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中朝事実 / 武德章・神功皇后の三韓征伐と武徳

神功帝。因住吉大神之敎。便結分髮而爲髻。因以謂群臣曰。夫興師動衆。國之大事。安危成敗。必在於斯。今有所征伐。以事付群臣。若事不成者。罪在於群臣。是甚傷焉。吾婦女之加以不肖。然暫假男貌。强起雄略。上蒙神祇之靈。下藉群臣之助。振兵甲而度嶮浪。整艫船以求財土。若事就者。群臣共有功。事不就者。獨有罪。旣有此意。其共議之。群臣皆曰。皇后爲天下計。所以安宗廟社稷。且罪不及于臣下。頓首奉詔。秋九月庚午朔己卯。令諸國。集船舶。練兵甲。時軍卒自集。爰卜吉日而臨發有日。時皇后親執斧鉞。令三軍曰。金鼓無節。旌旗錯亂。則士卒不整。貪財多欲。懷私內顧。必爲敵所虜。其敵少而勿輕。敵强而無屈。則奸暴勿聽。自服勿殺。遂戰勝者必有賞。背走者自有罪。冬十月己亥朔辛丑。從和珥津發之。時飛廉起風。陽侯擧浪。海中大魚悉浮挾船。則大風順吹。帆舶隨波。不勞櫓楫。便到新羅。時隨船潮浪遠逮國中。即知天神地祇悉助歟。新羅王於是戰戰栗栗。厝身無所。則集諸人曰。新羅之建國以來。未嘗聞海水凌國。若天運盡國爲海乎。是言未訖之間。船師滿海。旌旗耀日。鼓吹起聲。山川悉振。新羅王遙望以爲非常之兵。將滅己國。讋焉失志。乃今醒之曰。吾聞。東有神國。謂日本。亦有聖王。謂天皇。必其國之神兵也。豈可擧兵以距乎。即素旆而自服。素組以面縛。封圖籍。降於王船之前。因以叩頭之曰。從今以後。長與乾坤。伏爲飼部。其不乾船柂。而春秋獻馬梳及馬鞭。復不煩海遠。以每年貢男女之調。則重誓之曰。非東日更出西。且除。阿利那禮河返以之逆流。及河石昇爲星辰。而殊闕春秋之朝。忍廢梳鞭之貢。天神地祇共討焉。時或曰。欲誅新羅王。於是皇后曰。初承神敎。將授金銀之國。又號令三軍曰。勿殺自服。今既獲財國。亦人自降服。殺之不祥。乃解其縛爲飼部。遂入其國中。封重寶府庫。收圖籍文書。即以皇后所杖矛。樹於新羅王門。爲後葉之印。故其矛今猶樹于新羅王之門也。爰新羅王波沙寢錦。即以微叱己知波珍于岐爲質。仍齎金銀彩色及綾羅縑絹。載于八十艘船。令從官軍。是以。新羅王常以八十艘之調。貢于日本國。其是之緣也。於是。高麗百濟二國王。聞新羅收圖籍降於日本國。密令伺其軍勢。則知不可勝。自來于營外。叩頭而歎曰。從今以後。永稱西蕃。不絕朝貢。故因以定內官家。皇后從新羅還之。 謹按。是西戎征伐之始也。仲哀帝朝。住吉大神以西戎之外夷賜之。帝不信而早崩。皇后繼志述事。不血刃而高麗新羅百濟皆從服。三韓爲官家之藩屏。應神帝生備聖武之形。〔產之宍生腕上。其形如鞆。故稱其名。謂譽田天皇。上古俗號鞆曰褒武多。〕奉謚八幡。爲天下之武神。以其祭祀事之。猶伊勢御神。武家殊崇敬之。噫靈德盛哉。自是三韓每年來朝奉貢。受正曆於朝廷。問政事於我國。四國來作池。〔應神七年秋九月。高麗百濟新羅任那來朝。時命武內領諸韓人等作池。因以名池號韓人池。〕示其柔懷。質子弟。貢博士。以叩款誠。間有不逞之罪。發將帥討之。百濟殺王以謝其無禮。鐵鎖酒君以獻其虜。〔應神四年。百濟辰斯王無禮。國中殺之謝。酒君事。在仁德四十一年。〕狹手彥討高麗。入王宮。獲珍寶。以奏其捷。〔在欽明二十一年〕或高麗獻鐵盾及的。〔栗盾人之技。在仁德十二年。〕或慢表彰。奉羽表。抗禮索知。而以受責察。〔高麗表無禮在應神二十八年。奉鳥羽表在敏達元年。〕故西戎懼其武德。服其雄才。悉爲我屬國也。蓋垂仁帝既命田道間守。遣常世國求香菓。然乃此時有并呑西戎之機。以成其功於若櫻朝也。皇后又發軍師。以平定比自炑南加羅喙國安羅多羅卓淳加羅七國。屠南蠻以賜百濟。處處置日本府。以布政令。中國之武德。至此大盛矣。吁中朝之文物。更不愧于外朝。如其威武。外朝亦不可比倫。故外朝之海防。唯要倭寇。倭寇者何。西州之邊民。虜掠于彼也。非官兵之寇。而其落膽戰股然。明朝太祖。三遣使於我國。請寇疆之禁。欲修好眷眷。終垂祖訓以絕倭爲其一。是恐其威武之餘風也。〔以上征西戎〕 以上論武義之德。 謹按。五行有金。七情有怒。陰陽相對。好惡相並。是乃武之用不亦大乎。然用之不以其道。則害及人物。而終自燒。所以聖人以興亂人以廢也。豈是兵之罪乎。蓋神代之兵武也。惟神惟聖。而天討也。天兵也。其將帥軍伍。皆靈神也。然猶存其道。備其禮。而示其大事。可以鑑也。

新字:神功帝。因住吉大神之教。便結分髪而為髻。因以謂群臣曰。夫興師動衆。国之大事。安危成敗。必在於斯。今有所征伐。以事付群臣。若事不成者。罪在於群臣。是甚傷焉。吾婦女之加以不肖。然暫仮男貌。強起雄略。上蒙神祇之霊。下藉群臣之助。振兵甲而度嶮浪。整艫船以求財土。若事就者。群臣共有功。事不就者。独有罪。既有此意。其共議之。群臣皆曰。皇后為天下計。所以安宗廟社稷。且罪不及于臣下。頓首奉詔。秋九月庚午朔己卯。令諸国。集船舶。練兵甲。時軍卒自集。爰卜吉日而臨発有日。時皇后親執斧鉞。令三軍曰。金鼓無節。旌旗錯乱。則士卒不整。貪財多欲。懐私内顧。必為敵所虜。其敵少而勿軽。敵強而無屈。則奸暴勿聴。自服勿殺。遂戦勝者必有賞。背走者自有罪。冬十月己亥朔辛丑。従和珥津発之。時飛廉起風。陽侯挙浪。海中大魚悉浮挟船。則大風順吹。帆舶随波。不労櫓楫。便到新羅。時随船潮浪遠逮国中。即知天神地祇悉助歟。新羅王於是戦戦栗栗。厝身無所。則集諸人曰。新羅之建国以来。未嘗聞海水凌国。若天運尽国為海乎。是言未訖之間。船師満海。旌旗耀日。鼓吹起声。山川悉振。新羅王遥望以為非常之兵。将滅己国。讋焉失志。乃今醒之曰。吾聞。東有神国。謂日本。亦有聖王。謂天皇。必其国之神兵也。豈可挙兵以距乎。即素旆而自服。素組以面縛。封図籍。降於王船之前。因以叩頭之曰。従今以後。長与乾坤。伏為飼部。其不乾船柂。而春秋献馬梳及馬鞭。復不煩海遠。以毎年貢男女之調。則重誓之曰。非東日更出西。且除。阿利那礼河返以之逆流。及河石昇為星辰。而殊闕春秋之朝。忍廃梳鞭之貢。天神地祇共討焉。時或曰。欲誅新羅王。於是皇后曰。初承神教。将授金銀之国。又号令三軍曰。勿殺自服。今既獲財国。亦人自降服。殺之不祥。乃解其縛為飼部。遂入其国中。封重宝府庫。収図籍文書。即以皇后所杖矛。樹於新羅王門。為後葉之印。故其矛今猶樹于新羅王之門也。爰新羅王波沙寝錦。即以微叱己知波珍于岐為質。仍齎金銀彩色及綾羅縑絹。載于八十艘船。令従官軍。是以。新羅王常以八十艘之調。貢于日本国。其是之縁也。於是。高麗百済二国王。聞新羅収図籍降於日本国。密令伺其軍勢。則知不可勝。自来于営外。叩頭而嘆曰。従今以後。永称西蕃。不絶朝貢。故因以定内官家。皇后従新羅還之。 謹按。是西戎征伐之始也。仲哀帝朝。住吉大神以西戎之外夷賜之。帝不信而早崩。皇后継志述事。不血刃而高麗新羅百済皆従服。三韓為官家之藩屏。応神帝生備聖武之形。〔産之宍生腕上。其形如鞆。故称其名。謂誉田天皇。上古俗号鞆曰褒武多。〕奉謚八幡。為天下之武神。以其祭祀事之。猶伊勢御神。武家殊崇敬之。噫霊徳盛哉。自是三韓毎年来朝奉貢。受正暦於朝廷。問政事於我国。四国来作池。〔応神七年秋九月。高麗百済新羅任那来朝。時命武内領諸韓人等作池。因以名池号韓人池。〕示其柔懐。質子弟。貢博士。以叩款誠。間有不逞之罪。発将帥討之。百済殺王以謝其無礼。鉄鎖酒君以献其虜。〔応神四年。百済辰斯王無礼。国中殺之謝。酒君事。在仁徳四十一年。〕狭手彦討高麗。入王宮。獲珍宝。以奏其捷。〔在欽明二十一年〕或高麗献鉄盾及的。〔栗盾人之技。在仁徳十二年。〕或慢表彰。奉羽表。抗礼索知。而以受責察。〔高麗表無礼在応神二十八年。奉鳥羽表在敏達元年。〕故西戎懼其武徳。服其雄才。悉為我属国也。蓋垂仁帝既命田道間守。遣常世国求香菓。然乃此時有并呑西戎之機。以成其功於若桜朝也。皇后又発軍師。以平定比自炑南加羅喙国安羅多羅卓淳加羅七国。屠南蠻以賜百済。処処置日本府。以布政令。中国之武徳。至此大盛矣。吁中朝之文物。更不愧于外朝。如其威武。外朝亦不可比倫。故外朝之海防。唯要倭寇。倭寇者何。西州之辺民。虜掠于彼也。非官兵之寇。而其落胆戦股然。明朝太祖。三遣使於我国。請寇疆之禁。欲修好眷眷。終垂祖訓以絶倭為其一。是恐其威武之余風也。〔以上征西戎〕 以上論武義之徳。 謹按。五行有金。七情有怒。陰陽相対。好悪相並。是乃武之用不亦大乎。然用之不以其道。則害及人物。而終自焼。所以聖人以興乱人以廃也。豈是兵之罪乎。蓋神代之兵武也。惟神惟聖。而天討也。天兵也。其将帥軍伍。皆霊神也。然猶存其道。備其礼。而示其大事。可以鑑也。

書き下し

神功帝、住吉大神の教へに因りて、便ち髪を分けて結ひて髻と為す。因りて以て群臣に謂ひて曰はく、「夫れ師を興し衆を動かすは、国の大事なり。安危成敗、必ず斯に在り。今征伐する所有り。事を以て群臣に付す。若し事成らずは、罪は群臣に在り。是れ甚だ傷ましきかな。吾は婦女にして之に加へて不肖なり。然れども暫く男の貌を仮り、強ひて雄略を起こし、上は神祇の霊を蒙り、下は群臣の助けを藉り、兵甲を振ひて嶮浪を度り、艫船を整へて財土を求めむ。若し事就らば、群臣共に功有り。事就らずは、独り罪有り。既に此の意有り。其れ共に議れ」と。群臣皆曰はく、「皇后天下の為に計る。宗廟社稷を安んずる所以なり。且つ罪は臣下に及ばず」と。頓首して詔を奉る。秋九月庚午朔己卯、諸国に令して、船舶を集め、兵甲を練らしむ。時に軍卒自ら集まる。爰に吉日を卜して、発つに臨みて日有り。時に皇后親ら斧鉞を執り、三軍に令して曰はく、「金鼓節無く、旌旗錯乱すれば、則ち士卒整はず。財を貪り欲多く、私を懐き内に顧みれば、必ず敵の虜とならむ。其れ敵少なくとも軽んずること勿かれ。敵強くとも屈すること無かれ。則ち奸暴は聴すこと勿かれ。自ら服するは殺すこと勿かれ。遂に戦ひ勝たば必ず賞有り。背き走げば自ら罪有らむ」と。冬十月己亥朔辛丑、和珥津より発つ。時に飛廉風を起こし、陽侯浪を挙ぐ。海中の大魚悉く浮かびて船を挟む。則ち大風順に吹き、帆舶波に随ひ、櫓楫を労せず。便ち新羅に到る。時に船に随ふ潮浪遠く国中に逮ぶ。即ち知る、天神地祇悉く助けたまふかと。新羅王是に戦戦栗栗として、身を厝くに所無し。則ち諸人を集めて曰はく、「新羅の国を建てしより以来、未だ嘗て海水の国に凌ぶを聞かず。若し天運尽きて国海と為らむか」と。是の言未だ訖らざる間に、船師海に満ち、旌旗日に耀き、鼓吹声を起こし、山川悉く振ふ。新羅王遥かに望みて、非常の兵の、将に己が国を滅ぼさむとするかと以為ひ、讋れて志を失ふ。乃ち今醒めて曰はく、「吾聞く、東に神国有り、日本と謂ふ。亦聖王有り、天皇と謂ふと。必ず其の国の神兵ならむ。豈兵を挙げて以て距ぐべけむや」と。即ち素旆して自ら服し、素組して面縛し、図籍を封じて、王船の前に降る。因りて叩頭して曰はく、「今より以後、長く乾坤と与にし、伏して飼部と為らむ。其れ船柂を乾さず、春秋に馬梳及び馬鞭を献らむ。復た海遠きを煩はさず、毎年に男女の調を貢らむ」と。則ち重ねて誓ひて曰はく、「東より日更に西に出づるに非ず、且除、阿利那礼河返りて逆に流れ、河の石昇りて星辰と為るに非ずは、殊に春秋の朝を闕き、忍びて梳鞭の貢を廃めば、天神地祇共に討ちたまへ」と。時に或るひと曰はく、「新羅王を誅せむと欲す」と。是に皇后曰はく、「初め神教を承けて、金銀の国を授けむとす。又三軍に号令して、自ら服するを殺すこと勿かれと曰へり。今既に財の国を獲たり。亦人自ら降服す。之を殺すは不祥なり」と。乃ち其の縛を解きて飼部と為す。遂に其の国中に入り、重宝の府庫を封じ、図籍文書を収む。即ち皇后の杖きたまへる矛を以て、新羅王の門に樹てて、後葉の印と為す。故に其の矛は今も猶ほ新羅王の門に樹てり。爰に新羅王波沙寝錦、即ち微叱己知波珍于岐を以て質と為す。仍りて金銀彩色及び綾羅縑絹を齎して、八十艘の船に載せ、官軍に従はしむ。是を以て、新羅王常に八十艘の調を以て、日本国に貢ぐ。其れ是の縁なり。是に、高麗・百済の二国の王、新羅の図籍を収めて日本国に降れりと聞き、密かに其の軍勢を伺はしむるに、則ち勝つべからざるを知り、自ら営の外に来て、叩頭して歎きて曰はく、「今より以後、永く西蕃と称し、朝貢を絶たじ」と。故に因りて内官家を定む。皇后、新羅より還りたまふ。 謹按。是れ西戎征伐の始めなり。仲哀帝の朝、住吉大神、西戎の外夷を以て之を賜ふ。帝信ぜずして早く崩ず。皇后志を継ぎ事を述べ、刃に血ぬらずして、高麗・新羅・百済皆従服す。三韓は官家の藩屏と為る。応神帝、生まれながらにして聖武の形を備ふ。〔産まるるとき宍、腕の上に生ず。其の形鞆の如し。故に其の名を称して、誉田天皇と謂ふ。上古の俗、鞆を号して褒武多と曰ふ。〕謚を八幡と奉り、天下の武神と為り、其の祭祀を以て之に事ふること、猶ほ伊勢の御神のごとし。武家殊に之を崇敬す。噫、霊徳盛んなるかな。是より三韓毎年来朝して貢を奉り、正暦を朝廷に受け、政事を我が国に問ふ。四国来りて池を作る。〔応神七年秋九月、高麗・百済・新羅・任那来朝す。時に武内に命じて諸の韓人等を領ゐて池を作らしむ。因りて以て池に名づけて韓人池と号す。〕其の柔懐を示し、子弟を質とし、博士を貢して、以て款誠を叩く。間に不逞の罪有れば、将帥を発して之を討つ。百済は王を殺して以て其の無礼を謝し、鉄鎖して酒君を以て其の虜を献ず。〔応神四年、百済の辰斯王無礼なり。国中に殺して謝す。酒君の事は、仁徳四十一年に在り。〕狭手彦、高麗を討ち、王宮に入りて、珍宝を獲、以て其の捷を奏す。〔欽明二十一年に在り〕或いは高麗、鉄盾及び的を献る。〔楯を射貫く人の技なり。仁徳十二年に在り。〕或いは表を慢り、羽の表を奉り、礼に抗ひ、索めて知り、而して以て責めを受けて察せらる。〔高麗の表無礼なるは応神二十八年に在り。鳥の羽の表を奉るは敏達元年に在り。〕故に西戎は其の武徳を懼れ、其の雄才に服し、悉く我が属国と為る。蓋し垂仁帝、既に田道間守に命じて、常世国に遣はして香菓を求めしむ。然れば乃ち此の時、西戎を并呑するの機有りて、其の功を若桜朝に成せるなり。皇后又軍師を発し、以て比自炑・南加羅・喙国・安羅・多羅・卓淳・加羅の七国を平定し、南蛮を屠りて以て百済に賜ひ、処処に日本府を置きて、以て政令を布く。中国の武徳、此に至りて大いに盛んなり。吁、中朝の文物は、更に外朝に愧ぢず。其の威武の如きは、外朝も亦比倫すべからず。故に外朝の海防は、唯だ倭寇を要とす。倭寇とは何ぞ。西州の辺民、彼に虜掠するなり。官兵の寇に非ずして、其の落胆戦股すること然り。明朝の太祖、三たび使を我が国に遣はし、寇疆の禁を請ひ、好みを修めむと欲すること眷眷たり。終に祖訓を垂れて、絶倭を以て其の一と為す。是れ其の威武の余風を恐るるなり。〔以上、西戎を征す〕 以上、武義の徳を論ず。 謹按。五行に金有り、七情に怒有り、陰陽相対し、好悪相並ぶ。是れ乃ち武の用、亦大ならずや。然れども之を用ゐるに其の道を以てせざれば、則ち害人物に及び、終に自ら焼く。聖人以て興り、乱人以て廃する所以なり。豈に是れ兵の罪ならむや。蓋し神代の兵武や、惟れ神、惟れ聖にして、天討なり、天兵なり。其の将帥軍伍は、皆霊神なり。然れども猶ほ其の道を存し、其の礼を備へ、其の大事を示して、以て鑑とすべきなり。

現代語訳

神功帝は、住吉大神の教えにより、髪を分けて結い、男の髪型である髻にした。そして群臣に言った。「軍を起こし民衆を動かすことは国の大事である。国の安危も成否も、必ずここにかかっている。いま征伐に出ようとしている。このことは群臣に任せる。もし事が成らなければ、罪は群臣にあることになる。それはひどく心が痛む。私は女であり、そのうえ不肖の身である。それでもしばらく男の姿を借り、無理にも雄々しい謀を起こし、上は神々の霊威を受け、下は群臣の助けを借りて、武具を振るって険しい波を渡り、船を整えて財宝のある土地を求めよう。事が成れば、群臣みなに功がある。成らなければ、私ひとりに罪がある。すでにこの考えである。皆で議してほしい。」群臣は皆答えた。「皇后は天下のために計られます。宗廟と社稷を安んじるゆえんです。しかも罪は臣下に及ばないと仰せです。」頓首して詔を承った。秋九月の庚午朔の己卯の日、諸国に命じて船を集め、武具と兵を鍛えさせた。すると兵卒が自然に集まった。そこで吉日を占い、出発の日が近づいた。そのとき皇后は自ら斧鉞を執り、三軍に命じて言った。「鉦や太鼓に節がなく、旗が乱れれば、兵は整わない。財を貪り欲が多く、私心を抱いて内を顧みれば、必ず敵の虜になる。敵が少なくても軽んじてはならない。敵が強くても屈してはならない。悪事を働く者や乱暴な者は許してはならない。自ら降る者は殺してはならない。戦って勝てば必ず賞がある。背いて逃げれば自ら罪を受ける。」冬十月の己亥朔の辛丑の日、和珥津から出発した。そのとき風の神が風を起こし、波の神が波を挙げた。海中の大魚がことごとく浮かび上がって船を挟んだ。大風が追い風に吹き、帆船は波に乗って、櫓や櫂を使う苦労もなく新羅に着いた。船に従った潮の波は遠く国の中にまで及んだ。そこで天の神も地の神もことごとく助けておられるのだと知った。新羅王はこれにおののき震え、身の置きどころもなかった。そこで人々を集めて言った。「新羅が国を建てて以来、海水が国に押し寄せるなど聞いたことがない。もしや天運が尽きて、国が海になるのか。」この言葉が終わらぬうちに、船団が海に満ち、旗は日に輝き、鼓や笛の音が起こり、山も川もことごとく震えた。新羅王は遠くから眺め、尋常でない軍勢が自分の国を滅ぼそうとしているのかと思い、恐れて気力を失った。やがて我に返って言った。「私は聞いている。東に神の国があり、日本という。また聖王がおり、天皇という。きっとその国の神兵であろう。どうして軍を挙げて防げようか。」そこで白旗を掲げて自ら降り、白い組紐で自らの両手を後ろに縛って顔をさらし、地図と戸籍を封じて、王の船の前に降った。そして叩頭して言った。「今から後、長く天地とともに、伏して飼部となりましょう。船の舵を乾かす間もなく、春と秋に馬の櫛と馬の鞭を献上します。また海の遠さをわずらわせることなく、毎年男女の貢ぎ物を差し出します。」さらに重ねて誓って言った。「東から日が出て西に沈むのでなく西から出るのでない限り、阿利那礼河が逆に流れ、河の石が昇って星になるのでない限り、春秋の朝貢をことさらに欠き、梳と鞭の貢ぎ物を平気でやめたならば、天神地祇がともに討ち給え。」そのとき、ある人が言った。「新羅王を誅殺したい。」皇后は言った。「初め神の教えを承けて、金銀の国を授けられることになった。また三軍に号令して、自ら降る者を殺してはならないと言った。いま財宝のある国を得た。しかも人が自ら降った。これを殺すのは不吉である。」そこでその縄を解いて飼部とした。そして新羅の国中に入り、重宝を納めた蔵を封じ、地図や戸籍の文書を収めた。皇后が杖としていた矛を新羅王の門に立て、後の世の印とした。だからその矛は今もなお新羅王の門に立っている。そこで新羅王の波沙寝錦は、微叱己知波珍于岐を人質とした。さらに金銀や彩色、綾や絹を携えさせ、八十艘の船に載せて官軍に従わせた。こうして新羅王は常に八十艘分の貢ぎ物を日本国に献上している。それはこの縁による。このとき、高麗と百済の二国の王は、新羅が地図と戸籍を収めて日本国に降ったと聞き、密かに日本軍の様子をうかがわせたところ、勝てないと知り、自ら陣営の外に来て、叩頭して嘆いて言った。「今から後、永く西の蕃国と称し、朝貢を絶やしません。」そこで内官家を定めた。皇后は新羅から帰還された。 素行はこう考える。これは西方の異民族を征伐した始まりである。仲哀帝の時代、住吉大神は西方の外夷を帝に与えようとしたが、帝は信じず、早く崩じた。皇后が志を継ぎ事を行い、刃に血をぬらさずに高麗・新羅・百済はみな従った。三韓は官家の藩屏となった。応神帝は生まれながらに聖なる武の形を備えていた。(生まれたとき、腕の上に肉が盛り上がり、その形が鞆のようだった。そこで誉田天皇と名づけた。上古の俗語では鞆を褒武多といった。)謚を八幡と奉り、天下の武神となり、その祭祀で仕えることは伊勢の神と同じようである。武家はとくに崇敬した。ああ、霊の徳の盛んなことよ。これより三韓は毎年来朝して貢ぎ物を奉り、暦を朝廷から受け、政事を我が国に尋ねた。四国が来て池を作った。(応神七年秋九月、高麗・百済・新羅・任那が来朝した。このとき武内に命じて諸々の韓人らを率いて池を作らせ、それで池を韓人池と名づけた。)その柔らかな懐柔を示し、子弟を人質とし、博士を貢いで、誠意を示した。時に不届きな罪があれば将帥を遣わして討った。百済は王を殺してその無礼を謝し、酒君を鉄の鎖につないで献上した。(応神四年、百済の辰斯王が無礼であった。国中で殺して謝罪した。酒君のことは仁徳四十一年にある。)狭手彦は高麗を討ち、王宮に入って珍宝を得て、勝利を奏上した。(欽明二十一年にある。)あるいは高麗が鉄の盾と的を献上した。(盾を射貫く人の技である。仁徳十二年にある。)あるいは表を侮り、羽に書いた表を奉り、礼に逆らい、求められて読み解かれ、責めを受けて見破られた。(高麗の表が無礼であったのは応神二十八年に、鳥の羽の表を奉ったのは敏達元年にある。)それゆえ西の異民族はその武徳を恐れ、その雄才に服し、ことごとく我が属国となった。思うに垂仁帝はすでに田道間守に命じて常世国に遣わし、香菓を求めさせた。とすればこのとき、西の異民族を併せる機があり、その功を若桜朝に成したのである。皇后はさらに軍を出し、比自炑・南加羅・喙国・安羅・多羅・卓淳・加羅の七国を平定し、南蛮を討って百済に与え、処々に日本府を置いて政令を布いた。中国の武徳は、ここに至って大いに盛んになった。ああ、中朝の文物は外朝に決して劣らない。その威武にいたっては、外朝も比べるべくもない。だから外朝の海防はただ倭寇を要とする。倭寇とは何か。西国の辺境の民が彼の地で略奪したものである。官兵の侵寇ではないのに、その恐れおののくさまはこのようだ。明の太祖は三度使いを我が国に遣わし、寇の禁止を求め、友好を結びたいと切々と望んだ。ついに祖訓を垂れて、倭との絶交をその一つとした。これは我が威武の余風を恐れたのである。(以上、西の異民族の征伐。) 以上、武の義の徳を論じた。 素行はこう考える。五行には金があり、七情には怒りがあり、陰陽は相対し、好みと憎しみは並び立つ。これは武の働きがいかに大きいかを示している。しかしこれを用いるのに正しい道によらなければ、害は人や物に及び、ついには自ら焼かれる。聖人が武で興り、乱人が武で滅ぶゆえんである。どうして兵の罪であろうか。神代の兵と武は、ただ神、ただ聖であって、天の討伐、天の兵であった。その将帥と兵卒はみな霊神である。それでもなおその道を保ち、礼を備え、大事を示している。これを鑑とすべきである。

解説

神功皇后の新羅出兵を『日本書紀』の記述に沿って述べ、素行が評を加えた長い段です。素行は、三韓が日本に服したことを武徳の現れと見て、これを日本の優越を示す根拠としています。これは江戸前期の素行の主張であり、史実の評価は別に考える必要があります。注目したいのは、出陣前に皇后が「失敗の罪は自分が負う」と述べ、軍令で規律と無欲を説く点です。責任の所在を先に明らかにし、勝つ前に規律を整える姿勢は、今の組織の大きな挑戦にも通じます。
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この章句が説くこと

神功皇后三韓武徳軍令責任倭寇

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