中朝事実 / 神敎章・王仁の渡来と外朝の学を採る度量
譽田天皇十五年秋八月壬戌朔丁卯。百濟王遣阿直岐貢良馬二匹。卽養於輕坂上厩。因以阿直岐令掌飼。故號其養馬之處曰厩坂也。阿直岐亦能讀經典。卽太子菟道稚郞子師焉。於是天皇問阿直岐曰。如勝汝博士亦有邪。對曰。有王仁者是秀也。時遣上毛野君祖荒田別巫別於百濟。仍徵王仁也。其阿直岐者阿直岐史之始祖也。十六年春二月。王仁來之。則太子菟道稚郞子師之。習諸典籍於王仁。莫不通達。故所謂王仁者。是書首等之始祖也。 百濟王眞道〔後賜菅野姓。〕上表〔延曆朝。〕曰。眞道等本系出自百濟國貴須王。貴須王者百濟始興第十六世王也。夫百濟太祖都慕大王者。日神降靈。奄扶餘而開國。天帝授籙。惣諸韓而稱王。降及近肖古王。遙慕聖化。始聘貴國。是則神功攝政之年也。其年應神天皇命上毛野氏遠祖荒田別使於百濟。搜聘有識者。國主貴須王恭奉使者。採擇宗族。遣其孫辰孫王〔一名智宗王。〕隨使入朝。天皇嘉焉。特加寵命。以爲皇太子之師矣。於是始傳書籍。大闢儒風。文敎之興。誠在於是。仁德天皇以辰孫王長子阿郞王爲近侍。桓武朝。武生連眞象等言。漢高祖之後曰鸞。鸞之後王狗。轉至百濟。久素王時。聖朝遣使徵召文人。久素王卽以狗孫王仁貢焉。是又武生等之祖也。 謹按。是中國學外國之經典之始也。學者以修己治人爲本。修己治人之道。不通人情事物。卽不得其誠。夫天神之生知無不通。天祖之明敎無不盡。故神武帝建洪基。綏靖帝至孝。崇神帝日愼一日。垂仁帝無所矯飾。景行帝雄謀。成務帝兢惕。皆是從乾靈之正德。繹大神之明敎。以詳人物之情。施當世之急務。天秩以叙。人物得處。是乃中州神聖之學原。著明于往古。而萬世足以法之也。及仲哀帝。住吉大神賜有寶國。神功帝親征三韓。三韓面縛服從。耀武德於外國。自是三韓每年朝聘。獻貢不乾船楫。故外國之諸器及經典無不具。百濟王懇欵之餘。貢博士女工等。於此中州始知漢字。應神帝聖武而聰達。博欲通外國之事。徵王仁。讀典籍。太子師之。以能通達漢籍也。凡外朝三皇·五帝·禹·湯·文·武·周公·孔子之大聖。亦與中州往古之神聖其揆一也。故讀其書。則其義通。無所間隔。其趣向猶合符節。採挹斟酌。則又以足補助王化矣。竊按。譽田帝虛己徵百濟博士。後中國廣通外朝之典籍。知聖賢之言行。是乃住吉大神之賚也。或疑。外朝不通我而文物明。我因外朝而廣其用。則外朝優于我。愚按。否。自開闢神聖之德行。明敎無不兼備。雖不知漢籍。亦更無一介之闕。幸通外朝之事。取其所長。以輔王化。不亦寬容乎。何唯外朝而已。凡天下之間。詳知並畜。校短考長。待用無遺。從事是適。量之大也。内外相持。人物以成。若護短拒外。非君子所爲。況外朝與我一其致。而其歷世尤久也。其封域太廣也。其人物衆多。政事損益也。足共以覩之乎。是所以中州之冠八紘也。後世勘合絕不脩鄰交之好。亦我無不足。可并考也。或疑。王仁德高。且善於毛詩。故爲難波津之詠。遂以成仁德帝之聖。愚按。否。王仁者通漢籍之博士也。此時人未通漢字。故造端於彼而已。後令阿知使主與王仁記官物之出納。〔見古語拾遺。〕則其職掌可知也。難波帝者。謙德寬仁之明主。時無遺賢。朝無謬擧。古今以爲聖帝。王仁之才德不著于國史。食祿唯爲文首。則可恥之至也。俗學末儒蔑中國以信外邦。是貴耳賤目之徒。附益助長之弊也。〔以上。學外朝之文〕 以上致敎學之淵源。謹按。學者效也。效其不知不能也。近者見而知之。遠者聞而知之。人之生自幼孩至壯老。未嘗不由敎學也。蓋人長萬物者有知也。知之靈也。思無不通。致無不盡。故其爲小人也。其爲君子也。皆因學之所習。夫火有可然之質。而不用薪柴加以風。則不能長其威。水有可流之素。而不因卑下以疏導。則不得深其源。或暴之。或鑿之。則其害及人物。豈水火而已乎。學之於人不愼哉。故天神之生知。如動而感言而通。猶有思兼議謀之詳。及天孫之臨降。有神勅之嚴。有神器常可守。有二神以輔養。其脩身治人之道至矣盡矣。是後世非聖敎之淵源乎。或疑。中朝乏書史。久絶學校進士之設。故人才未得成乎。愚謂。神聖者見而知之。後世聞而知之。恐其差謬。記錄相續。其筆削非聖人。未免臆說。編簡日盛。人以書爲學。聖敎漸隱。日用大晦。異其端。堅其白。而彫空虛。刻氷水。況學校進士之設。不得其實。則競詐僞。趨利勢而已。夫以博識。則盡華夷之書。未可爲多。能通其道。則一言不可以爲少。)況史編之不闕乎。
新字:誉田天皇十五年秋八月壬戌朔丁卯。百済王遣阿直岐貢良馬二匹。即養於軽坂上厩。因以阿直岐令掌飼。故号其養馬之処曰厩坂也。阿直岐亦能読経典。即太子菟道稚郎子師焉。於是天皇問阿直岐曰。如勝汝博士亦有邪。対曰。有王仁者是秀也。時遣上毛野君祖荒田別巫別於百済。仍徴王仁也。其阿直岐者阿直岐史之始祖也。十六年春二月。王仁来之。則太子菟道稚郎子師之。習諸典籍於王仁。莫不通達。故所謂王仁者。是書首等之始祖也。 百済王真道〔後賜菅野姓。〕上表〔延暦朝。〕曰。真道等本系出自百済国貴須王。貴須王者百済始興第十六世王也。夫百済太祖都慕大王者。日神降霊。奄扶余而開国。天帝授籙。惣諸韓而称王。降及近肖古王。遥慕聖化。始聘貴国。是則神功摂政之年也。其年応神天皇命上毛野氏遠祖荒田別使於百済。捜聘有識者。国主貴須王恭奉使者。採択宗族。遣其孫辰孫王〔一名智宗王。〕随使入朝。天皇嘉焉。特加寵命。以為皇太子之師矣。於是始伝書籍。大闢儒風。文教之興。誠在於是。仁徳天皇以辰孫王長子阿郎王為近侍。桓武朝。武生連真象等言。漢高祖之後曰鸞。鸞之後王狗。転至百済。久素王時。聖朝遣使徴召文人。久素王即以狗孫王仁貢焉。是又武生等之祖也。 謹按。是中国学外国之経典之始也。学者以修己治人為本。修己治人之道。不通人情事物。即不得其誠。夫天神之生知無不通。天祖之明教無不尽。故神武帝建洪基。綏靖帝至孝。崇神帝日慎一日。垂仁帝無所矯飾。景行帝雄謀。成務帝兢惕。皆是従乾霊之正徳。繹大神之明教。以詳人物之情。施当世之急務。天秩以叙。人物得処。是乃中州神聖之学原。著明于往古。而万世足以法之也。及仲哀帝。住吉大神賜有宝国。神功帝親征三韓。三韓面縛服従。耀武徳於外国。自是三韓毎年朝聘。献貢不乾船楫。故外国之諸器及経典無不具。百済王懇欵之余。貢博士女工等。於此中州始知漢字。応神帝聖武而聰達。博欲通外国之事。徴王仁。読典籍。太子師之。以能通達漢籍也。凡外朝三皇·五帝·禹·湯·文·武·周公·孔子之大聖。亦与中州往古之神聖其揆一也。故読其書。則其義通。無所間隔。其趣向猶合符節。採挹斟酌。則又以足補助王化矣。窃按。誉田帝虚己徴百済博士。後中国広通外朝之典籍。知聖賢之言行。是乃住吉大神之賚也。或疑。外朝不通我而文物明。我因外朝而広其用。則外朝優于我。愚按。否。自開闢神聖之徳行。明教無不兼備。雖不知漢籍。亦更無一介之闕。幸通外朝之事。取其所長。以輔王化。不亦寛容乎。何唯外朝而已。凡天下之間。詳知並畜。校短考長。待用無遺。従事是適。量之大也。内外相持。人物以成。若護短拒外。非君子所為。況外朝与我一其致。而其歴世尤久也。其封域太広也。其人物衆多。政事損益也。足共以睹之乎。是所以中州之冠八紘也。後世勘合絶不脩鄰交之好。亦我無不足。可并考也。或疑。王仁徳高。且善於毛詩。故為難波津之詠。遂以成仁徳帝之聖。愚按。否。王仁者通漢籍之博士也。此時人未通漢字。故造端於彼而已。後令阿知使主与王仁記官物之出納。〔見古語拾遺。〕則其職掌可知也。難波帝者。謙徳寛仁之明主。時無遺賢。朝無謬挙。古今以為聖帝。王仁之才徳不著于国史。食禄唯為文首。則可恥之至也。俗学末儒蔑中国以信外邦。是貴耳賤目之徒。附益助長之弊也。〔以上。学外朝之文〕 以上致教学之淵源。謹按。学者効也。効其不知不能也。近者見而知之。遠者聞而知之。人之生自幼孩至壮老。未嘗不由教学也。蓋人長万物者有知也。知之霊也。思無不通。致無不尽。故其為小人也。其為君子也。皆因学之所習。夫火有可然之質。而不用薪柴加以風。則不能長其威。水有可流之素。而不因卑下以疏導。則不得深其源。或暴之。或鑿之。則其害及人物。豈水火而已乎。学之於人不慎哉。故天神之生知。如動而感言而通。猶有思兼議謀之詳。及天孫之臨降。有神勅之厳。有神器常可守。有二神以輔養。其脩身治人之道至矣尽矣。是後世非聖教之淵源乎。或疑。中朝乏書史。久絶学校進士之設。故人才未得成乎。愚謂。神聖者見而知之。後世聞而知之。恐其差謬。記録相続。其筆削非聖人。未免臆説。編簡日盛。人以書為学。聖教漸隠。日用大晦。異其端。堅其白。而彫空虚。刻氷水。況学校進士之設。不得其実。則競詐偽。趨利勢而已。夫以博識。則尽華夷之書。未可為多。能通其道。則一言不可以為少。)況史編之不闕乎。
書き下し
誉田天皇十五年秋八月壬戌朔丁卯、百済王、阿直岐を遣はして良馬二匹を貢ぐ。即ち軽の坂上の厩に養はしむ。因りて阿直岐をして飼を掌らしむ。故に其の馬を養ふ処を号けて厩坂と曰ふ。阿直岐は亦能く経典を読む。即ち太子菟道稚郎子、師とす。是に天皇、阿直岐に問ひて曰く、如し汝に勝れる博士、亦有りや、と。対へて曰く、王仁といふ者有り、是れ秀れたり、と。時に上毛野君の祖荒田別・巫別を百済に遣はし、仍りて王仁を徴す。其の阿直岐は阿直岐史の始祖なり。十六年春二月、王仁来る。則ち太子菟道稚郎子、之を師とし、諸の典籍を王仁に習ひ、通達せざること莫し。故に所謂王仁は、是れ書首等の始祖なり。 百済王眞道〔後に菅野の姓を賜ふ。〕表を上りて〔延暦の朝。〕曰く、眞道等、本系は百済国の貴須王より出づ。貴須王は、百済始興第十六世の王なり。夫れ百済の太祖都慕大王は、日神霊を降し、扶余を奄ひて国を開く。天帝籙を授け、諸韓を総べて王と称す。降りて近肖古王に及び、遥かに聖化を慕ひ、始めて貴国に聘ふ。是れ則ち神功摂政の年なり。其の年、応神天皇、上毛野氏の遠祖荒田別に命じて百済に使ひせしめ、有識者を捜し聘ふ。国主貴須王、恭みて使者を奉じ、宗族を採択して、其の孫辰孫王〔一名は智宗王。〕を遣はし、使に随ひて入朝せしむ。天皇、焉を嘉し、特に寵命を加へ、以て皇太子の師と為す。是に始めて書籍を伝へ、大いに儒風を闢く。文教の興、誠に是に在り。仁徳天皇、辰孫王の長子阿郎王を以て近侍と為す。桓武の朝、武生連眞象等言す、漢の高祖の後を鸞と曰ふ。鸞の後は王狗、転じて百済に至る。久素王の時、聖朝、使を遣はして文人を徴召す。久素王即ち狗の孫王仁を以て貢ぐ。是れ又武生等の祖なり、と。 謹んで按ずるに、是れ中国、外国の経典を学ぶの始めなり。学者は修己治人を以て本と為す。修己治人の道、人情事物に通ぜざれば、即ち其の誠を得ず。夫れ天神の生知は通ぜざる無く、天祖の明教は尽くさざる無し。故に神武帝は洪基を建て、綏靖帝は至孝、崇神帝は日々に慎むこと一日より慎み、垂仁帝は矯飾する所無く、景行帝は雄謀、成務帝は兢惕す。皆是れ乾霊の正徳に従ひ、大神の明教を繹ね、以て人物の情を詳らかにし、当世の急務に施す。天秩以て叙び、人物処を得たり。是れ乃ち中州神聖の学の原にして、往古に著明にして、万世以て法るに足るなり。仲哀帝に及び、住吉大神、有宝国を賜ふ。神功帝親ら三韓を征し、三韓面縛して服従し、武徳を外国に耀かす。是より三韓毎年朝聘し、貢を献ずること船楫乾かず。故に外国の諸器及び経典、具はらざる無し。百済王の懇款の余り、博士・女工等を貢ず。是に於て中州始めて漢字を知る。応神帝は聖武にして聡達、博く外国の事に通ぜんと欲し、王仁を徴し、典籍を読ましめ、太子之を師とし、以て能く漢籍に通達す。凡そ外朝の三皇・五帝・禹・湯・文・武・周公・孔子の大聖も、亦中州往古の神聖と其の揆を一にす。故に其の書を読めば、則ち其の義通じ、間隔する所無し。其の趣向、猶ほ符節を合はすがごとし。採挹斟酌すれば、則ち又以て王化を補助するに足る。竊かに按ずるに、誉田帝、己を虚しくして百済の博士を徴し、後、中国広く外朝の典籍に通じ、聖賢の言行を知る。是れ乃ち住吉大神の賚なり。或ひと疑ふ、外朝は我に通ぜずして文物明らかなり。我は外朝に因りて其の用を広む。則ち外朝は我より優れるか、と。愚按ずるに、否。開闢の神聖の徳行、明教より、兼備せざる無し。漢籍を知らずと雖も、更に一介の闕くること無し。幸ひに外朝の事に通じ、其の長ずる所を取りて以て王化を輔くるは、亦寛容ならずや。何ぞ唯だ外朝のみならんや。凡そ天下の間、詳らかに知り並び畜へ、短を校べ長を考へ、用を待ちて遺す無く、事に従ひて是れ適するは、量の大なるなり。内外相持して、人物以て成る。若し短を護り外を拒むは、君子の為す所に非ず。況んや外朝は我と其の致を一にして、其の歴世尤も久しきをや。其の封域太だ広きをや。其の人物衆多にして、政事損益あるをや。足れる共に以て之を覩んや。是れ中州の八紘に冠たる所以なり。後世、勘合絶えて鄰交の好を脩めざるも、亦我に足らざる無し。並び考ふべし。或ひと疑ふ、王仁は徳高く、且つ毛詩に善し。故に難波津の詠を為し、遂に以て仁徳帝の聖を成す、と。愚按ずるに、否。王仁は漢籍に通ずる博士なり。此の時、人未だ漢字に通ぜず。故に端を彼に造るのみ。後に阿知使主と王仁とをして官物の出納を記さしむ。〔古語拾遺に見ゆ。〕則ち其の職掌知るべきなり。難波帝は、謙徳寛仁の明主にして、時に遺賢無く、朝に謬挙無し。古今以て聖帝と為す。王仁の才徳、国史に著れず、食禄は唯だ文首たるのみ。則ち恥づべきの至りなり。俗学末儒の中国を蔑して以て外邦を信ずるは、是れ耳を貴び目を賤しむの徒、附益助長の弊なり。〔以上、外朝の文を学ぶ。〕 以上、教学の淵源を致す。謹んで按ずるに、学とは効なり。其の知らず能はざるを効ふなり。近き者は見て之を知り、遠き者は聞きて之を知る。人の生まるるや、幼孩より壮老に至るまで、未だ嘗て教学に由らずんばあらず。蓋し人の万物に長たるは、知有るなり。知の霊なり。思ひて通ぜざる無く、致して尽くさざる無し。故に其の小人たるも、其の君子たるも、皆学の習ふ所に因る。夫れ火に然ゆべきの質有るも、薪柴を用ひて加ふるに風を以てせざれば、則ち其の威を長ずる能はず。水に流るべきの素有るも、卑下に因りて以て疏導せざれば、則ち其の源を深くするを得ず。或いは之を暴にし、或いは之を鑿てば、則ち其の害、人物に及ぶ。豈に水火のみならんや。学の人に於ける、慎まざるべけんや。故に天神の生知は、動きて感じ言ひて通ずるが如くなるも、猶ほ思兼の議謀の詳らかなる有り。天孫の臨降に及び、神勅の嚴なる有り、神器の常に守るべき有り、二神以て輔養する有り。其の身を修め人を治むるの道、至れり尽くせり。是れ後世聖教の淵源に非ずや。或ひと疑ふ、中朝は書史に乏しく、久しく学校進士の設を絶つ。故に人才未だ成るを得ざるか、と。愚謂ふ、神聖は見て之を知り、後世は聞きて之を知る。其の差謬を恐れ、記録相続く。其の筆削聖人に非ざれば、臆説を免れず。編簡日々に盛んにして、人は書を以て学と為し、聖教漸く隠れ、日用大いに晦し。其の端を異にし、其の白を堅くして、空虚を彫り、氷水に刻む。況んや学校進士の設、其の実を得ざれば、則ち詐偽を競ひ、利勢に趨くのみ。夫れ博識を以てすれば、則ち華夷の書を尽くすも、未だ多しと為すべからず。能く其の道に通ずれば、則ち一言も以て少しと為すべからず。況んや史編の闕けざるをや。
現代語訳
誉田天皇(応神天皇)の十五年秋八月三日に、百済王が阿直岐を遣わして良馬二匹を献上した。そこで軽の坂上の厩で飼わせた。阿直岐に飼育を担当させた。それでその馬を養う所を厩坂と名づけた。阿直岐はまた経典をよく読むことができた。そこで太子の菟道稚郎子が師とした。そこで天皇が阿直岐に問うた。「あなたに勝る博士はほかにいるか」。答えて言った。「王仁という者がいて、優れております」。その時、上毛野君の祖の荒田別と巫別を百済に遣わして、王仁を召した。この阿直岐は阿直岐史の始祖である。十六年春二月、王仁が来た。太子の菟道稚郎子は彼を師とし、もろもろの典籍を王仁に習い、通達しないものがなかった。いわゆる王仁は、書首らの始祖である。 百済王眞道(後に菅野の姓を賜った。)が上表して(延暦の朝のことである。)言った。「私眞道らの本来の系統は百済国の貴須王から出ております。貴須王は百済が興ってから第十六世の王です。そもそも百済の太祖の都慕大王は、日の神が霊を降し、扶余をおおって国を開きました。天帝が籙(予言書)を授け、諸韓を総べて王と称しました。降って近肖古王の代になり、遠く聖なる教化を慕って、はじめて貴国(日本)に使いを遣わしました。これが神功皇后の摂政の年です。その年、応神天皇が上毛野氏の遠祖の荒田別に命じて百済に使わし、学識のある者を探し求めさせました。国主の貴須王は恭しく使者を迎え、宗族の中から選んで、その孫の辰孫王(一名を智宗王という。)を使者に従わせて入朝させました。天皇はこれを喜ばれ、特別に寵命を加えて、皇太子の師とされました。ここに初めて書籍が伝わり、大いに儒の風が開けました。文教の興りは、まことにここにあります。仁徳天皇は辰孫王の長子の阿郎王を近侍とされました。桓武の朝に、武生連眞象らが申し上げました。漢の高祖の後裔を鸞といいます。鸞の後は王狗で、転じて百済に至りました。久素王の時、聖朝が使いを遣わして文人を召されました。久素王はそこで、王狗の孫の王仁を貢ぎました。これもまた武生らの祖です」。 素行はこう考える。これは中国(日本)が外国の経典を学んだ始まりである。学ぶ者は修己治人を本とする。修己治人の道は、人情と事物に通じなければその誠を得られない。天神の生まれながらの知はあらゆることに通じ、天祖の明らかな教えは尽くさないものがない。だから神武天皇は大きな基を建て、綏靖天皇は至孝で、崇神天皇は日々慎み、垂仁天皇は飾らず、景行天皇は雄大な計略があり、成務天皇は恐れ慎んだ。いずれも天の霊の正しい徳に従い、大神の明らかな教えをたずね、人や物の実情を詳しく知って、当世の急務に施した。天の秩序が整い、人や物が所を得た。これが中州(日本)の神聖の学の源であり、往古に明らかで、万世の法とするに足る。仲哀天皇の代になり、住吉大神が宝のある国(新羅)を与えた。神功皇后が自ら三韓を征し、三韓は面縛して服従し、武徳を外国に輝かせた。それから三韓は毎年朝貢に来て、貢物を運ぶ船の櫂が乾く間もなかった。だから外国の諸器物や経典はみな備わった。百済王が懇ろな誠意を示した余りに、博士や女工らを貢いだ。ここで中州は初めて漢字を知った。応神天皇は聖にして武、聡明で、広く外国の事に通じようとして、王仁を召し、典籍を読ませ、太子が師として、漢籍に通達した。そもそも外朝の三皇・五帝・禹・湯・文・武・周公・孔子の大聖も、中州の往古の神聖と同じ道を行っている。だからその書を読めばその義が通じ、隔たるところがない。その趣向は割符を合わせるようである。取り入れて斟酌すれば、王化を助けるに足る。私がひそかに考えるに、誉田天皇は己を虚しくして百済の博士を召し、その後、日本は広く外朝の典籍に通じ、聖賢の言行を知った。これは住吉大神の賜物である。ある人は疑う。外朝は我が国に通じずとも文物が明らかである。我が国は外朝によって用を広げた。それでは外朝は我が国より優れているのではないか、と。私が考えるに、そうではない。開闢の神聖の徳行や明らかな教えから、兼ね備えないものはない。漢籍を知らなくても、一つとして欠けるものはない。幸いに外朝の事に通じ、その長所を取って王化を助けるのは、寛容ではないか。外朝だけではない。天下の間にあるものを詳しく知り並び蓄え、短所を比べ長所を考え、用を待って余すことなく、事に従ってふさわしくするのが、度量の大きさである。内と外が互いに支え合って、人も物も成る。もし短所を守り外を拒むなら、君子のすることではない。まして外朝は我が国と致すところを同じくし、その歴史は特に久しく、その領域は非常に広く、その人物は多く、政事に損益がある。そのようなものを足りているとして見ずにおれようか。これが中州が八方の果てまで冠たる理由である。後世、勘合貿易が絶えて隣国との交わりを修めなくなっても、我が国に不足はない。併せて考えるべきである。ある人はまた疑う。王仁は徳が高く、毛詩にも優れていた。だから難波津の歌を詠み、それで仁徳天皇の聖が成ったのだ、と。私が考えるに、そうではない。王仁は漢籍に通じた博士である。この時、人はまだ漢字に通じていなかった。だから端緒を彼が開いただけである。後に阿知使主と王仁に官物の出納を記させた。(古語拾遺に見える。)それでその職掌が知れる。難波の帝(仁徳天皇)は、謙徳寛仁の明主で、時に遺賢なく、朝廷に誤った登用がなかった。古今、聖帝とされる。王仁の才徳が国史に著れず、食禄はただ文首の地位にとどまるなら、恥ずべきことの至りである。俗学の末流の儒者が中国(日本)を蔑んで外国を信じるのは、耳で聞いたことを貴び目で見たことを賤しむ者で、付け足して助長する弊害である。(以上、外朝の文を学ぶ。) 以上、教えと学びの淵源を述べた。素行はこう考える。学とは効(ならう)ことである。知らないこと、できないことを倣うのである。近い者は見て知り、遠い者は聞いて知る。人は生まれてから幼い時から老年に至るまで、教えと学びによらないことはない。思うに人が万物の長であるのは、知があるからである。知の霊妙さである。思えば通じないことなく、尽くせば尽くせないことがない。だから小人となるのも君子となるのも、みな学んで習う内容による。そもそも火には燃える性質があっても、薪を用い風を加えなければその勢いを増せない。水には流れる素質があっても、低い所に沿って疏通させなければその源を深くできない。乱暴に扱ったり掘りすぎたりすれば、害が人や物に及ぶ。水火だけの話ではない。学が人に与える影響は、慎まずにいられようか。だから天神の生まれながらの知は、動けば感じ、言えば通じるようでも、なお思兼の議と謀の詳しさがあった。天孫が降臨するにあたって、厳しい神勅があり、常に守るべき神器があり、二神が補い養った。その身を修め人を治める道は、尽くし切っている。これが後世の聖教の淵源ではないか。ある人は疑う。中朝は書物と歴史に乏しく、長く学校や進士の制度が途絶えていた。だから人材が育たなかったのではないか、と。私が思うに、神聖は見て知り、後世は聞いて知る。差違や誤りを恐れて記録が相次いだ。その編纂が聖人でなければ、憶説を免れない。書物が日に盛んになると、人は書物を学問とみなし、聖教はしだいに隠れ、日用の道は大いに暗くなる。端を異にし、白を堅くして(詭弁をろうして)、空虚を彫り、氷や水に刻むようなことをする。まして学校や進士の制度が実質を得なければ、偽りを競い、利益や権勢に走るだけである。博識を求めれば、中国と夷狄の書を尽くしても多いとはいえない。その道に通じれば、一言でも少ないとはいえない。まして史書の欠けていないことはなおさらである。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
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史記 晋世家二月辛丑、咎犯秦・晋の大夫と郇に盟ふ。壬寅、重耳晋の師に入る。丙午、曲沃に入る。丁未、武宮に朝し、即位して晋君と為る。是を文公と為す。群臣皆往く。懐公圉高梁に奔る。戊申、人をして懐公を殺さしむ。懐公の故の大臣呂省・郤芮本より文公に附かず。文公立ち、誅せられんことを恐れ、乃ち其の徒と謀りて公宮を焼き、文公を殺さんと欲す。文公知らず。始め嘗て文公を殺さんと欲せし宦者履鞮其の謀を知り、以て文公に告げて、前の罪を解かんと欲し、文公に見えんことを求む。文公見えず、人をして譲めしめて曰く、「蒲城の事、女予が袪を斬る。其の後我狄君に従ひて猟す。女恵公の為に来たりて我を殺さんことを求む。恵公女と期するに三日にして至れとす。而るに女一日にして至る。何ぞ速やかなるや。女其れ之を念へ」と。宦者曰く、「臣は刀鋸の余なり。敢て二心を以て君に事へ主に倍かず。故に罪を君に得たり。君已に国に反る。其れ蒲・翟無からんや。且つ管仲鉤を射て、桓公以て覇たり。今刑余の人事を以て告ぐるも君見えずんば、禍又且に及ばんとす」と。是に於て之に見ゆ。遂に呂・郤等を以て文公に告ぐ。文公呂・郤を召さんと欲す。呂・郤等は党多し。文公初めて国に入り、国人の己を売らんことを恐れ、乃ち微行を為し、秦の繆公に王城に会す。国人知る莫し。三月己丑、呂・郤等果たして反し、公宮を焚くも、文公を得ず。文公の衛徒与に戦ふ。呂・郤等兵を引きて奔らんと欲す。秦の繆公呂・郤等を誘ひ、之を河上に殺す。晋国復して文公帰るを得たり。夏、夫人を秦に迎ふ。秦の文公に妻す所の者卒に夫人と為る。秦三千人を送りて衛と為し、以て晋の乱に備ふ。文公政を修め、恵みを百姓に施す。従亡の者及び功臣を賞し、大なる者は邑を封じ、小なる者は爵を尊くす。未だ尽くは賞を行はざるに、周の襄王弟帯の難を以て出でて鄭の地に居り、来たりて急を晋に告ぐ。晋初めて定まり、兵を発せんと欲するも、他の乱の起こらんことを恐る。是を以て従亡を賞するに未だ隠者介子推に至らず。推も亦た禄を言はず、禄も亦た及ばず。
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『十善法語』巻第六・不惡口戒愚ナル者ハ。謹慎ハ窮窟ナルヤウニ思ヒ。放逸ハ安楽ナルヤウニ思フ。サウデナイ。誠ノ楽ハ謹慎篤実ノ上ニ在テ。燕安放逸ノ処ニハナイ。愚ナル者ハ。謹慎篤実ナレハ不器量ナル様ニ思ヒ。倨傲大胆ナレハ一器量アル様ニ思フ。サウテナイ。誠ノ度量ハ謹慎篤実ノ上ニ在テ。倨傲大胆ノ処ニハナキシヤ。古稽叔夜カ鍾会ヲ侮テ。後其身刑セラル。其養生論閑言語トナル。知伯カ韓魏ヲ侮テ。終ニ身ヲ亡シ国ヲ亡ス。其强土堅甲ミナ敵ノ資トナル。稽叔夜カ自ラ才ヲ負ミ。知伯カ自ラ威名ニ夸ル。実ヲ剋スレハ。ミナ其量ノ狭小ナルヨリ起ル。耻ヘキコトシヤ。
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史記 項羽本紀其の後に最(あつ)まりて、郎中騎楊喜、騎司馬呂馬童、郎中呂勝・楊武各々其の一体を得たり。五人共に其の体を会するに、皆是なり。故に其の地を分かちて五と為し、呂馬童を封じて中水侯と為し、王翳を封じて杜衍侯と為し、楊喜を封じて赤泉侯と為し、楊武を封じて呉防侯と為し、呂勝を封じて涅陽侯と為す。項王已に死し、楚の地皆漢に降る、独り魯のみ下らず。漢乃ち天下の兵を引きて之を屠らんと欲す、其の礼義を守り、主の為に節に死するが為に、乃ち項王の頭を持ちて魯に視(しめ)す、魯の父兄乃ち降る。始め、楚の懐王初めて項籍を封じて魯公と為す、其の死するに及びて、魯最後に下る、故に魯公の礼を以て項王を穀城に葬る。漢王為に哀を発し、之に泣きて去る。諸々の項氏の枝属、漢王皆誅せず。乃ち項伯を封じて射陽侯と為す。桃侯・平皋侯・玄武侯は皆項氏なり、姓劉氏を賜ふ。太史公曰く、吾之を周生に聞く、曰く「舜の目は蓋し重瞳子なり」と、又聞く項羽も亦重瞳子なりと。羽豈に其の苗裔ならんや。何ぞ興ることの暴かなるや。夫れ秦其の政を失ひ、陳渉難を首め、豪傑蠭起し、相与に并び争ふこと、勝げて数ふべからず。
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『酔古堂剣掃』集醒・內は精明にして外は渾厚好醜の心太だ明らかなれば、則ち物契はず。賢愚の心太だ明らかなれば、則ち人親しまず。須らく是れ內は精明にして、外は渾厚、好醜をして兩つながら其の平を得しめ、賢愚をして共に其の益を受けしむべし。纔かに是れ生成の德量なり。
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『近思録』巻10 政事感慨して身を殺すは易く、従容として義に就くは難し。人或は先生に勧むるに近貴に礼を加ふるを以てす。先生曰く、何ぞ責むるに礼を尽すを以てせずして、之を責むるに礼を加ふるを以てするや。礼尽せば則ち已む、豈に加ふること有らんや。或ひと問ふ、簿は、令を佐くる者なり。簿の為さんと欲する所、令或は従はずんば、奈何せん。曰く、当に誠意を以て之を動かすべし。今令と簿と和せざるは、只是れ私意を争ふのみ。令は是れ邑の長なり、若し能く父兄に事ふるの道を以て之に事へ、過は則ち己に帰し、善は則ち惟だ令に帰せざらんことを恐る。此の誠意を積まば、豈に人を動かし得ざること有らんや。問ふ、人議論に於て多く己を直くせんと欲し、含容の気無し。是れ気平らかならざるか。曰く、固より是れ気平らかならず、亦是れ量狭きなり。人の量は識に随ひて長ず。亦人の識高くして量長ぜざる者有り、是れ識実に未だ至らざるなり。大凡別事は、人都て強ひ得。惟だ識量は強ふべからず。今人に斗筲の量有り、釜斛の量有り、鍾鼎の量有り、江河の量有り。江河の量も亦大なり。然れども涯有り。涯有れば亦時有りて満つ。惟だ天地の量のみ則ち満つること無し。故に聖人は、天地の量なり。聖人の量は、道なり。常人の量有る者は、天資なり。天資の量有るは須らく限り有るべし。大抵六尺の軀、力量は只此くの如し。満たざらんと欲すと雖も、得べからざるなり。鄧艾の如き位三公、年七十。処し得て甚だ好し。蜀を下して功有るに因るに及び、便ち動き了る。謝安謝玄の苻堅を破るを聞き、客に対して碁を囲む。報至るも喜ばず。帰るに及びて屐歯を折る。強ふるも終に得ざるなり。更に人の大酔の後に益恭謹なる者の如き。只益恭謹なる、便ち是れ動き了るなり。放肆なる者と同じからずと雖も、其の酒の為に動かさるるは一なり。又貴公子の位益高くして、益卑謙なるが如き。只卑謙なる、便ち是れ動き了るなり。驕傲なる者と同じからずと雖も、其の位の為に動かさるるは一なり。然れども惟だ道を知る者のみ量自然に宏大なり。勉強せずして成る。今人の見る所卑下なる者有るは他無し、亦是れ識量足らざるなり。
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『春秋左氏伝』僖公二十三年 天の興す所、誰か廃せん子玉之を殺さんと請ふ。楚子曰く、「晉の公子は廣くして儉、文にして禮有り。其の從者は肅にして寬、忠にして能く力む。晉侯親無く、外內之を惡む。吾聞く、姬姓は唐叔の後、其の後に衰ふる者なりと。其れ將に晉の公子に由らんか。天將に之を興さんとす、誰か能く之を廢せん。天に違へば必ず大咎有り」と。乃ち諸を秦に送る。秦伯女五人を納る、懷嬴與る。匜を奉じて沃盥す、既にして之を揮ふ。怒りて曰く、「秦・晉は匹なり、何を以て我を卑しむる」と。公子懼れ、服を降して囚す。他日、公之を享す。子犯曰く、「吾衰の文なるに如かず、請ふ衰をして從はしめん」と。公子《河水》を賦し、公《六月》を賦す。趙衰曰く、「重耳賜を拜せよ」と。公子降りて、拜稽首す。公一級を降りて辭す。衰曰く、「君天子を佐くる所以の者を稱げて重耳に命ず、重耳敢へて拜せざらんや」と。