喪に火葬有り、其の大に及びては、終に君を薄くし父を蔑し倫を乱すの類是れなり。唯だ本朝は神聖相続ぎ、大賢英才日に興り、其の宜しきを把り、其の礼を制す。是れ乃ち天地人物事義の中、至誠息む無きの道なり。故に皇統は天壌と窮まり無く、礼儀は因循して、天下之に由る。惜しいかな、旧紀の詳らかなるは、入鹿の火に厄す。然れども世世人に乏しからず。若し其の遺風余烈に因りて、以て礼楽の実を斟酌せば、亦難からざらむ。是れ中国の称は、唯だ本朝の名を虚しからざる所以なり。 或ひと疑ふ、八耳王子を聖徳と号するは、殆ど其の実無からむか。馬子を討つ能はずして弑逆を信じ、西教を信じて浮屠の法を熾んにす、其の本大いに聖徳に違ふかと。 愚謂へらく、馬子弑逆の罪、太子の聡明、未だ嘗て其の機を知らずんばあらず。良史は太子八耳、天王を弑するを書して隠さず。太子又法を為して其の悪を受くべし。太子、蘇我の勧引浹洽に因りて、以て異教を信ず。尤も不可なること大なり。竊かに按ずるに、太子は推古帝に摂政して、其の行ふ所、其の施す所、治道の休善、皆神聖の道にして、西域の教に非ず。其の憲章を述作するや、礼を以て人民の本と為す。其の外国に通好するや、天皇を以て抗称して屈せず。其の聡明度量は、睿知寛仁と謂ふべし。故に天下大いに化す。其の薨ずるや、少壮も考妣を喪ふがごとく、哭泣の声、道路に盈つ。耕す者は耒を釈き、春く者は杵を釈く。然れば乃ち其の功化は、聖徳を以てするも亦宜なるかな。蓋し此の時、釈氏の教は専ら熾んなりと雖も、未だ心性を弄び、空虚を彫ること太甚だしきに至らず。唯だ専ら信じ篤く敬ひ、以て福を祈り奇を尚ぶのみ。故に太子の建つる所の憲章は、礼を以て道を制す。並び按ずべし。俗儒皆疑ふ、憲章に三宝の説有りと。然れば乃ち之を信ずるに足らず。 愚謂へらく、憲法の内、一条に三宝の敬篤き有り。一の非を以て十六条の是を掩ふは、君子の志に非ず。其の寺を建て僧を度するは、皆西教の染習なり。憲章の如きは、尤も治世の要戒なり。豈に信ぜざるべけむや。後世、太子を尊信すること過誇にして、悉く其の実を銷し、其の私記臆説を附会牽合す。更に言論するに足らず。唯だ日本紀に拠りて、以て之を証見すべきなり。
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『中朝事実』中國章・辺境の守りと四道将軍・蝦夷への備え崇神帝十年冬十月乙卯朔、群臣に詔して曰く、今返る者、悉く伏誅す。幾内事無し。唯だ海外荒倍し、騒動未だ止まず。其の四道将軍等、今忽ちに発て、と。丙子、将軍等共に路に発つ。十一年夏四月壬子朔己卯、四道将軍、戎夷を平らぐるの状を以て奏す。是の歳、異俗多く帰す。国内安寧なり。 謹んで按ずるに、二神、守るべきの境を定めて後、鴻蒙草昧にして封疆未だ分かたず。神武帝、天業を経綸し、中州を制して後も、又た未だ化徳を弘恢せず。帝は識性聡敏にして、尤も雄謀有り。故に大いに四方を開き、以て辺要を規る。下に逸民無く、教化流行す。終に蒼生の課役を正し、船舶の運転を利して、天下大平なり。 景行帝二十五年秋七月庚辰朔壬午、武内宿禰を遣わし、北陸及び東方の諸国の地形、且つ百姓の消息を察せしむ。二十七年春二月辛酉朔壬子、武内宿禰、東国より還りて奏して言う、東夷の中に日高見国有り。其の国人は男女並びに椎結文身し、人と為り勇悍なり。是れを総じて蝦夷と曰う、と。四十年夏六月、東夷多く叛き、辺境騒動す。冬十月、日本武尊に命じて之を征せしむ。蝦夷罪に服す。五十三年、東海に巡狩す。 謹んで按ずるに、帝、自ら西州を征し、東方を巡狩し、七十余子を封建し、各おの其の国の如くせしむ。是れ乃ち四方の辺境を定め、王室の藩屏と為すなり。 成務帝四年春二月丙寅、国郡に長を立て、県邑に首を置く。当国の幹了なる者を取りて、其の国郡の首長に任ず。是れ中区の藩屏と為すなり。五年秋九月、山河を隔てて国県を分かち、阡陌に随いて邑里を定む。因りて東西を以て日縦と為し、南北を日横と為し、山陽を影面と曰い、山陰を背面と曰う。 謹んで按ずるに、天下の辺要は、帝に逮びて其の制相成る。蓋し辺要とは天下の藩屏なり。四辺は唯だ陸奥・出羽・佐渡・対島・多禰を以て辺要国と為し、太宰府・鎮守府を以て藩鎮の所と為す。鎮西府とは、異域の襲来に備うるなり。鎮守府とは、蝦夷の跋扈を征するなり。異域は竟に辺境を侵すを得ず。蝦夷は数しば東藩を寇す。故に国守有り、将軍有り、両国按察使府・秋田城介有り。信夫郡以南の租税を以て国府の公廨に充て、苅田以北の稲穀を以て鎮府の兵粮に充つ。常に五千人の兵を置き、許多の兵器を運送す。是れ辺要を慎むなり。凡そ承平の治、王化の沢、下に浴さざる無し。而して辺境の広く、遠人の信は、必ず教えを異にし風を殊にす。故に其の弊、或いは盗賊劫窃し、山に入りて険に拠り、或いは吏務の奸謀に因りて、辺民恨みを含むの事、未だ嘗て無くんばあらず。故に吏幹の才を択び、巡察の使を詳らかにして、以て辺疆を安んず。是れ上古の聖戒なり。豈に忽せにすべけんや。〔以上、辺要を守るの備え。〕 以上、水土の規制を論ず。謹んで按ずるに、地は天の中に在り、中に又た四辺無くんばあらず。而して其の中を得るを中国と曰う。天地の中を得るを言うなり。天地の中とは何ぞ。四時行われ、寒暑順い、水土人物甚だ美にして、過不及の差無き、是れなり。万邦の衆、唯だ中州及び外朝のみ天地の中を得たり。故に人物事義、大いに異ならず。其の極を建て、以て聖教を致すこと、殆ど節を合わすが如し。〔外朝鮮も亦た水土を同じくす。然れども朝鮮とは外朝と封域を同じくす。唯だ其の東藩に在るのみ。〕蓋し土地有れば、則ち国郡有り。国郡有れば則ち都鄙の分有り。而して王畿を設け、都宮を建て、道路を制し、四方以て之に通じ、四藩以て之を屏る。故に其の規や、其の制や、未だ嘗て其の道を尽くさずんばあらず。凡そ上は天象に法り、下は地勢を詳らかにし、人物の計会を校べ、治乱の機を察して、以て其の礼用を致し、以て其の至誠を尽くせば、則ち遠近・都鄙・内外、同じく其の俗を同じくし、其の利を通ずるなり。天下の大、国郡の区、一々挙ぐべからずと雖も、朝廷より邦畿に及び、王畿より四方に及び、四方より四疆に至ること、猶お一元気の周流し、四支百骸を営衛して、以て諸を一胸臆に統ぶるがごとし。然れば乃ち朝廷・王畿は、天下の規範にして、兆民の具に瞻る所なり。豈に一人の私を縦にし、当時の治を伐ちて、其の規制を致さざるべけんや。
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『中朝事実』中國章・秋津洲の国土と外朝との比較論神武帝三十有一年夏四月乙酉朔、皇輿巡幸す。因りて腋上の嗛間丘に登りて、国の状を廻望して曰く、妍しきかな、国を獲つること。〔妍しきかな、此れを婀奈珥夜と云う。〕内木綿の真迮き国と雖も、猶お蜻蛉の臀呫の如し、と。是れに由りて始めて秋津洲の号有り。昔、伊弉諾尊、此の国を目して曰く、日本は浦安の国、細戈の千足る国、磯輪上の秀真国、と。〔秀真国、此れを袍図莽勾爾と云う。〕復た大巳貴大神目して曰く、玉牆の内つ国、と。饒速日命、天磐船に乗りて、太虚を翔行り、是の郷を睨て降りたまうに及びて、故に因りて目して曰く、虚空見つ日本の国、と。 謹んで按ずるに、本朝の地、形は長く広く〔東西を広と曰う〕短く袤〔南北を袤と曰う〕、西上東下、皆な豊大なり。艮の位を背にして離の明に向かう。蜻蛉の臀呫に象る。洋海四方を廻り、唯だ西方少しく外域の舶を寄すべきも、襲来の畏れ無し。故に浦安国・玉牆内国と称す。是れ内木綿の真迮き国なり。其の形戈の如くにして、品物備わらざる無し。尤も秀精の地なり。故に細戈の千足る国・磯輪上の秀真国と曰う。帝曰く、妍しきかな、国を獲つること、と。噫、大なるかな。蓋し国の地に在る、枚挙すべからず。而して其の文物は古今称する所、外朝を以て宗と為し、日本・朝鮮之に次ぐ。愚竊かに考うるに、惟れ四海の間、唯だ本朝と外朝とのみ、共に天地の精秀を得て、神聖其の機を一にす。而して外朝も亦た未だ本朝の秀真なるに如かず。凡そ外朝は其の封疆太だ広く、四夷に連続し、封域の要無し。故に藩屏屯戍甚だ多く、其の約を守るを得ず。失の一なり。近く四夷に迫る。故に長城要塞の固め、世世人民を労す。失の二なり。守戍の徒、或いは狄に通じて難を構え、或いは狄に奔りて其の情を泄らす。失の三なり。匈奴・契丹・北虜、其の釁を窺い易く、数しば以て劫奪す。其の失の四なり。終に其の国を削り、其の姓を易え、而して天下左衽す。大いなる失の五なり。況んや河海遠くして、魚蝦の美・運転の利給せず。故に人物も亦た其の俗を異にす。牛羊を啖らい、毳裘を衣、榻床に坐するが如き、以て之を見るべし。況んや朝鮮は蕞爾たるをや。独り本朝のみ、天の正道に中し、地の中国を得、南面の位を正し、北陰の険を背にし、西を上とし東を下とし、前は数洲を擁して河海を利し、後ろは絶峭に拠りて大洋を望む。州ごとに悉く運漕の用有り。故に四海の広きも猶お一家の約の如く、万国の化育は天地の正位に同じ。竟に長城の労無く、戎狄の膺つこと無し。況んや鳥獣の美、林木の材、布縷の巧、金木の工、備わらざる無し。聖神の称美の嘆、豈に虚ならんや。昔、胡元の世祖、外朝を奪い、其の勢いに乗じて本朝を撃つ。大兵悉く敗れ、彼の地に帰る者僅かに三人。其の後、元主しばしば窺えども我が藩籬を侵すを得ず。況んや高麗・新羅・百済は皆な本朝の藩臣なるをや。聖神の太虚を翔行り、是の郷を睨て降りたまうこと、最も宜なるかな。〔後漢書に曰く、太倭王は耶麻台に居る、と。唐東夷伝に曰く、日本は古の倭奴なり、と。〕〔是れ皆な商賈販人の言に因りて、其の事を記す。故に以て証とするに足らず。〕〔以上、本朝の水土を論ず。〕
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『配所残筆』配所殘筆(21)乍序我等存寄之學問之節少々記置候、我等事以前より異朝之書物を好、日夜勤候て、近年新渡之書物は不存、十ヶ年以前迄異朝より渡り候書物大方不殘令一覽候、依之不覺異朝之事を諸事宜存、本朝は小國故異朝には何事も不及、聖人も異朝にこそ出來候へと存候、此段は我等計に不限、古今之學者皆左樣に心得候て、異朝をしたひ學び候、近頃初而此存知入甚誤成りと知候、信耳不信目、棄近而取遠候事不及是非、誠に學者之通病に候、詳に中朝事實に記し候へば大概を爰に記置候、本朝者天照太神之御苗裔として、神代より今日迄其正統一代も違候事無之、藤原氏輔佐之臣迄世々不斷して、攝錄之臣相續候事、亂臣賊子之不義不道成事無之候故なり、是仁義之正德甚厚成故にあらずや、次に神代より人皇十七代迄は悉聖德之人君相續あり、賢聖の臣輔佐奉りて、天地之道を立、朝廷之政事國郡之制を定め、四民之作法日用衣食家宅冠婚喪祭之禮に至まで各其中庸を得て、民やすく國平に、萬代之規模立て、上下之道明成は、是聰明聖知之天德に達せるにあらずや、况武勇之道を以いはば、三韓を平げて本朝へ貢物をあげ、高麗を攻て其主城を落し入、日本の府を異朝に設て武威を四海にかゞやかす事、上代より近代迄然り、本朝武勇異國までも恐れ候得共、終に外國より本朝を攻取候事はさて置、一ヶ所も彼地へうばはるゝ事なし、されば武具馬具劍戟之制、兵法軍法戰略之品々、彼國の及處にあらず、是武勇之四海にまされるにあらずや、然者智仁勇の三は聖人之三德也、此三德一つもかけては聖人の道にあらず、今此三德を以本朝と異朝とを一々其印を立て校量せしむるに、本朝はるかに勝れり、誠にまさしく中國といふべき所分明なり、是更に私に云にあらず、天下之公論なり、上古に聖德太子ひとり異朝を貴びず、本朝之爲本朝事をしれり、然れども舊記は入鹿が亂に燒失せるにや、惜哉其全書世に顯れず、